第10話 中学校養護教諭・榊原真緒の日常-2

第一章:陸上部の渇きと、トラウマの古傷

 市立北中学校の保健室。

 湿度計は七十八%を示している。外は晴天なのに、部屋の隅には黒いカビが浮き始めていた。

「先生、水……水、飲んでもいいですか?」

 ベッドに座っているのは、陸上部のエース、健太(けんた)だ。

 彼は顔面蒼白で、唇はカサカサに乾いている。手には空になったペットボトルを握りしめ、異常な執着で水道の蛇口を見つめている。

 真緒は、健太の脈を測りながら、過去の苦い記憶を反芻していた。

 

 (五年前、最初のゲートが開いた日。私は生徒の『ただの風邪』を見落とし、半月も入院させてしまった。あの子の青春を奪ったのは私だ)

 その悔恨が、真緒を過剰なまでの「観察者」に変えた。だからこそ、今の異常も見逃さない。

 健太の症状は、脱水ではない。むしろ体内は水分で満たされているのに、脳が「水辺へ行け」と誤作動を起こしている。

「健太くん、今日はもう部活は中止。迎えを呼ぶから」

「でも、井戸が……校庭の井戸が、僕を呼んでるんです。涼しくて、気持ちいい場所があるって」

 真緒はゾクリとした。

 井戸。地下水脈。

 保健室のシンクの蛇口から、ポタリ、と水滴が落ちた。

 その水滴は、重力に逆らうように一瞬だけシンクの縁を這い上がり、そして排水口へと吸い込まれていった。

 ただの物理現象ではない。水そのものが**「意思」**を持ち始めている。

第二章:美術室の振動と、腐った青

 昼休み。真緒は校内の巡回に出た。

 「水の異変」を確かめるためだ。

 美術室の前を通ると、異様な臭いがした。絵の具の油臭さではない。腐った海藻の臭いだ。

 中を覗くと、美術部の唯(ゆい)が、水道の前で筆を洗っていた。

 だが、洗っている水は真っ黒に濁り、筆にまとわりついている。

「唯さん、その水……」

「あ、先生。水道管が唸ってるんです。ブーンって。この音を聞いてると、すごく筆が進むの」

 唯が描いているキャンバスを見る。

 そこには、青と黒の絵の具で、無数の首を持つ蛇のような怪物が描かれていた。

 無意識のスケッチではない。彼女は「配管の音(低周波)」を通じて、地下にいる何かと同期してしまっている。

 ゴボッ……ゴボボッ。

 水道管の奥から、空気が抜ける音が響いた。

 その音に合わせて、唯の瞳孔が開く。

「……来る」

 蛇口から、水と共に**「腐った肉片」のようなヘドロ**が吐き出された。

 その中に、キラリと光るものがあった。魚の鱗ではない。爬虫類の、それもZウイルスに侵されて変色した硬質な鱗だ。

「触らないで!」

 真緒は咄嗟に唯の手を引いた。

 彼女の手首を掴んだ瞬間、真緒自身の指先にも、ピリッとした電気が走った。

 幻聴が聞こえる。

 (コッチへオイデ……ラクニナルヨ……)

 真緒は歯を食いしばった。

 自分もターゲットにされている。心の隙間、独身の孤独、教師としてのプレッシャー。奴らはそこを狙って「水」を媒介に入り込んでくる。

第三章:地下の培養槽と、封印の崩壊

 放課後。真緒はPTA会長の堂本に電話をかけた。

 専門家としての分析と、地域の伝承を照らし合わせるためだ。

「堂本さん、先日崩れた山の祠。あそこには何が封じられていたんですか?」

『……多頭の蛇神だよ。水害の化身だ』

 やはり。

 真緒の中で診断が確定した。

 『Zハイドラ(多頭蛇)』。異世界でも屈指の再生能力を持つ怪物が、Zウイルスに感染し、死ぬこともできずに地下水脈で増殖し続けている。

 学校の地下配管は、今や奴らの**「培養槽」**だ。温かく、有機物が流れ込み、感性の鋭い子供たちの生気が満ちている場所。

「先生! 健太くんが!」

 校庭から悲鳴が上がった。

 真緒は窓から身を乗り出した。

 下校させたはずの健太が、フェンスを乗り越え、立ち入り禁止の古井戸に近づいている。

 彼の足取りはふらついているが、目は虚ろで、口元には恍惚とした笑みが浮かんでいた。

「いけない……!」

 真緒は救急バッグを掴んで走り出した。

 恐怖で足がすくみそうになる。

 もし、あそこに「本体」がいたら? 私ごときに何ができる?

 だが、五年前の後悔が彼女の背中を蹴り飛ばした。

 (もう二度と、私の目の前で生徒を犠牲にはさせない!)

第四章:井戸の底の眼と、小さな共闘

 古井戸の縁に手をかけた健太の腰を、真緒は後ろから抱き止めた。

「離して! 水が、水が呼んでるんだ!」

「目を覚ましなさい! それは水じゃない、毒よ!」

 その時。

 井戸の底から、シュウウウ……という異音が噴き上がった。

 暗闇の中から、**人の太ももほどの太さがある「首」**が、三本、ぬるりと鎌首をもたげた。

 『Zナーガ(ハイドラ幼体)』。

 鱗は剥がれ落ち、露出した肉が腐敗と再生を繰り返している。眼球はなく、熱感知ピットのような穴が、真緒たちを見上げていた。

 シャァッ!

 一匹が飛びかかってくる。

「くっ!」

 真緒は健太を庇い、持っていた**「塩素系消毒剤(業務用原液)」**のボトルを、ナーガの口の中に突っ込み、握り潰した。

 ジュワァァァァッ!

 強アルカリが粘膜を焼き、ナーガが苦悶にのたうち回る。

 ゾンビ化して痛みはないはずだが、化学火傷による組織崩壊は止められない。

「今のうちに逃げるわよ!」

 真緒は健太を引きずり、校舎へと退避した。

 井戸からは、怒り狂ったような低い唸り声と、無数の水音が響いてくる。一匹や二匹ではない。地下水脈全体が、敵だ。

 保健室に戻り、震える健太に毛布をかけた後、真緒はスマートフォンを取り出した。

 手は震えている。

 これは、一介の養護教諭が扱える案件ではない。

 だが、国や警察を呼べば時間がかかる。今必要なのは、**「この街の異常を知っている仲間」**だ。

 彼女は二つの連絡先をタップした。

 『さくら台動物病院・古賀雄大』

 『動物愛護センター・坂井淳』

「……榊原です。緊急事態が発生しました」

 彼女の声は、震えながらも芯が通っていた。

「北中学校の地下水脈が、完全に汚染されました。敵は『水』そのものです。……先生方の専門知識と、物理的な駆除能力をお借りしたいのです」

 窓の外。

 夕闇に沈む校庭の古井戸から、黒い水が溢れ出し、校庭を浸食し始めていた。

 それはまだ、街全体から見れば小さな水溜まりに過ぎない。

 だが、真緒たち「気づいてしまった者たち」による、孤独な防衛戦の幕開けだった。

(第十話 完)

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