第6話 崩壊
離婚を切り出してから、家の中は戦場になった。
昭雄は最初、離婚を拒んだ。プロジェクトの途中だ、スキャンダルは困る、もう少し待ってくれ。そればかり繰り返した。
「あなたの都合ばかりね」
「現実の問題だろう。俺が取締役になれなかったら、経済的にも——」
「私、働いてるわよ。自分で食べていける」
「絵画教室と倉庫のバイトで? 馬鹿言うな」
その言葉が、陽子の中の何かを壊した。
「馬鹿言ってるのはどっちよ。ベトナムで女作っておいて、偉そうに」
「あれは——」
「あれは何? 遊び? 本気? どっちにしても、私を裏切ったことに変わりないでしょう」
言い争いは、毎晩続いた。
瑠美は自室にこもっていた。聞こえているはずだ。薄い壁越しに、両親の罵り合いが。
ある夜、瑠美がリビングに降りてきた。
「うるさい。勉強できない」
冷たい声だった。陽子は娘を見た。十八歳の顔。受験のストレスで、頬がこけていた。
「ごめんね、瑠美——」
「何やってるの、二人とも。いい年して」
「瑠美、お前は黙ってろ」
昭雄が言った。瑠美の目が、父親を射抜いた。
「お父さんが浮気したんでしょ。お母さん、言ってたじゃない」
「それは——」
「最低」
瑠美は父親に背を向けた。そして母親を見た。
「お母さんも。男がいるって、どういうこと」
陽子は答えられなかった。
「二人とも最低。子供のことなんて、何も考えてない」
瑠美は階段を駆け上がっていった。ドアが激しく閉まる音がした。
リビングに、沈黙が落ちた。
七月、離婚が成立した。
協議離婚だった。昭雄は最終的に折れた。プロジェクトは佳境だったが、これ以上家庭内の争いを続けることが、かえって仕事に支障をきたすと判断したのだろう。
財産分与は最低限。慰謝料はなし。互いに不貞があったから、どちらも請求しなかった。
瑠美の親権は陽子が取った。でも瑠美は、母親とも口をきかなくなっていた。
「お母さんの男って、誰なの」
ある日、瑠美が聞いた。
「……倉庫で知り合った人よ」
「いくつ」
「四十」
「お母さんより十も年下じゃない。気持ち悪い」
その言葉が、陽子の胸に刺さった。
「瑠美、私は——」
「聞きたくない。お母さんの言い訳なんて」
瑠美は部屋に戻っていった。
陽子は一人、リビングに残された。
気持ち悪い。娘にそう言われた。
でも、止められなかった。健二への気持ちは、止められなかった。
離婚が成立した日、陽子は健二に会った。
いつもの喫茶店。でも今日は、二人の空気が違った。
「離婚、したんすね」
「ええ」
「おめでとうございます」
健二が笑った。嬉しそうに。心から嬉しそうに。
「これで、山本さんは自由っすね」
「自由——」
「俺のものになれる」
その言葉に、陽子は少し引っかかった。
「私は、誰のものでもないわよ」
「そうすか? 俺は違うと思いますけど」
健二が陽子の手を握った。強く。
「山本さんは、俺のもんです。俺が見つけて、俺が守って、俺が愛してる。だから俺のもん」
「健二さん——」
「違います?」
陽子は答えられなかった。
健二の目が、陽子を捉えていた。熱い目。でもその熱の中に、何かがあった。執着。独占。所有欲。
怖い、と思った。でも同時に、安心もした。
こんなにも求めてくれる人がいる。こんなにも必要としてくれる人がいる。
それは、陽子がずっと欲しかったものだった。
「山本さん、一緒に住みましょう」
「え?」
「離婚したんだから、もう隠す必要ないでしょ。俺のアパートに来てください」
「でも、瑠美が——」
「娘さんは、もうすぐ大学でしょ? 受験終わったら、一人暮らしするかもしれないし」
「まだ分からないわ」
「じゃあ、受験が終わったら。それまで待ちます」
健二は笑った。でもその笑顔の裏に、譲らない意志があった。
「約束してください。受験が終わったら、俺のところに来るって」
陽子は頷いた。
