第5話 均衡

 関係が始まってから、陽子の生活は二重になった。

 表では、変わらない日常。絵画教室で生徒を教え、家で娘の世話をし、出張中の夫に時々LINEを送る。何も変わっていないように見える生活。

 裏では、健二がいた。

 倉庫での仕事の日は、必ず二人で帰った。駅までの十五分。その十五分が、陽子には何よりも大切な時間になっていた。

「山本さん、今日も綺麗っすね」

「毎日同じこと言うのね」

「毎日思ってるんで」

 健二は陽子の手を握る。人目を気にしながら、でも離さない。その手の温かさに、陽子は溺れていった。

 週末には、隣町の喫茶店で会った。あの薄暗い店。二人だけの場所。

 キスをした。何度も。体を重ねることは、まだなかった。でも健二は急かさなかった。

「山本さんのペースでいいっすよ。俺、待てるんで」

 その言葉が、かえって陽子を追い詰めた。優しさが、じわじわと陽子を縛っていった。


 五月の終わり、昭雄から珍しく電話が来た。

「来月、一時帰国する」

「そう。いつ?」

「十日から二週間くらい。会議があるんだ」

「分かった」

 それだけの会話。夫婦の会話とは思えないほど、事務的だった。

 電話を切った後、陽子は健二にLINEを送った。

『来月、夫が帰ってくる』

 返信はすぐに来た。

『そうすか。どのくらい?』

『二週間』

『会えなくなりますね』

『……そうね』

『寂しいっす』

『私も』

『でも、待ちますから。山本さんが戻ってくるまで』

 陽子はスマートフォンを握りしめた。

 待ってくれる。健二は待ってくれる。その言葉に、陽子は救われていた。

 でも同時に、怖かった。

 昭雄が帰ってくる。二週間、同じ屋根の下で暮らす。顔を見て、話をして、同じ食卓につく。

 その間、自分は平静でいられるだろうか。


 六月十日、昭雄が帰国した。

 成田空港まで迎えに行った。瑠美は模試があるからと、家に残った。

 到着ロビーで昭雄を見つけたとき、陽子は一瞬、他人を見ているような気持ちになった。

 三ヶ月ぶりの夫。少し痩せていた。疲れた顔をしていた。でも目は、どこか落ち着かなかった。

「お帰り」

「ああ、ただいま」

 車に乗り込む。高速道路を走りながら、ぽつぽつと会話をした。仕事の話。ベトナムの気候の話。プロジェクトの進捗の話。

 陽子のことは、何も聞かなかった。絵画教室のこと、家のこと、瑠美のこと。何も。

 いつものことだった。昭雄は自分の話しかしない。陽子の話は、聞いてもすぐに忘れる。

「プロジェクト、うまくいってるの?」

「まあな。順調だよ。これが成功すれば、取締役も見えてくる」

「そう。良かったね」

「ああ」

 それだけ。昭雄は窓の外を見ていた。何を考えているのか、陽子には分からなかった。

 分かりたいとも思わなかった。


 昭雄が帰ってきてから、家の空気が変わった。

 変わった、というより、歪んだ。

 表面上は普通だった。朝食を一緒に食べ、夜は陽子が作った夕飯を食べ、テレビを見て、寝る。十八年間続けてきた日常。

 でも陽子には、その日常が薄い膜のように感じられた。触れれば破れる、脆い膜。

 健二とのLINEは続けていた。昭雄が寝た後、深夜に。

『旦那さん、どうすか』

『普通よ。いつも通り』

『触られたりしてないすか』

 その質問に、陽子は少し驚いた。

『……してないわよ。もう何年も、そういうことはないから』

『良かった』

『良かったって何よ』

『山本さんに触れていいのは、俺だけでいてほしいんで』

 陽子は画面を見つめた。

 独占欲。健二の中にある、強い独占欲。最初は心地よかった。求められている証だと思った。でも最近、少しだけ怖くなってきた。

『健二さん、重いわよ』

『重くていいんです。山本さんに対しては、重くいたいんで』

『……』

『嫌ですか』

『嫌じゃない。でも——』

『でも?』

