第2話 くすぶり
金曜日の午後、絵画教室は静かだった。
生徒は三人。六十代の女性が二人と、七十代の男性が一人。皆、趣味で絵を描いている。キャンバスに向かい、果物の静物画を描いていた。
陽子は巡回しながら、アドバイスをする。
「そう、もう少し影を濃くすると立体感が出ますよ」
「この色、どうですか先生」
「いいですね。でも隣の色との境目を少しぼかすと、もっと自然になりますよ」
先生。その呼び方に、陽子は慣れていた。十五年以上、この仕事をしている。でも自分が「先生」と呼ばれるたびに、小さな痛みがあった。
私は先生なんかじゃない。
教える立場にいるだけだ。本当の画家ではない。選ばれなかった人間が、選ばれなかった人間たちに教えている。それだけ。
生徒たちが帰った後、陽子は一人で教室に残った。イーゼルの前に座る。自分のキャンバス。何も描かれていない白い布。
描こうと思えば描ける。時間はある。画材もある。
でも筆が動かない。
もう何年もそうだった。何かを描こうとすると、手が止まる。頭の中に浮かぶのは、二科展の審査結果だ。「残念ながら」という言葉。何度聞いただろう。何度打ちのめされただろう。
最後に出品したのは、三十八歳のときだった。その後は出していない。もう出さないと決めた。傷つくのが怖かったから。
スマートフォンが鳴った。LINEの通知。娘の瑠美からだった。
『今日遅くなる。塾の自習室で勉強する』
『分かった。気をつけて』
それだけのやり取り。瑠美とは最近、こういう事務的な会話しかしていない。受験生だから仕方がない。そう自分に言い聞かせている。でも本当は、娘が自分を避けているような気がしていた。
夫の昭雄からは、三日前にLINEが来たきりだった。
『会議が続いて忙しい。また連絡する』
それだけ。電話もない。ベトナムとは時差が二時間。連絡を取ろうと思えば取れるはずだ。でも昭雄はしない。陽子からかけても、出ないか、出てもすぐに切られる。
十八年間の結婚生活。最初は悪くなかったと思う。昭雄は優しかった。陽子の絵を見て、「いいね」と言ってくれた。でも「いいね」だけだった。それ以上の言葉はなかった。
陽子が二科展に落ちたとき、昭雄は言った。「残念だったね。でも来年があるよ」と。慰めのつもりだったのだろう。でも陽子には、他人事のように聞こえた。
絵に対する無関心。それが年々、陽子の中で大きくなっていった。
私の一番大切なものを、この人は見ていない。
そう思うようになった。でも離婚は考えなかった。娘がいたから。経済的な安定があったから。そして何より、自分に自信がなかったから。
絵で食べていけない女が、何を言えるというのだ。
陽子は白いキャンバスを見つめた。何も浮かばない。何も描けない。
帰り道、スマートフォンでSNSを開いた。
癖になっていた。特に見たいものがあるわけではない。ただ暇つぶしに。そう自分に言い聞かせながら、検索窓に名前を打ち込む。
田中明美。
検索結果が表示される。インタビュー記事、展覧会の告知、テレビ出演の情報。「普通の主婦が描く現代絵画」という見出し。
陽子は記事をタップした。
明美の写真が画面に映る。四十七歳。大学時代の後輩。陽子より二歳年下。痩せていて、地味な顔立ちで、でも笑顔は明るかった。
記事を読む。
『田中さんは大学卒業後、一度は絵の道を諦めたそうですね』
『はい。才能がないと思いました。二科展にも何度も落ちて。でも夫が「また描いてみたら」と言ってくれて』
『ご主人の支えが大きかったと』
『そうですね。夫がいなかったら、また描き始めることはなかったと思います。「お前の絵が好きだ」と言ってくれる人がいるって、大きいんです』
陽子は画面を見つめた。
「お前の絵が好きだ」。
昭雄は一度も言ったことがない。「いいね」は言った。でも「好きだ」とは言わなかった。
もし昭雄が「また描いてみたら」と言ってくれたら。「お前の絵が好きだ」と言ってくれたら。
私も変わっていただろうか。
明美と同じように、もう一度挑戦しただろうか。そして、選ばれただろうか。
