第13話 田中広人の日常・半年後
第一章:平和という名の麻痺
季節は巡り、春が来ていた。
田中広人(十七歳)は、いつものようにジャージ姿で玄関を出た。手には燃えるゴミの袋。
かつて必需品だった「対害獣用ロングトング」は、もう持っていない。
ゴミ集積所には、誰もいなかった。
半年前まで毎朝のようにネットを食い破っていたZゴブリンも、スライムもいない。
ただ、カラスが一羽、電柱の上から広人をじっと見下ろしていた。
「……平和だな」
広人はゴミ袋を置いた。
ニュースによれば、異世界からのモンスター出現率は激減したという。自衛隊は撤収し、街には「日常」が戻っていた。
近所の主婦、佐々木さんが通りかかった。
「あら広人くん、おはよう。最近、静かすぎて逆に寂しいわよねえ」
「そうですね。あの臭いがないだけマシですけど」
二人は笑い合った。
だが、その笑顔の裏で、誰も口にしない事実がある。
ネットの掲示板では、一部の研究者がこう警告していた。
『門は閉じたのではない。開いたまま固定化(システム・ロック)され、次の段階へ移行している』
今の静けさは、嵐が去ったのではなく、台風の目の中にいるだけなのだ。
第二章:教室のエアポケット
昼休みの教室。空気は弛緩していた。
「あー、マジだりぃ。俺、今日早退しようかなー」
「出たよ。『ゾンビ風邪』引いたとか言ってサボる気だろ」
かつて人々を恐怖させた「Z化」は、半年で弱毒化した。今や生徒たちの間では「公欠がもらえるラッキーな病気」というブラックジョークのネタだ。
広人は弁当を食べながら、前の席に座る佐藤の背中を見ていた。
佐藤は先月、Z風邪から復帰したばかりだ。
だが、彼は箸を動かさず、窓の外の虚空を凝視している。
「……おい、佐藤?」
「……羽だ」
「え?」
「黒い羽が、降ってる。……お前には見えないのか?」
佐藤の声は真剣だった。
しかし、広人が戦慄したのは、佐藤の幻覚に対してではない。
周りのクラスメイトの反応だ。
佐藤が明らかに異様なことを口走っているのに、隣の席の女子も、後ろで談笑するグループも、誰一人として佐藤を見ようとしない。
気づいていないのではない。
「また変なこと言ってるよ」「関わると面倒くさい」という無言の了解で、佐藤の存在だけを教室から切り離しているのだ。
この半年で、人間は学習してしまった。
**「理解できないものは、見なかったことにする」**という、最強の防衛本能を。
第三章:街角の違和感(断章)
広人の視点だけでなく、街のあちこちで小さなノイズが走っていた。
【午後二時 ひだまり商店街】
魚屋のマサが、店先の氷を替えながら首を傾げた。
「……あ?」
陳列棚のアジの開きが、一瞬だけ砂嵐のようなモザイクに見えた気がした。
瞬きをすると、元に戻っている。
「疲れ目か。老眼かなぁ」
マサは目薬を差し、再び客への呼び込みを始めた。
【午後四時 あおぞら公園】
ベンチで将棋を指していた老人たちが、手を止めた。
「……おい、聞こえたか?」
「ああ。また山の向こうで、ガラスが割れるような音がしたな」
「最近多いな。鳥の声もしねぇし」
老人たちは空を見上げたが、そこにはいつもの曇り空があるだけだった。彼らはすぐに視線を盤面に戻した。「どうせ自衛隊の演習だろう」と納得して。
【午後六時 市立図書館】
郷土資料室で、民俗学の研究者がノートに書き込んでいた。
『最近の目撃証言には共通点がある。黒い結晶、ノイズ、消失。……これらは、従来の異世界生物(有機物)の特徴とは異なる。生物学的変異ではなく、物理法則の改変に近い』
第四章:養護教諭の憂鬱
放課後、広人は保健室を訪れた。
養護教諭の榊原真緒(第6・10話主人公)は、PCの画面を睨んでいた。
「先生、お疲れっす。佐藤の様子、どうですか?」
「……身体的な異常はないわ。ただ、精神的に不安定ね」
真緒は溜息をついた。
彼女のデスクには、『原因不明の幻覚報告』『物理的欠損のない記憶障害』といったファイルが積まれている。
「田中くん。最近、Zモンスターとは違う……もっと、生き物じゃない気配を感じない?」
「生き物じゃない?」
「ええ。Zウイルスは『命を強引に繋ぎ止める』ものだった。でも、今の違和感は逆なの。……そこにあるはずの存在感が、希薄になっているような」
真緒は窓の外、かつてハイドラ騒動があった古井戸の方角を見た。
そこには今、綺麗な花壇がある。
だが、その花壇の赤色のチューリップだけが、なぜか色を失い、モノクロームの写真のように灰色に変色していた。枯れているのではない。色彩というデータだけが抜け落ちたように。
「……先生、あの花」
「見ない方がいいわ。見ると、脳がバグを起こすから」
第五章:黒い結晶と消失
夜、広人はコンビニからの帰り道を歩いていた。
街灯がチカチカと明滅している。電力不足ではない。光そのものが不安定になっているようだ。
公園のそばで、広人は足を止めた。
街路樹が一本、根元から折れて倒れていた。
その幹の中心に、何かが突き刺さっている。
「……なんだこれ」
ガラス片ではない。
光を一切反射しない、漆黒の結晶体だ。
それは物質というより、空間に開いた「穴」のように見えた。
ウゥゥゥ……ワンッ!
散歩中の野良犬が、その倒木に向かって激しく吠えたてた。
犬は結晶に向かって飛びかかろうとし――
ブツン。
音が途切れた。
広人が瞬きをした次の瞬間、犬はいなくなっていた。
悲鳴も、逃げる足音もなかった。
ただ、リードだけが地面にポトリと落ちていた。
「……は?」
広人は後ずさりした。
結晶が、ひとりでに形を変えた気がした。
ギギ……ジジ……。
周囲の空間から、テレビの砂嵐のような音が聞こえる。
倒木のアスファルトに接している部分が、ドット欠けのように四角く分解され、黒い粒子となって消えていく。
(やばい。これは、モンスターじゃない)
生物としての殺意や食欲ではない。
ここに存在すること自体を許さない、**「消去(デリート)」**の力が働いている。
広人は走った。
コンビニの袋を揺らしながら、振り返らずに走った。
背後で、パリン、という世界にヒビが入るような乾いた音が響いたが、彼は聞かなかったことにした。
そうしなければ、自分もあの犬のように、最初からいなかったことにされてしまう気がしたからだ。
無人の公園で、黒い結晶は静かに増殖し、滑り台の半分をノイズに変えて飲み込んでいった。
(第十三話 完)
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