第3話 接近

 水曜日が来た。

 陽子は朝から落ち着かなかった。鏡の前で服を選び直した。何を着ていくか迷った。結局、いつもと同じ黒のパンツとカーキのシャツに落ち着いたが、少しだけ口紅を塗った。

 馬鹿みたいだ、と思った。倉庫に行くのに化粧をして何になる。

 でもやめなかった。

 倉庫に着くと、佐藤はもういた。入口近くの棚の前に立っていた。陽子を見つけると、すぐに近づいてきた。

「山本さん、おはようございます」

「おはよう」

「待ってました」

 その言葉を、佐藤はさらりと言った。冗談のように。でも目は笑っていなかった。じっと陽子を見ている。

「……そう」

 陽子は視線を逸らした。ロッカーに向かって歩き出す。佐藤がついてくる気配があった。

「山本さん、今日も綺麗っすね」

「何言ってるの」

「本当のこと言ってるだけっすよ」

 佐藤の声は穏やかだった。でもその穏やかさの奥に、何かがあった。陽子には掴めない何か。

 更衣室の前で立ち止まる。「じゃあ、また後で」と言って中に入った。一人になると、心臓が速くなっているのに気づいた。

 待ってました。

 その言葉が、胸の中で反響していた。


 午前中の作業は、佐藤と二人だった。

 他のスタッフは別のエリアにいて、陽子と佐藤は倉庫の奥で検品作業をしていた。段ボールを開け、中身を確認し、伝票と照合する。単純作業。でも佐藤がいると、空気が違った。

「山本さん、土日何してたんすか」

「別に。家にいただけよ」

「旦那さんは?」

「出張中」

「へえ。寂しくないすか」

 陽子は手を止めた。佐藤を見る。彼は段ボールを開けながら、何気ない顔をしていた。

「……別に」

「俺だったら寂しいっすね。山本さんみたいな人が家にいるのに、出張なんて」

「仕事だから仕方ないでしょ」

「仕方ないっすかね」

 佐藤は顔を上げた。陽子を見る。

「俺だったら、仕事より山本さんを選ぶっすけど」

 心臓が跳ねた。陽子は慌てて視線を逸らした。

「何を言ってるの。会ったばかりでしょう」

「会ったばかりでも、分かることはあるっすよ」

「何が分かるの」

「山本さんが、大事にされてないってこと」

 陽子は言葉を失った。

 佐藤は作業を続けながら言った。

「顔見れば分かります。寂しそうな顔してる。誰かに見てほしいって顔」

「そんなこと——」

「違います?」

 陽子は答えられなかった。

 違わない。違わないのだ。昭雄には見てもらえない。娘にも見てもらえない。誰にも。

 佐藤が一歩近づいた。

「俺、山本さんのこと見てますよ」

 低い声だった。囁くような。でもはっきりと聞こえた。

「ずっと見てます」


 昼休み、休憩室に行くと他のスタッフが数人いた。陽子はいつもの窓際の席に座った。佐藤は少し離れた席に座った。

 他の人がいるときは、距離を取る。それが暗黙のルールのようになっていた。でも佐藤の視線は、ずっと陽子を追っていた。食べているときも、スマートフォンを見ているときも。

