第11話 動物愛護センター・坂井淳の日常-2

第一章:震える水面と、指先の熱

 動物愛護センターの夜は、消毒液と動物たちの獣臭が入り混じった、独特の沈黙に包まれている。

 だが今夜は、その沈黙が破られていた。

「……地下水脈の汚染? 学校が封鎖?」

 職員の坂井淳(四十三歳)は、受話器を握る手に力を込めた。

 電話の相手は、中学校の養護教諭・榊原真緒。

 彼女は切迫した声で、学校の井戸から怪異が溢れ出したと訴えている。

「先生、落ち着いてください。それはガス漏れか何かの間違いじゃ……」

 坂井はプロとして、現実的な可能性を口にした。

 だが、右手の親指――テーピングの下にある白い菌糸のシミが、ドクンと熱く脈打った。

 真緒の言葉を、体が肯定している。

「……分かりました。こちらも警戒はします」

 電話を切った直後だった。

 ガタガタガタッ……。

 所内のケージが一斉に鳴り始めた。

 地震ではない。

 ケージの中に置かれたステンレスの水皿だけが、まるで見えないスピーカーの上に置かれたように、小刻みに波紋を描いていた。

 さらに異様なのは、野生動物保護エリアの様子だ。

 タヌキやハクビシンたちが、水皿に顔を突っ込み、一心不乱に水を飲み続けている。

 腹がパンパンに膨れ上がり、苦しげに咳き込みながらも、彼らは止まらない。

 まるで、水の中に溶け込んだ**「何か」**を摂取しなければならないという、強迫観念に駆られているように。

第二章:同期する爪音

 「おい、やめろ! 死ぬぞ!」

 坂井は慌てて隔離棟(B棟)へ走った。

 中に入った瞬間、むせ返るような湿気が肌にまとわりついた。

 一番奥のケージ。

 そこにいるのは、数日前に山で保護された**『半石化・コカトリス(幼体)』**だ。

 翼が石になって動けないはずのその鳥が、今は嘴(くちばし)で鉄格子を激しく打ち鳴らしていた。

 カン! カン! カン!

 そのリズムは、隣のケージにいる**『Zアライグマ』**の爪研ぎ音と、完全に同期していた。

 ガリ! ガリ! ガリ!

 彼らの目は、坂井を見ていない。

 全員が、床の一点――排水溝の穴を凝視していた。

 坂井の背筋に悪寒が走る。

 アライグマの首元には、泥で汚れた赤い首輪の跡がある。かつて、誰かの家で愛されていた痕跡。

 第五話で坂井が「可哀想だ」と感じてしまった、あの個体だ。

 ドクン。

 親指が疼く。

 (――イク。イカナキャ。ミズガヨンデル)

 脳内に響く声。それはアライグマの思考なのか、坂井自身の願望なのか。

 坂井は恐怖した。

 俺は今、こいつらを「管理する側」にいるのか? それとも「檻の中で呼ばれている側」にいるのか?

第三章:逆流する黒いヘドロ

 ゴボッ……ゴボボボッ!

 突如、B棟の手洗い場にある水道管が、獣のような低い唸り声を上げた。

 配管全体が振動し、サビた固定金具が悲鳴を上げる。

 坂井が蛇口を閉めようと手を伸ばした瞬間、蛇口から黒いヘドロが爆発的に噴き出した。

 水ではない。腐った土と、魚の腐敗臭、そして微細な爬虫類の鱗片が混ざった汚泥だ。

「うわっ!」

 泥水を浴びた坂井は、尻餅をついた。

 その瞬間、B棟の空気が変わった。

 死んでいたはずの保管動物――交通事故で死んだカラスや、Zリザードの死骸――が、ヘドロを浴びてビクンと跳ね起きたのだ。

 ゾンビ映画のような蘇生ではない。

 泥水に含まれる強烈なウイルスと信号が、死んだ筋肉を無理やり動かしている。

「……感染症じゃない」

 坂井は震えながら理解した。

 これは病気じゃない。**「命令」**だ。

 地下の水脈を通って、何かが彼らを呼んでいる。

 真緒の学校で起きたこと、山で起きたこと、そしてここで起きていること。すべてが一本の管で繋がっている。

第四章:振り下ろせない警棒

 ガシャァァン!

