第12話 さくら台動物病院・古賀雄大の日常-2
第一章:命令系統のハック
『さくら台動物病院』の夜勤室。獣医の古賀雄大(二十八歳)は、鳴り止まない電話に、ある仮説を確信していた。
「……はい。猫が排水溝に向かって唸っているんですね。分かりました」
電話を切る。
動物たちの異常行動は、ウイルスによる狂暴化ではない。
**「同期(シンクロ)」**だ。
そこへ、坂井からの着信が入る。
『古賀先生……センターの動物が全頭、西へ向かっています。地下が、呼んでいるんです』
古賀は冷静に返した。
「坂井さん。それは『呼び声』というより、**『命令系統のハック』**です。この地域の地下水脈が、巨大な神経回路網に変質している。動物たちは受信機にされているだけです」
古賀は手元の水質データを見た。
電気伝導率の異常。これはもう、自然の水ではない。
**「液状化した情報ケーブル」**だ。
第二章:専門家たちの合流
深夜一時。西の河川敷にある仮設避難所。
古賀、坂井、真緒の三人が合流した。
坂井は防護服姿だが、顔色は土気色で、右手を庇うように震えていた。
真緒はジャージ姿だが、その目は鋭く周囲を観察していた。
「古賀先生」
真緒が口を開いた。
「先生の言う『神経回路』説、正しいと思います。……私、学校で生徒たちの様子を見ていて気づきました。彼らが聞いているのは、音じゃない。**『強制的な安らぎの信号』**です」
「安らぎ?」
「ええ。不安や恐怖を取り除き、個を捨てて一つになろうとする……極めて強力な催眠誘導です。心の隙間がある人間ほど、深く刺さる」
真緒はチラリと坂井を見た。
坂井がビクリと肩を震わせる。
古賀は頷いた。
「生物学的にも、心理学的にも、奴は僕たちを『部品』にしようとしている。……止めましょう。信号源を断てば、洗脳は解けるはずです」
第三章:地下への入り口と、中継点
三人はマンホールから地下へ降りた。
そこは異界だった。
壁面を覆う血管のような配管。脈打つ粘液の膜。
そして、空間の中心に鎮座する、半透明のゼリー状の巨大生物。
それは、飲み込んだZモンスターたちを壁面に張り付け、ボコボコと波打っていた。
「……でかい」
坂井が呻く。
「こいつが、ボスですか?」
古賀は分析端末を操作し、眉をひそめた。
「……いいえ。エネルギー反応がおかしい。こいつ自身からは、信号が出ていない」
「え?」
「こいつは増幅器(アンプ)です。もっと深い場所……あるいは、**別の場所にある『中枢』からの命令を中継しているだけの『地域ノード(結節点)』**に過ぎない」
三人は戦慄した。
目の前の怪物だけでも絶望的な大きさだ。
だが、これは街全体、あるいは国全体を覆うネットワークの、ほんの**「出張所」**でしかないのか。
「……それでも、ここを潰せば、このエリアの動物たちは正気に戻るはずです」
古賀は自分に言い聞かせるように言った。
第四章:二手に分かれる作戦
古賀は「渇きの時間」を作るため、地上へ戻り浄水場へ向かった。
地下に残された坂井と真緒。
坂井の歩みが遅くなる。
右腕の侵食が進み、白い菌糸が肩まで達していた。
「……先生。怖いんです」
坂井が立ち止まり、震える声で吐露した。
「俺の指が、あそこの核に行きたがってる。……もし、核に触れた瞬間、俺が俺じゃなくなったら? 動物たちみたいに、あいつの一部になってしまったら?」
彼は泣きそうな顔で、自分の右手を握りしめていた。
英雄的な覚悟などない。ただの、死と喪失を恐れる中年男性の姿だった。
真緒は、坂井の肩を掴み、正面から向き合った。
養護教諭として、パニックになりかけた生徒を落ち着かせる時の声色で。
「坂井さん。私の目を見てください」
「……」
「今、聞こえている『行きたい』という声は、あなたの声じゃありません。外部からのノイズです。……あなたは、動物を助けたいだけの、優しい人間です。それだけを思い出して」
真緒は、坂井の精神の輪郭が溶け出さないよう、言葉で縫い止めた。
「私があなたの『自我(アンカー)』になります。だから、進んでください」
坂井は深呼吸をし、涙を拭った。
「……はい。行きます」
第五章:渇きと暴走
『こちら古賀。……取水弁、閉鎖!』
無線からの合図と共に、地下空間の水流が止まった。
**『Zハイドラ・ノード』**が苦し紛れに暴れ出す。
触手が二人を襲う。
「うわぁぁぁ!」
坂井が無我夢中で右手を突き出す。
親指から放たれた菌糸が、触手を絡め取り、一時的に硬直させる。
だが、その反動で坂井も膝をつく。
「急いで! 核は目の前よ!」
真緒が坂井を引きずるようにして走る。
怪物の中心部。
黒く脈動する**「神経核」**が露出していた。
そこからは、太いパイプのような血管が、さらに深い地底へと伸びている。あれが「上位中枢」へ繋がるラインだ。
第六章:震える指と、逆流
核の前に立った坂井は、激しく震えていた。
右手が勝手に核へ伸びようとする。それを左手で必死に抑え込む。
「……嫌だ。怖い。消えたくない……!」
坂井は嗚咽した。
この指を突き刺せば、怪物を倒せるかもしれない。だが、その代償に自分が人間でなくなるかもしれない恐怖は、拭い去れない。
真緒は、そんな坂井を叱咤しなかった。
ただ、背中から彼を抱きしめた。
「怖くて当たり前です。……でも、大丈夫。私がここにいます。あなたが戻ってくる場所は、ここです」
人の体温。心音。
それが、坂井を現実に繋ぎ止める最後の鎖となった。
『坂井さん、今です! 信号を逆流させて!』
古賀の叫びが無線から響く。
「……くそッ!」
坂井は恐怖に顔を歪ませながら、悲鳴と共に右手の親指を核に突き刺した。
「死にたくない!」「帰りたい!」
英雄的な自己犠牲ではない。
彼の人間としての、生への執着と恐怖。その膨大な感情エネルギーが、菌糸を通じて核へと逆流した。
ギャァァァァァ――!
怪物が絶叫した。
**「個を捨てろ」という怪物の命令に対し、坂井の「個として生きたい」**というノイズが混入し、システムがクラッシュしたのだ。
核が白く発光し、崩壊が始まる。
「坂井さん、離して!」
真緒が、硬直した坂井の体を力いっぱい引き剥がした。
衝撃波が二人を吹き飛ばす。
崩れ落ちる天井。濁流が押し寄せる。
薄れゆく意識の中で、坂井は見た。
破壊された核の奥、地底へと続く穴の向こうで、さらに巨大な「何か」の目が、ギョロリとこちらを覗き込んでいるのを。
これは勝利ではない。
ただ、この街という「出張所」を閉鎖させたに過ぎないのだ。
(第十二話 完)
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