分からない。分からないけれど、考えずにはいられなかった。
夫が違えば——
その言葉が、陽子の頭の中で渦を巻いた。
駅のホームで電車を待ちながら、陽子は自分の顔がガラスに映っているのを見た。
四十九歳の顔。皺が増えた。目の下にくまがある。疲れた顔。
いつからこんな顔になったのだろう。
若い頃は自信があった。美大に入って、卒業制作が二科展の最終候補に残って、将来を嘱望されて。藤井という彼氏がいて、一緒に絵を語り合って、夢を見ていた。
全部、遠い昔のことだ。
電車が来た。乗り込んで、つり革につかまる。車内は混んでいた。スーツ姿のサラリーマン、制服の高校生、ベビーカーを押す母親。皆、それぞれの人生を生きている。陽子もその一人だ。でも自分の人生が、どこかで間違った方向に進んだような気がしてならなかった。
藤井を捨てたとき。
あのとき、間違えたのではないか。
安定を求めて昭雄を選んだ。それは正しい選択だと思っていた。でも安定と引き換えに、何かを失った。情熱か、夢か、それとも——自分自身か。
電車が揺れる。陽子は目を閉じた。
佐藤の顔が浮かんだ。落ち窪んだ目。こけた頬。でも笑うと幼く見える顔。
「山本さんと話せて嬉しいっす」
その声が、耳の奥で響いた。
水曜日が待ち遠しい、と陽子は思った。そう思ってしまった自分に、少し驚いた。
家に帰ると、瑠美はまだいなかった。
暗いリビングの電気をつける。静かな家。夫はベトナム。娘は塾。陽子は一人だった。
冷蔵庫を開ける。何を作ろうか。考えるのが面倒だった。結局、冷凍のパスタを温めて、一人で食べた。テレビをつけた。ニュースが流れている。政治家のスキャンダル。どこかの国の紛争。自分とは関係のない世界。
食べ終わって、皿を洗って、ソファに座った。スマートフォンを取り出す。また明美のSNSを開いてしまう。
新しい投稿があった。展覧会の様子。明美が自分の絵の前に立っている写真。隣には夫らしき男性。二人とも笑っている。
『応援してくれる皆さんのおかげです。これからも描き続けます』
陽子は画面をじっと見つめた。
明美の夫は、明美を応援している。絵を描けと背中を押した。そして明美は選ばれた。
私には何もない。
夫は絵に無関心。娘は受験で忙しい。友人と呼べる人もいない。絵も描けない。夢も諦めた。
残ったのは、絵画教室の雇われ講師と、物流倉庫のバイトだけ。
陽子は立ち上がった。クローゼットを開けた。
先月買ったバッグがあった。ブランド物。十五万円。買ったときは嬉しかった。包みを開けた瞬間だけ、何かが満たされた。でも今は、ただそこにあるだけだ。何も感じない。
その隣にも、いくつもの紙袋がある。買ったまま使っていないもの。靴、スカーフ、財布。全部、ストレスで買った。明美の入選を知った後から、買い物が止まらなくなった。
夫が違えば私も——
その思いが、浮かぶたびに、何かを買った。買うことで、黙らせようとした。でも黙らなかった。何度買っても、その声は消えなかった。
クレジットカードの請求が膨らんだ。昭雄には言えなかった。自分で何とかするしかなかった。だから物流倉庫でバイトを始めた。
情けない、と思った。四十九歳にもなって、買い物依存。借金。そして肉体労働。
でも不思議と、倉庫での仕事は嫌ではなかった。単純作業が心地よかった。何も考えなくていい。ただ手を動かしていればいい。
そして——佐藤がいる。
陽子は首を振った。何を考えているのだ。夫がいる。娘がいる。佐藤は倉庫で会っただけの男だ。それ以上でも以下でもない。
でも。
「山本さん、綺麗な手してますね」
あの言葉が、頭から離れなかった。
昭雄は、陽子の手を褒めたことがない。絵を描く手を。ピアノを弾く手を。料理を作る手を。何一つ。
佐藤は褒めた。初対面で。
それだけのことだ。それだけのことなのに——
陽子はスマートフォンを見た。水曜日まで、あと四日。
長いと思った。
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