 陽子は何と答えればいいか分からなかった。嫌ではない。本当に嫌ではない。でも、この先どうなるのか、見えなかった。

『何でもない。おやすみ』

『おやすみなさい。山本さんのこと、ずっと考えてます』

 陽子はスマートフォンを閉じた。

 隣で昭雄が寝ている。その寝息を聞きながら、陽子は天井を見つめた。

 私は何をしているのだろう。

 夫の隣で、別の男のことを考えている。別の男の言葉に、心を揺らしている。

 罪悪感があるはずだった。でも薄かった。驚くほど薄かった。


 昭雄が帰国して一週間が経った頃、異変が起きた。

 夜、昭雄がシャワーを浴びている間、リビングに置きっぱなしにされた昭雄のスマートフォンが鳴った。

 LINEの通知音。

 陽子は見るつもりはなかった。でも画面に表示された名前が、目に入ってしまった。

「Linh」

 知らない名前だった。外国人の名前。ベトナム人だろうか。

 通知には、メッセージの一部が表示されていた。

『I miss you so much. When will you come back?』

 陽子は凍りついた。

 miss you。恋しい。いつ戻ってくるの。

 それは、仕事の関係者が送るメッセージではなかった。

 陽子はスマートフォンを手に取った。取ってから、何をしているのか分からなくなった。でも指が勝手に動いた。画面をスワイプした。ロックがかかっていなかった。

 LINEを開いた。「Linh」とのトーク履歴。

 スクロールした。読んだ。

 読みながら、体の芯が冷えていくのを感じた。

『今日も会えて嬉しかった』

『君といると、日本に帰りたくなくなる』

『妻とはもう終わってる。君だけだ』

『愛してる』

 写真もあった。若い女性。二十代だろう。黒髪のベトナム人。綺麗な顔立ち。昭雄と一緒に写っている写真もあった。レストランで、二人で笑っている。

 シャワーの音が止まった。

 陽子は慌ててスマートフォンを元の場所に戻した。

 昭雄がリビングに戻ってきた。髪を拭きながら、スマートフォンを手に取った。画面を見て、少しだけ表情が変わった。でもすぐに元に戻った。

「何か見たか?」

「何が?」

「いや、別に」

 昭雄はスマートフォンをポケットに入れた。それから、テレビのリモコンを取って、ソファに座った。

 何事もなかったように。

 陽子はキッチンに立った。水を一杯飲んだ。手が震えていた。

『妻とはもう終わってる』

 あの言葉が、頭の中で反響していた。

 終わってる。昭雄にとって、私との関係は「終わってる」。

 不思議と、怒りは湧かなかった。悲しみも、薄かった。

 ただ、空虚だった。

 そうか、と思った。お互い様なのだ。昭雄も、私も。互いを裏切っている。互いを欺いている。

 この結婚は、とっくに死んでいたのだ。


 その夜、陽子は健二に電話をした。

「どうしたんすか、こんな時間に」

「……夫が、不倫してた」

 電話の向こうで、健二が息を呑む音がした。

「見つけたんすか」

「スマートフォン、見てしまって。ベトナム人の若い女と——」

「ひどいっすね」

 健二の声は、怒りを含んでいた。

「山本さんみたいな人がいるのに、他の女と。許せないっす」

「……でも、私も同じことしてる」

「違いますよ」

「違わないわ。私もあなたと——」

「違います」

 健二の声が強くなった。

「山本さんは、愛されてなかったから俺のところに来た。でも旦那さんは、山本さんを愛さないまま、他の女のところに行った。全然違います」

「……」

「山本さんは悪くない。悪いのは旦那さんです」

 陽子は黙って聞いていた。

「俺、山本さんのこと守りますから。もう傷つけさせない」

 その言葉に、陽子は泣いた。声を殺して、泣いた。

「会いたいっす。今すぐ」

「無理よ。夫がいるから」

「じゃあ、明日。絶対」

「……分かった」

「約束ですよ」

「約束する」

