電磁誘導

毛毛毛毛

物理 23点

 現代科学が自然現象の本質をとらえているとは限らない。

 科学的な説明は、私たちの感覚にそぐわないことも多い。なるほど、私たちの感覚のほうが間違っているということもあろう。しかしながら、人類が先史から積み上げてきた観測的事実、それに基づくフィーリングには、たった二、三百年前に誕生した理論では到底太刀打ちできない深みがあるはずだ。

 だから、私たちは、常に自身の感覚を参照して物事を考えるべきなのだ。


 つまり、私の中間考査の物理が23点だったというのも、仕方ないってこと。私は私のなかの「感覚」に従って解いたんだ。これは、きっと世界のほうが間違ってると思うんだよね。


「高村ぁ。ぼーっとしてたらまた再試落ちるぞー。合格するまで放課後は毎日拘束だからな」


 自己正当化に浸っていると、教卓から先生の小言が飛んできた。


「はーい。すみませんしたぁ」


 この先生、ネチネチしてて苦手なんだよなぁ。とはいえ、再試に合格しないと自由が手に入らないのも本当のこと。このままだとバスケ部のみんなにも迷惑がかかってしまう。ずっと補習を受け続けるわけにはいかない。


「それじゃあ先生は諸用でしばらく席を外すから、ちゃんと自習してるんだぞ。わかったな?」

「ういーっす」


 先生は引き戸をガラガラと開けて教室を出ていく。ちょっぴりホッとした。

 他人に、しかも苦手な先生の視線を感じながら勉強するのって、なんだか窮屈だ。問題を間違えているのとか、いちいち見られているような気分になって居心地が悪い。だから自習室もちょっと苦手。自意識過剰かもしれないけど。

 そう、この教室には、今は私のみ。この機にしっかり集中して勉強すれば、再試も乗り越えられるはず。さて、教科書はどこまで読んだっけなぁ……。


「高村?」

「!?」


 唐突に、背後から男子の声。

 恐る恐る振り向くと、同じ二年五組の吉田くんだった。びっくりしたぁ、心臓に悪いよ。いつの間にいたのか。


「バスケ部の顧問の先生が探してたよ。なんか次の試合に向けて色々決めるからそろそろ部活来いってさ」

「あはは……。もう三日も行けてないからね」


 今週末には他校との練習試合が控えている。それまでにはちゃんと調整を入れておきたいんだけど、あの物理教師がそうはさせてくれない。いや、私の赤点が全ての元凶ではあるのだけれども。


「三日って、それ全部補習のせい?」

「いえす。私、物理ほんとだめなんだよね」

「なんで理系選んだん?」

「数学は得意なので……」


 数学できて物理できないことある? と、吉田くん。私もそう思いますよほんとに。


「あーもー。マジどうしよ」

「俺が教えてやろうか?」

「えー何? ずいぶん偉そうじゃん」

「俺一応、今回の物理、学年三位だったんだけど」


 そう、吉田くんはとっても頭がいい。そんな彼からの、勉強を教えてくれるという申し出。断る理由はない。はずなのに、私の口から出るのは、軽口ばかり。


「一位じゃなくて三位なのが微妙にダサいよね」

「うざ。お前もう一生再試落ちろ」


 吉田くんの頬がちょっと赤い。自慢げに三位とか言ったのが恥ずかしくなってきたのだろう。可哀想なこと言っちゃったな。


「……で、どこが分からんの?」

「え、あ、結局教えてくれるんだ。ありがと」


 吉田くんはなんだかんだ優しい。勉強を教えると提案してくれたのも、優越感に浸りたいから、とかそういうのじゃないのだろう。

 そういうわけで、彼は結構モテるようだ。バカばっかりな高校生男子だが、その中で気遣いができる人というのはポイントが高い。おまけに吉田くんはサッカー部。サッカー部という箔は、それだけで人気の象徴だからね。


「——このさ、電磁誘導のとこがわかんなくて」

「結構複雑だよな、そこ」


 吉田くんは、私の後ろから覗き込むような形で一緒に教科書を見ている。顔が近くて少し緊張する。

「教科書に書き込んでもいいか?」と聞かれたので、うん、と答えてシャーペンを貸した。


「まず、コイルの中の磁束が変化した時、誘導機電力が生じるってのはいいよな?」

「はいはーい。ずっと思ってたんですけど、磁束って何ですか?」

「そこからかよ。磁気の流れる量っていうか、まあ磁石パワーぐらいに思っとけばいいよ」


 「磁石パワー」とか、いかにも子供っぽい表現だ。さては私のこと舐めてるな? こいつ。


「まあ、それでコイルの中の磁束が増えると、それに抵抗して磁束を減らそうとするんだ。磁気と電気は連動してるから、コイルに電流を流せば磁束も調節できるだろう、って感じで電圧が生まれるわけ」