 陽子はそれに気づいていた。気づいていて、嫌ではなかった。

 見られている。

 その感覚が、どこか心地よかった。

 休憩時間が終わる少し前、他のスタッフが先に出ていった。残ったのは陽子と佐藤だけだった。

 佐藤が立ち上がり、陽子の席に近づいてきた。

「山本さん」

「何」

「LINE、教えてもらえませんか」

 唐突だった。陽子は戸惑った。

「……何で」

「山本さんと、もっと話したいんで」

「仕事中に話せるでしょ」

「仕事中じゃ足りないんすよ」

 佐藤の目が、陽子を捉えていた。逃がさない目。

「山本さんのこと、もっと知りたいんです」

「私のことなんて、知っても面白くないわよ」

「俺が決めます。面白いかどうかは」

 陽子は黙った。

 断るべきだ。分かっていた。夫がいる。娘がいる。こんなところで、見ず知らずの男にLINEを教えるなど。

 でも口が動いた。

「……いいわよ」

 言ってしまった。言ってしまってから、後悔した。でも取り消せなかった。

 佐藤は笑った。嬉しそうに。でもその笑顔には、獲物を捕らえたような光があった。

「ありがとうございます」

 二人でスマートフォンを出して、IDを交換した。佐藤の指が、陽子のスマートフォンに触れた。その一瞬、背筋がざわついた。

「今夜、連絡しますね」

「……ええ」

 佐藤は満足そうに頷いて、休憩室を出ていった。

 陽子は一人残された。自分のスマートフォンを見つめた。佐藤健二。友だちリストに名前が追加されていた。

 何をしているのだ。

 分かっている。分かっているのに、止められなかった。


 その夜、瑠美が帰ってきたのは十時過ぎだった。

「遅かったね」

「うん。自習室混んでて」

「ご飯、食べた?」

「コンビニで買ってきた」

 それだけ言って、瑠美は自分の部屋に入っていった。

 陽子はリビングに一人残された。テレビをつけた。何も見ていなかった。スマートフォンを握りしめていた。

 佐藤からの連絡を、待っていた。

 十時半、LINEが来た。

『山本さん、今日はありがとうございました』

 心臓が跳ねた。返信を打つ。

『こちらこそ。お疲れ様でした』

 すぐに返事が来た。

『家、着きました?』

『ええ、とっくに』

『良かったです。心配してました』

『大げさね』

『大げさじゃないっすよ。山本さんのこと、ずっと考えてたんで』

 陽子は画面を見つめた。

 ずっと考えてた。

 その言葉の重さ。普通なら引くところだ。初めて連絡先を交換した相手に、「ずっと考えてた」なんて。重い。怖い。

 でも陽子の心は、違う反応をしていた。

 嬉しい。

 誰かが自分のことを考えている。見ている。気にかけている。それがこんなにも嬉しいとは。

『山本さん、今何してます?』

『テレビ見てる。見てないけど』

『旦那さんは?』

『出張中って言ったでしょ』

『そうでした。じゃあ一人っすか』

『娘がいるわ』

『でも、部屋にいるんでしょ?』

『……そうね』

『寂しくないすか』

 また、その質問。陽子は少し考えて、正直に答えた。

『少し、ね』

『俺と話してると、少しはマシになります?』

『……なるかも』

『良かった。俺、山本さんの寂しさ、埋めたいんです』

 陽子は息を呑んだ。

 埋めたい。

 その言葉が、胸に刺さった。

『大げさよ』

『本気っすよ』

『何で。会ったばかりなのに』

『会った瞬間から、山本さんのこと気になってたんです。初日、倉庫に来たとき。ああ、この人だって思った』

『この人って何よ』

『俺が探してた人』

 陽子は返信できなかった。指が震えていた。

 探してた人。

 そんなことを言われたのは、初めてだった。昭雄は言わなかった。藤井も言わなかった。誰も。

『重いっすよね。すんません。でも嘘は言いたくないんで』

『……』

『引きました?』

『少し』

『でも、ブロックはしないでくれるんすね』

 陽子はスマートフォンを見つめた。ブロックすればいい。今すぐ。これ以上関わらないほうがいい。分かっている。

 でも指が動かなかった。

『しない』

 送信した。

『ありがとうございます。おやすみなさい。また明日、連絡しますね』

『……おやすみ』

 陽子はスマートフォンを置いた。手が震えていた。

 何をしているのだ。

 夫がいる。娘がいる。四十九歳の、いい年をした女が、何をしているのだ。

 でも胸の奥で、小さな火が燃えていた。消せない火。消したくない火。

 佐藤は危うい。分かっている。普通ではない。初対面で「探してた人」なんて言う男は、普通ではない。

 でも、その危うさが——

 陽子は目を閉じた。

 藤井を思い出した。大学時代の彼氏。痩せていて、神経質で、でも絵に対しては誰よりも真剣だった。陽子を見る目が、いつも真っ直ぐだった。

 佐藤の目は、藤井に似ている。

 でも違う。藤井の目には純粋さがあった。佐藤の目には、それがない。代わりに、何か別のものがある。飢え。渇き。そして——執着。