 電話を切った。涙が止まらなかった。

 健二がいる。健二だけが、私を見てくれる。健二だけが、私を守ってくれる。

 その思いが、陽子の中で大きくなっていった。


 翌日、陽子は嘘をついて家を出た。

 絵画教室の用事があると言って、隣町の喫茶店に向かった。健二が待っていた。

「山本さん」

 健二が立ち上がった。陽子を抱きしめた。強く。

「辛かったっすね」

「……うん」

「もう大丈夫っす。俺がいるから」

 陽子は健二の胸に顔を埋めた。温かかった。安心した。

 この人がいれば、大丈夫。

 そう思った。

「山本さん、離婚、考えてますか」

 健二が聞いた。

「……分からない」

「考えたほうがいいっすよ。あんな旦那、いる意味ないでしょ」

「でも、瑠美が——」

「娘さんは、もう十八でしょ? 大人っすよ。大学に入れば、家を出るかもしれないし」

「……」

「山本さん、俺と一緒になりませんか」

 陽子は顔を上げた。健二の目が、真っ直ぐに陽子を見ていた。

「俺、山本さんと一緒にいたい。ずっと。毎日、山本さんの顔を見て、山本さんの声を聞いて、山本さんに触れていたい」

「健二さん——」

「答えは今じゃなくていいっす。でも、考えてください。俺は本気だから」

 陽子は頷いた。

 考える。考えなければ。

 でも頭の中は、もう健二でいっぱいだった。


 昭雄の帰国期間が終わりに近づいた頃、陽子は決意した。

 問い詰めよう。昭雄に。「Linh」のことを。

 ある夜、瑠美が自室に入った後、リビングで昭雄と二人になった。

「話があるの」

「何だ」

 昭雄はスマートフォンを見ながら答えた。画面から目を離さない。いつものことだった。

「あなた、ベトナムで女がいるでしょう」

 昭雄の手が止まった。顔を上げた。目が少し見開かれていた。

「……何の話だ」

「Linhという人。スマートフォン、見たの」

 沈黙が落ちた。

 昭雄は画面を閉じた。ソファに深く座り直した。

「いつ見た」

「先週。あなたがシャワーを浴びてる間」

「……そうか」

 昭雄は溜息をついた。否定しなかった。

「本気なの? その人と」

「分からない」

「分からない?」

「向こうは本気だろう。俺は——分からない」

 陽子は昭雄を見た。五十三歳の夫。出世を目指して働いてきた男。でも今、その顔には疲労と、そして罪悪感のようなものがあった。

「私と、別れたいの?」

「……今は困る。プロジェクトの途中だ。スキャンダルになったら——」

「そういうことを聞いてるんじゃない」

 陽子の声が、少し荒くなった。

「私を愛してるかって聞いてるの」

 昭雄は黙った。長い沈黙だった。

「……分からない」

 その言葉が、答えだった。

「そう」

 陽子は立ち上がった。

「私にも、いるわよ」

「何?」

「男が。私にも、男がいる」

 昭雄の顔が強張った。

「本気か」

「本気よ」

「誰だ」

「言う必要ある? あなたにも言わなかったでしょう、私に」

 昭雄は黙った。

 二人は向かい合っていた。夫婦として、十八年間。でも今、その関係は完全に壊れていた。

「どうする?」

 陽子が聞いた。

「どうするって——」

「離婚する? それとも、このまま続ける?」

 昭雄は頭を抱えた。

「待ってくれ。今は——プロジェクトが——」

「私はもう待たない」

 陽子の声は、自分でも驚くほど冷静だった。

「あなたが決めないなら、私が決める。離婚よ」

「陽子——」

「十八年、待ったわ。あなたが私を見てくれるのを。あなたが私の絵を理解してくれるのを。でも無駄だった」

 涙が出なかった。もう枯れていた。

「私、別の人と生きる。私を見てくれる人と」

 昭雄は何も言えなかった。

 その夜、二人は別々の部屋で眠った。

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