「へぇ。え、じゃあさ、この問題は——」


 次なる質問をしようと思って、教科書をめくろうとした私の手が、吉田くんの手と触れた。その瞬間、吉田くんがものすごい勢いで腕を引っ込めた。


「吉田くん?」

「……っ」

「えっと、なんかごめん」


 なぜか気まずい雰囲気。手が触れただけなのに、なんだかオーバーリアクションな吉田くん。垢抜けた見た目なのに、案外ウブなところがあるのだろうか。そんな吉田くんを見ていると、こちらまで照れてくる。


「……で、どの問題?」

「えっ?」

「まだ聞きたいことあるんだろ?」

「あ、そうそう。この問題の——」


 吉田くんが再び話を前に進めようとしたので、それに乗っかる。


「——って感じでさ、磁束があるのにこの時は電流が流れないの。なんなのこれ?」

「なるほどな。そこでわかんなくなるやつ、確かに多いかもな。電磁誘導はさ、磁束が『変化』しないと起きないんだよ。いくら強い磁束でも、磁束が『あるだけ』じゃだめなんだ」

「そうなの?」

「誘導起電力は、磁束の強さじゃなくて磁束の時間変化率で決まるんだよ」

「あ、時間で微分すればいいのか」

「急に物分かり良いな」

「数学は得意なので……」


 「磁石パワー」があるんだから、電流が流れたって良いじゃないと思うが、そういうものでもないのか。これだから物理は嫌いだ。あんまり私の感覚とマッチしない。


「なんか、へんなの」

「そうか?」

「だって、せっかく磁束があるのになんも起きないなんて、へんじゃない?」

「うーん。俺は、『変化しないと何も生まれない』って感じで、なんなら現実に即してる感じするけどな」

「何それ、かっこいい」

「そう言われると恥ずいんだけど」


 と、そこで、教室の引き戸がガラガラと鳴った。


「戻ってきたぞー。って、なんだ、吉田いるじゃん」


 物理教師が帰ってきてしまった。せっかく楽しくお勉強してたのに、邪魔しないでほしい。教師に向かって勉強の邪魔だなんて、我ながらすごい逆説。


「吉田が教えてくれてたのか?」

「ええ、まあ」

「そりゃよかった。先生が教えるより高村も乗り気だったし、もうちょっと教えてってくれるか?」


 「先生が教えるより」と言ったときに、先生は恨めしそうな目で私の方を見てきた。こういうネチっこいところが苦手なんだよなぁ。

 吉田くんはといえば、なぜか頬を紅潮させている。今日は彼の赤い顔ばかり見ている気がするな。


「ごめんなさい。俺、忙しいんで。それじゃ」


 言い終わるのを待たずして、吉田くんはそそくさとドアまで歩いて行った。そんなに忙しかったなら、わざわざ構ってくれなくてもよかったのに。あ、帰っちゃう前にお礼だけは言わないと。


「吉田くん、ありがとうね!」


 私の声に、吉田くんはドアの前で立ち止まると、チラリとこちらを振り返って。

 「おう」と小さな声で一言だけ返すと、そのまま教室を出て行った。


「——先生来たら急に慌てちゃってさぁ。なんででしょうね?」

「まあ、あいつも色々あるんだよ。仲良くしてやってくれ」

「? まあ仲良くはありたいなと思いますけど」


 先生は教卓に位置どると、手持ちのバッグの中をやおら漁り始めた。何を取り出すのかと思えば。

 ——再試のプリントだ。


「吉田に教えてもらったんだろ。今なら合格できるんじゃないか?」

「えー、そんな、いきなり無理ですよ」

「とはいってもな、あと再試で残ってるのはお前だけなんだよ。俺としても、さっさと合格してもらって終わらせたいわけだ」

「うへぇ」


 机上にプリントが置かれる。まあ、私だって、ここらで合格しておきたい。

 そうだ。


「ちょっと待っててもらって良いですか?」

「あ? なんだ?」


 ポーチから、ヘアピンを取り出して前髪を留めてみる。


「これでよし」

「はぁ。なんなんだ?」

「いやね、私も絶対受かりたいので。ちょっと工夫を」

「それと髪留めに、なんの関係があるんだ?」

「ほら、『変化しないと何も生まれない』っていうじゃないですか」

「聞いたことねぇよ。誰の言葉だ?」


 吉田くん、と答えそうになって、喉元でこらえた。また、吉田くんが恥ずかしがるからね。

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