水底

卦位(けい)

第1話 倉庫

 四月の終わり、山本陽子は物流倉庫の駐車場に立っていた。

 空は曇っていた。灰色の雲が低く垂れ込めて、春とは思えない重さがあった。陽子は自分の服装を見下ろした。ユニクロで買った黒のパンツ。無印良品のカーキのシャツ。どちらも先週買ったものだ。物流倉庫で働くために。

 四十九歳。絵画教室の雇われ講師。それだけでは足りなくなった。

 正確には、足りなくさせた。自分で。

 クレジットカードの明細を思い出す。バッグ、靴、コート、アクセサリー。必要だったのかと聞かれれば、違う。でも買わずにはいられなかった。買っている瞬間だけ、何かが満たされた。何かが黙った。

 その「何か」が何なのか、陽子は分かっていた。分かっていて、目を逸らしていた。

 倉庫の入口に向かって歩き出す。今日が初日だ。派遣会社からの説明は簡単だった。検品、仕分け、梱包。単純作業。時給千百円。週三日。絵画教室がない日に入れた。

 自動ドアをくぐると、埃っぽい空気が鼻を突いた。コンクリートの床。鉄骨の天井。積み上げられた段ボール。陽子が知っている世界とは、まるで違う場所だった。

「山本さんですか」

 声をかけられて振り向くと、五十代くらいの女性が立っていた。事務服を着ている。

「はい」

「今日からですね。こちらへどうぞ」

 案内されるまま、更衣室でロッカーを割り当てられ、作業着を渡された。着替えて出ると、倉庫の奥へ連れて行かれた。

「今日は佐藤さんに教わってください。佐藤さーん」

 女性が声を上げた。棚の陰から、一人の男が現れた。

 四十歳くらいだろうか。痩せていた。頬がこけて、目が少し落ち窪んでいる。髪は短く刈り込まれていたが、どこか手入れが行き届いていない印象があった。作業着の袖から覗く腕は細く、青白い。

「佐藤です。よろしくお願いします」

 声は低かった。愛想笑いではなく、ただ事実を述べるような口調だった。

「山本です。よろしくお願いします」

 陽子が頭を下げると、佐藤は少し間を置いてから頷いた。その目が、陽子をじっと見ていた。

 見られている、と思った。

 品定めをするような視線ではなかった。もっと別の何か。飢えた動物が獲物を見つけたときのような——いや、違う。そこまで鋭くはない。でも、何かが陽子の背中をざわつかせた。

