第4話 発火
日曜日は、よく晴れていた。
陽子は朝から落ち着かなかった。瑠美が図書館に行くと言って出かけるのを見送り、一人になった。
鏡の前に立つ。何を着ていくか、昨夜から考えていた。結局、紺のワンピースを選んだ。少しだけ胸元が開いたデザイン。買ってから一度も着ていなかった。買い物依存の時期に買った一着。
化粧をした。いつもより丁寧に。口紅の色も、少し明るいものにした。
馬鹿みたいだ。
四十九歳の女が、十も年下の男に会うために着飾っている。馬鹿みたいだ。
でもやめなかった。
待ち合わせ場所は、隣町の駅前だった。倉庫の近くは避けた。知り合いに見られたくなかったから。
駅に着くと、佐藤はもういた。私服姿を見るのは初めてだった。黒いシャツにジーンズ。作業着とは印象が違った。少しだけ、若く見えた。
「山本さん」
佐藤が近づいてきた。目が輝いていた。
「その服、すごく似合ってます」
「……ありがとう」
「今日、来てくれて嬉しいです。ずっと待ってたんで」
二人で歩き出した。佐藤が少し先導する形で、商店街を抜けていく。
「どこに行くの?」
「いい店知ってるんすよ。静かで、落ち着けるとこ」
連れて行かれたのは、雑居ビルの二階にある喫茶店だった。古い内装。薄暗い照明。客は他にいなかった。
奥の席に座る。向かい合う形。佐藤の目が、じっと陽子を見ていた。
「何飲みます?」
「コーヒーでいいわ」
佐藤が注文した。店員が去ると、また二人きりになった。
「緊張してます?」
「……少し」
「俺もっす。でも嬉しいほうが大きいっすね」
コーヒーが来た。陽子はカップを両手で包んだ。温かかった。
「山本さん、旦那さんとは、いつから上手くいってないんすか」
唐突な質問だった。でも陽子は答えた。
「……分からない。いつからだろう。気づいたら、こうなってた」
「最初から?」
「最初は違った。と思う。でも、何年も経つうちに——」
「絵のこと、分かってもらえなかったんすよね」
「ええ」
「それが一番辛かったんじゃないすか」
陽子は頷いた。
「私の一番大切なものを、見てもらえなかった。それが——」
「分かります」
佐藤が身を乗り出した。
「俺も、そういうこと経験したから。元嫁に、何も分かってもらえなかった。俺が何を考えてるか、何が好きか、何を大事にしてるか。全部、無視された」
「だから別れたの?」
「そうっす。二年で限界だった」
佐藤の目が、陽子を捉えていた。
「でも山本さんは、我慢してきたんすよね。十八年も」
「……子供がいたから」
「それだけ?」
「それだけじゃない。経済的なこともあったし、自分に自信がなかったし——」
「今は?」
「今?」
「今、旦那さんのこと、愛してますか」
陽子は言葉に詰まった。
愛しているか。昭雄を。
考えたことがなかった。というより、考えないようにしていた。
「……分からない」
「分からない、か」
佐藤は少し笑った。
「俺は、分かりますよ。山本さんは、旦那さんを愛してない」
「勝手に決めないで」
「でも当たってるでしょ」
陽子は黙った。否定できなかった。
「山本さんは、愛されたいんすよ。本当に見てくれる人に。本当に分かってくれる人に」
「……」
「俺、山本さんのこと見てます。ずっと見てる。山本さんの全部を、知りたいと思ってる」
佐藤の手が、テーブルの上で陽子の手に触れた。
「俺じゃ、駄目ですか」
心臓が止まりそうだった。
駄目だ。駄目に決まっている。夫がいる。娘がいる。こんなことは——
「……駄目よ」
陽子は言った。でも手を引かなかった。
「どうして」
「夫がいるから」
「愛してないのに?」
「それでも——」
「じゃあ、俺のことは?」
陽子は佐藤を見た。落ち窪んだ目。こけた頬。でもその目には、熱があった。陽子を求める熱。
「俺のこと、嫌いですか」
「……嫌いじゃない」
「好き?」
「分からない」
「じゃあ、これから分かればいいじゃないすか」
佐藤の手が、陽子の手を握った。強く。
「俺、待ちますから。山本さんが俺を選んでくれるまで。何年でも待ちます」
陽子は振り払うべきだった。立ち上がって、店を出るべきだった。
でもできなかった。
握られた手が、温かかった。誰かに触れられるのは、いつ以来だろう。昭雄は、もう何年も陽子に触れていない。
「佐藤さん——」
「健二でいいですよ」
「……健二さん」
「はい」
「私、四十九よ。あなたより九つも上。こんなおばさんを——」
「おばさんなんかじゃないっすよ。山本さんは綺麗です。俺、最初に見たときから、綺麗だと思ってた」
佐藤——健二が、立ち上がった。陽子の隣に移動してきた。
近い。体温が感じられるほど近い。
「山本さん」
「……何」
「キスしていいですか」
陽子は答えなかった。答える前に、健二の唇が重なってきた。
柔らかかった。温かかった。長いキスだった。
離れたとき、陽子の目から涙が溢れていた。
「泣いてる」
「……ごめん」
「謝らないでください。俺、山本さんを泣かせたかったわけじゃないんで」
「分かってる。分かってるの。でも——」
涙が止まらなかった。
何年も、こうやって誰かに求められることがなかった。誰かに触れられることがなかった。誰かに「綺麗だ」と言われることがなかった。
健二が陽子を抱きしめた。
「大丈夫っす。俺がいるから。これからは、俺が山本さんを見ますから」
その言葉に、陽子は頷いた。
もう後戻りできない。分かっていた。
でも後戻りしたくなかった。
その日の夜、陽子は自分の部屋で天井を見つめていた。
唇にはまだ、健二の感触が残っていた。
何をしてしまったのだろう。
夫がいる。娘がいる。それなのに、別の男とキスをした。不倫だ。明らかに。
でも罪悪感より、別の感情のほうが大きかった。
満たされた、という感覚。
空っぽだった器に、何かが注がれた。それがどんなに危険なものでも、陽子にはもう止められなかった。
LINEが来た。健二からだった。
『今日はありがとうございました。幸せでした』
『俺、山本さんのこと、本気で好きです』
『もう離さないんで。覚悟しといてください』
離さない。
その言葉に、陽子は震えた。
怖い。でも嬉しい。
藤井を思い出した。大学時代の彼氏。あの頃、藤井も同じようなことを言っていた。「君を離さない」と。でも陽子は、自分から離れた。藤井を捨てて、昭雄を選んだ。
今、その逆が起きている。
陽子が、昭雄を裏切ろうとしている。
因果応報だろうか。
でも、もう止められなかった。
『私も、嬉しかった』
返信を送った。
火が燃え始めていた。消せない火。消したくない火。
陽子は、堕ちていった。
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