頷いてしまった。
夏が過ぎ、秋が来た。
瑠美は受験勉強に没頭していた。母親とはほとんど口をきかない。必要最低限の会話だけ。
陽子は絵画教室と倉庫の仕事を続けていた。離婚後、経済的には厳しくなった。昭雄からの養育費はあったが、それだけでは足りない。
健二との関係は、深まっていった。
週末は必ず会った。健二のアパートに行くこともあった。狭い部屋。六畳一間。でも健二がいると、そこが世界の全てになった。
「山本さん、今日も綺麗っす」
「毎日同じこと言うのね」
「毎日思ってるんで」
同じやり取り。でも陽子には心地よかった。
体を重ねた。何度も。健二は優しかった。でも時々、その優しさの裏に、激しいものが見えた。
「山本さんは俺だけのもんっすよね」
「ええ」
「他の男と話したりしないでくださいね」
「してないわよ」
「本当に?」
「本当よ」
「良かった」
健二は陽子を抱きしめた。強く。痛いくらいに。
「俺、山本さんを失いたくないんです。山本さんがいなくなったら、俺、生きていけない」
その言葉が、陽子の首に巻きついた。
十一月、異変が起きた。
絵画教室の帰り道、陽子は駅で偶然、昔の同僚に会った。大学時代の知り合い。男性。世間話を少ししただけだった。
その夜、健二から電話が来た。
「今日、誰と話してたんすか」
「え?」
「駅で。男の人と」
陽子は凍りついた。
「見てたの?」
「たまたま通りかかったんです。誰なんすか」
「昔の知り合いよ。大学時代の」
「何話してたんすか」
「別に。挨拶しただけ」
「本当に?」
「本当よ」
電話の向こうで、健二が息を吐く音がした。
「すんません、疑って。でも、山本さんが他の男と話してるの見ると、どうしても——」
「健二さん、私を信じてないの?」
「信じてますよ。信じてます。でも不安なんです。山本さんを取られるんじゃないかって」
「取られないわよ。私は、あなたといるって決めたんだから」
「本当に?」
「本当よ」
「……ありがとうございます。愛してます」
「私も」
電話を切った後、陽子は自分の手を見た。
震えていた。
見ていた。健二は、陽子を見ていた。偶然? それとも——
分からない。分かりたくなかった。
十二月。瑠美の受験が近づいていた。
陽子は娘との関係を修復しようと、何度も話しかけた。でも瑠美は心を開かなかった。
「お母さん、いつ出ていくの」
ある日、瑠美が聞いた。
「何を——」
「あの男の人のところに行くんでしょ。私が大学に入ったら」
陽子は言葉を失った。
「分かってるわよ。お母さんが早くあの人のところに行きたいって思ってること」
「瑠美、そんなことは——」
「嘘つかないで」
瑠美の目が、冷たく光っていた。
「お母さんは、私よりあの男を選んだの。お父さんより、あの男を選んだの。家族より、自分の気持ちを選んだの」
「違う、私は——」
「何が違うの。全部本当でしょ」
陽子は何も言えなかった。
瑠美は背を向けた。
「私、大学受かったら、一人暮らしする。お母さんと一緒にいたくない」
その言葉が、陽子の胸を貫いた。
年が明けた。
二月、瑠美は志望校に合格した。
陽子は喜んだ。心から喜んだ。でも瑠美は、合格を告げる言葉以外、何も言わなかった。
「おめでとう、瑠美。良かったね」
「ありがとう」
それだけ。目も合わせなかった。
三月、瑠美は一人暮らしを始めた。大学の近くにアパートを借りた。引っ越しの手伝いを申し出たが、断られた。
「一人で大丈夫」
「でも——」
「お母さんは、あの人のところに行けばいいじゃない。もう自由なんだから」
瑠美は荷物をまとめて、出ていった。
陽子は一人、空っぽになった部屋に立っていた。
自由。
そう、自由だ。夫はいない。娘も出ていった。
残ったのは、健二だけだった。
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