「じゃあ、こっちで」

 佐藤が歩き出した。陽子は後に続いた。


 作業は単純だった。

 届いた商品のバーコードを読み取り、伝票と照合し、棚に仕分ける。それだけ。佐藤は淡々と説明した。質問には答えたが、それ以上のことは喋らなかった。

 昼休み、休憩室で弁当を食べていると、佐藤が向かいに座った。

「山本さん、前は何してたんすか」

「絵画教室の講師よ。今もしてるけど」

「へえ」

 佐藤は缶コーヒーを開けながら言った。

「絵、描くんすか」

「昔はね。今はあまり」

「なんで」

 唐突な質問だった。陽子は少し戸惑った。

「……いろいろあって」

「そうすか」

 佐藤はそれ以上聞かなかった。でも目は陽子を見続けていた。離さないように。逃がさないように。

「佐藤さんは、ここ長いの?」

「三年くらいっすね」

「その前は?」

「いろいろ。転々としてました」

「そう」

 会話が途切れた。佐藤は缶コーヒーを飲んでいる。陽子は弁当の残りを口に運んだ。

 沈黙が重くなかった。それが少し意外だった。普通、初対面の相手との沈黙は居心地が悪い。でも佐藤との沈黙には、妙な落ち着きがあった。

 いや——落ち着きではない。

 陽子はふと気づいた。佐藤が、ずっと自分を見ているのだ。食べている間も、黙っている間も。視線を外さない。

「何?」

「いや、別に」

 佐藤は少し笑った。笑うと、顔の印象が変わった。険しさが消えて、どこか幼く見えた。

「山本さん、綺麗な手してますね」

「え?」

「絵を描いてた人の手だなって」

 陽子は自分の手を見た。四十九歳の手。皺が増えた。でも指は長い。爪は短く切っている。絵を描くときの癖だ。

「……どうも」

「俺、手フェチなんすよ」

 佐藤は笑いながら言った。冗談のように。でも目は笑っていなかった。

 陽子は何か言おうとして、やめた。代わりに弁当箱の蓋を閉めた。


 夕方、作業を終えて着替えていると、佐藤が更衣室の前で待っていた。

「山本さん、駅まで一緒に行きません?」

「……ええ、いいわよ」

 断る理由もなかった。二人で歩き出す。倉庫を出ると、空はまだ曇っていた。四月の風が少し冷たい。

「山本さん、家族いるんすか」

「ええ。夫と娘」

「そうすか」

 佐藤は前を向いたまま言った。

「俺、独身なんすよね。昔、結婚してたことあるんすけど」

「そうなの」

「二年で終わりました。俺がダメだったんで」

 淡々と話す。自分を卑下しているようで、していなかった。ただ事実を並べている。

「山本さんは、旦那さんと仲いいんすか」

「……まあ、普通よ」

 嘘だった。普通ではない。昭雄は三月からベトナムに出張している。帰国は未定。連絡は事務的なものだけ。電話をしても、忙しいと言ってすぐ切られる。

「普通、か」

 佐藤が小さく呟いた。その声に何かが含まれていた。陽子には読み取れない何か。

「山本さん」

「何」

「俺、山本さんと話せて嬉しいっす」

 唐突だった。陽子は足を止めそうになった。

「……どうも」

「また明日も来ます?」

「ええ、水曜日ね」

「楽しみにしてます」

 佐藤は笑った。駅の改札の前で、「じゃあ」と手を上げて去っていった。

 陽子は改札をくぐりながら、自分の胸に手を当てた。心臓が少し速くなっていた。

 楽しみにしてる。

 その言葉が、妙に耳に残った。


 電車の中で、陽子は窓の外を見つめた。

 佐藤の顔を思い出していた。落ち窪んだ目。こけた頬。でも笑うと幼く見える顔。

 誰かに似ている、と思った。

 誰だろう。

 電車が揺れる。灰色の街が流れていく。陽子は記憶を辿った。遠い記憶を。

 ——ああ。

 思い出した。

 大学時代の彼氏だ。藤井、という名前だった。同じ美術科の学生。痩せていて、神経質で、でも絵に対しては誰よりも真剣だった。

 陽子の卒業制作が二科展の最終候補に残ったとき、藤井は喜んでくれた。自分のことのように。でも陽子は入選できなかった。その後も何度も挑戦したが、駄目だった。藤井との関係も、少しずつ軋んでいった。

 そして昭雄と出会った。合コンで。大手商社の若手社員。安定していて、自信に満ちていて、絵のことなど何も分からない男。

 陽子は藤井を捨てた。

 電話で告げた。「別れたい」と。藤井は何も言わなかった。長い沈黙の後、「分かった」とだけ言って、電話を切った。

 あれから二十年以上が経った。藤井が今どこで何をしているか、陽子は知らない。

 佐藤は藤井に似ている。

 顔が似ているわけではない。雰囲気だ。不安定で、何かに飢えていて、でもまっすぐに見つめてくる目。

 あのとき捨てた男に、どこか似ている。

 陽子は目を閉じた。

 考えすぎだ。初日に会っただけの男に、何を感じているのだ。

 でも胸の奥で、小さな火が灯ったのを感じていた。消さなければいけない火。消さなければ。

 電車が駅に着いた。陽子は立ち上がり、ホームに降りた。

 家に帰れば、娘がいる。受験勉強をしているはずだ。夕飯を作らなければ。洗濯物を取り込まなければ。日常が待っている。

 でも陽子の頭の中には、まだ佐藤の声が残っていた。

「山本さんと話せて嬉しいっす」

 その言葉が、繰り返し響いていた。

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