 B棟のケージの扉が、内側からの体当たりで突き破られた。

 ヘドロによる腐食と、動物たちの異常な怪力が、老朽化した鉄格子を破壊したのだ。

 飛び出してきたのは、数匹のZアライグマと、半ば石化したコカトリス。

 彼らは出口へ殺到する。

 坂井は立ち上がり、腰の「対獣用スタン・バトン」を引き抜いた。

 ここで止めなければ、感染源が街に放たれる。

 スイッチを入れる。バチバチと青い火花が散る。

「……止まれ! 戻れ!」

 坂井はバトンを振り上げた。

 だが、先頭のアライグマと目が合った。

 その目は白濁していたが、どこか**「すがるような色」**を帯びていた。

 襲おうとしているのではない。ただ、呼ばれるままに行こうとしているだけだ。

 かつて、工場跡地で見つけた「ポチのごはん」というメモ。

 孤独な子供に愛され、そして捨てられた記憶。

 俺がこいつを叩けば、こいつはただの「処分されるゴミ」として終わる。

「……ッ!」

 坂井の手が止まった。

 右手の親指が、焼けるように熱くなった。

 (叩くな。行かせてやれ。我々は仲間だ)

 菌糸の囁きか、自分の良心の呵責か。

 その一瞬の迷いが、決定的な隙となった。

 動物たちは、坂井を攻撃しなかった。

 彼の脇をすり抜け、水流のように滑らかに、廊下へと駆け抜けていった。

 坂井はバトンを持ったまま、立ち尽くすことしかできなかった。

 プロ失格だ。

 だが、安堵している自分もいた。

第五章:西へ向かう川

 坂井は管理室へ戻り、モニターを確認した。

 脱走した動物たちの群れは、街へ散らばることなく、一様に西の方角へ向かっていた。

 坂井はデスクの上の「広域地下水脈図」を広げた。

 震える指でなぞる。

 北中学校の古井戸。このセンターの地下配管。

 それらは合流し、西側の一級河川の地下調整池へと流れ込んでいる。

「……集まっているのか」

 逃げているのではない。

 地下の調整池に、「何か」がいる。

 それはハイドラかもしれないし、もっと別の巨大な膿(うみ)かもしれない。

 確かなのは、そいつが街中の汚濁と怪異を「餌」として呼び寄せているということだ。

 坂井は想像し、戦慄した。

 すべてのZモンスターが一点に集まり、融合したら、一体何が生まれるのか。

第六章:敗北と連携

 坂井はスマートフォンを取り出した。

 発信履歴には『榊原 真緒』の名前。

 彼は、自分が戦力外であることを認めなければならなかった。

「……もしもし、真緒先生ですか」

 坂井の声は、枯れていた。

『坂井さん。……ご無事ですか?』

「……謝ります。センターの収容動物を、逃してしまいました。私の……弱さのせいです」

 坂井は唇を噛み締めながら告げた。

「奴らは全員、西の河川敷に向かっています。あなたの学校の地下も、そこへ繋がっている。……これは、私の推測ですが」

 坂井は言葉を選んだ。

「地下の深い場所に、巨大な『胃袋』のようなものがあります。そいつが、地上の怪異をすべて飲み込もうとしている。……もう、個別の対処では間に合いません」

 電話の向こうで、真緒の息遣いが聞こえた。

『……分かりました。坂井さん、現場へ来てください』

 真緒の声は、彼を責めなかった。

『あなたは動物たちの習性を知っています。古賀先生はウイルスの正体を知っている。私たちは、それぞれの情報を持ち寄る必要があります』

「……私で、役に立ちますか」

『立ちます。この街の異常に気づいて、それでも逃げ出さなかったのは、私たちだけですから』

 坂井は、空になったモニター画面を見つめた。

 そこには、自分の無力さと、それでも守りたい街の地図が映っていた。

 彼はテーピングをきつく巻き直した。

「……すぐに行きます」

 坂井はセンターを出た。

 夜の闇の中、無数の黒い影が西へと流れていく。

 その背後で、マンホールの下から、ドクン、ドクンという巨大な心音が、地響きのように聞こえ始めていた。

(第十一話 完)

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