第6話 中学校養護教諭・榊原真緒の日常

第一章:ポチの食欲と、未成熟な感情

 市立北中学校の保健室。

 養護教諭の榊原真緒(さかきはらまお・三十五歳)は、生徒たちのカルテを睨んでいた。

 微熱と倦怠感。症状は変わらないが、最近の生徒たちは、以前よりも**「満たされた、深い眠り」**を求めてくる。

「先生、私、もう起きられないかも。このまま寝てたら、嫌なこと全部忘れられそう」

 ベッドで眠る二年生の女子生徒が、夢うつつで呟いた。

 真緒は彼女の顔を覗き込む。頬の皮膚に、ごく微細な白い綿毛のようなものが付着していた。

「……また『ポチ』の仕業?」

 女子生徒は微笑んだ。

「ポチはね、私の嫌いなところを食べてくれるの。テストとか、友達とケンカした時のモヤモヤとか」

 真緒は冷静に問いかけた。

「そのポチは、どんな形なの?」

「白い塊。ふわふわしてるけど、触ると少し湿っぽい。まだ小さいの。だから、あんまり大きな嫌なことは食べられないって言ってた」

(未成熟……)

 真緒は直感した。これが、保健所がZ-3と呼ぶ**「植物性変異の初期段階」だ。

 そして、この怪異は、まだ知能が高いわけではない。子供たちの「強い感情エネルギー」**を餌に、単純な法則で学習しているに過ぎない。

 別の男子生徒が入ってきた。症状は同じ。

 「ポチはどこにいる?」と聞くと、男子は無邪気に答えた。

「最初はね、裏山の秘密基地にいたんだ。でも、ユウト先輩が『学校に連れてきた方が寂しくないよ』って」

 真緒はメモを取る手が止まった。

 ユウト。隣接する小学校の、あの少年だ。

第二章:亀裂が入った信念

 昼休み。真緒は生徒指導室から借りた「没収品ボックス」を机に広げた。

 そこに、二年生の生徒が最近書いた手紙があった。


「ポチはユウトがくれた。ポチはさみしい気持ちが好きなんだって。ポチが大きくなったら、ウチのオヤジの文句も全部食べてもらうんだ。」


(ユウトが媒介になっている……)

 真緒は顕微鏡を取り出し、生徒の制服の襟元に付着していた白い綿毛を改めて観察した。

 倍率を上げる。

 白い菌糸は、単なる胞子ではない。それは不器用に枝分かれし、特定のパターンを学習しようとしているかのように、断続的に振動していた。

(この菌糸が目覚めたら、知的なミーム型生命体になる。そして、私の信念を打ち砕く最大の武器になる……)

 真緒の信念。それは、「人は可哀想と思った瞬間に判断を誤る」という、冷静なプロ意識だ。

 しかし、ポチがもし、その人の心の**「寂しさ」や「後悔」といった弱い感情を喰らい、「安堵」**という毒を与える存在だとしたら?

 真緒は、顕微鏡から目を離した。

 知らず知らずのうちに、自分の右手人差し指が、顕微鏡台に置かれた**菌糸のサンプル(シャーレ)**に触れていた。

 チリッ。

 指先から微かな痺れを感じた瞬間、真緒の頭の中に、遠い日の、誰もいない放課後の保健室の映像がフラッシュバックした。

 両親の喧嘩から逃げて、布団の中で泣いていた、幼い自分自身の姿。

 (――サミシクナイヨ。ボクガイルカラ)

 幻聴だ。だが、その声は甘く、心地よかった。

 真緒は慌てて指を引っ込めた。

「……ッ、危ないわ」

 指先が、一瞬だけ重く、眠気を帯びた。

 物理的な感染よりも、感情の侵食の方が、真緒にとってはずっと恐ろしいものだった。彼女は、自分のプロ意識が壊れることを最も恐れていたのだ。

第三章:顔を覚えた怪物

 放課後。真緒は誰もいなくなった保健室で、静かにノートに記録を続けた。

 『広域変異観察記録・フェーズ2』。

 ポチの成長速度、ユウト少年との関連性、そして、自分の心の隙。

 チャイムが鳴り終わり、生徒たちが完全に下校した頃、ベッドで眠っていたはずの最後の男子生徒が、静かに起き上がった。

「先生、ありがとうございました」

 男子生徒は礼儀正しく言ったが、その瞳は白く濁り、口元には恍惚とした笑みが浮かんでいた。

 そして、カーテンの隙間から、ユラユラと揺れる白い綿毛が這い出しているのが見えた。

「あのね、ポチが言ってたよ」

「……何を?」

 真緒は冷静を装い、彼から一歩距離を取った。

「『先生の、ずっと昔からある、一番深いところに隠してるさみしさが、大好きだ』って」

 真緒の顔から、一瞬、冷静な笑みが消えた。

 それは、誰にも見せていない、彼女自身の最大の秘密だった。

「ポチは、先生の顔を覚えたって。先生がいつか、本当に嫌なことがあったら、迎えに行くって」

 男子生徒はそう言い残すと、足音もなく、保健室を出て行った。

 真緒は、すぐに自分の右手の平を見た。

 シャーレに触れた人差し指の、爪の付け根。

 そこには何もない。感染はしていない。

 しかし、彼女の視界の隅、床のタイル。

 そこに、小さな白い綿毛が、一つ落ちているのが見えた。

 真緒が目を凝らした瞬間、その綿毛は、自力で真緒の靴の裏へと飛び移った。

 真緒は金庫から鍵を取り出し、ノートをしまった。

 もう、ただの観察者ではいられない。

 怪異は、すでに私という「背骨」に絡みつき始めた。

(第六話 完)

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