 危険だと、頭では分かっている。

 でも心が、その危険に惹かれていた。


 翌日から、LINEは毎日来るようになった。

 朝、『おはようございます』。

 昼、『今日も頑張ってください』。

 夜、『今日はどうでしたか』。

 陽子は返信した。最初は短い返事だった。でも少しずつ、長くなっていった。

 佐藤は聞き上手だった。陽子の話を、何でも聞いた。絵画教室のこと、生徒のこと、昔描いていた絵のこと。

『山本さんの絵、見てみたいっすね』

『もう描いてないから』

『なんで描かなくなったんすか』

 陽子は迷った。明美のことを話すべきか。でも話してしまった。

 後輩が二科展に入選したこと。自分は何度出しても駄目だったこと。夫が絵に無関心だったこと。

『それ、辛かったっすね』

 佐藤の返信は、シンプルだった。でもその一言が、陽子の胸に染みた。

『旦那さん、ひどいっすね。山本さんの才能、分からないなんて』

『才能なんて——』

『ありますよ。俺は分かります。山本さんの手を見れば』

『手を見ただけで分かるわけないでしょ』

『分かるんすよ。何かを作ってきた人の手は、違うんです』

 陽子は自分の手を見た。四十九歳の手。皺が増えた。でも確かに、絵を描いてきた手だ。

 昭雄は一度も、そんなことを言わなかった。

『山本さん、また描いてみたらどうすか』

『今さら——』

『今さらなんてないっすよ。俺、山本さんの絵、見たいです。山本さんが描いた絵を』

 陽子は返信できなかった。涙が滲んでいた。


 倉庫での仕事は、週に三日。水曜、金曜、土曜。その三日間が、陽子にとって特別な時間になっていった。

 佐藤は相変わらず、陽子のそばにいた。作業中、休憩中、帰り道。いつも近くにいて、いつも見ていた。

「山本さん、今日の服、似合ってますね」

「山本さん、髪、いつもより綺麗っすね」

「山本さん、笑った顔、好きっす」

 小さな言葉を、積み重ねてくる。陽子はそれに慣れていった。慣れて、心地よくなっていった。

 でも同時に、佐藤の危うさも見えてきた。

 ある日、倉庫の若い女性スタッフが陽子に話しかけてきた。仕事のことで質問があるという。陽子は丁寧に答えた。

 その後、佐藤が近づいてきた。

「さっき、何話してたんすか」

「仕事のことよ。検品の手順を聞かれて」

「そうすか」

 佐藤は頷いた。でも目が笑っていなかった。

「あの子、山本さんに懐いてますね」

「別に。仕事の話しかしてないわよ」

「でも、楽しそうに話してたじゃないすか」

「楽しそうって——普通に話してただけよ」

「俺以外と楽しそうに話してると、ちょっと嫌なんすよね」

 陽子は言葉に詰まった。

「……何それ」

「すんません、変なこと言って」

 佐藤は笑った。でもその笑顔の奥に、冷たいものがあった。

「でも本音なんで。山本さんには、俺だけ見てほしいんです」

 陽子は黙った。

 怖い、と思った。でも同時に、嬉しいとも思った。こんなにも自分を求めてくれる人がいる。独占したいと思ってくれる人がいる。

 歪んでいる。分かっていた。でも、その歪みが心地よかった。


 一ヶ月が経った。

 陽子と佐藤の関係は、まだ一線を越えていなかった。LINEのやり取り、倉庫での会話、帰り道の同行。それだけ。

 でも陽子の心は、確実に佐藤に傾いていた。

 昭雄からの連絡は相変わらず少なかった。週に一度、事務的なLINEが来るだけ。電話はもうしなくなった。かけても出ないから。

 瑠美は受験勉強に追われていた。家にいても、ほとんど部屋にこもっている。陽子と話すのは、朝と夜の挨拶くらいだった。

 家の中で、陽子は透明人間のようだった。誰にも見られていない。誰にも必要とされていない。

 でも佐藤は違った。

 佐藤だけが、陽子を見ていた。

『山本さん、今日も一日お疲れ様でした』

『山本さんの声、聞きたいっす。電話してもいいすか』

『山本さんのこと考えてたら眠れないんです』

 毎日、毎日、言葉が積み重なっていく。陽子はそれに溺れていた。

 ある夜、佐藤から電話が来た。

「山本さん」

「何」

「会いたいです」

 陽子は黙った。

「仕事以外で。二人で。会ってくれませんか」

 心臓が速くなった。

「……いつ」

「日曜日。旦那さん、いないんでしょ?」

「瑠美がいるわ」

「どこかで会えばいいじゃないすか。外で」

 陽子は考えた。考える必要なんてなかった。答えは決まっていた。

「……いいわよ」

 電話の向こうで、佐藤が息を呑むのが分かった。

「ありがとうございます。絶対、後悔させないんで」

 陽子は電話を切った。手が震えていた。

 何をしているのだ。

 分かっている。分かっているのに、止められない。

 日曜日。あと三日。

 陽子は、落ちていく自分を感じていた

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