第5話 保健所動物愛護センターの坂井淳の日常

第一章:鉄則と、泥だらけのメモ

 保健所動物愛護センターの坂井淳(四十三歳)には、二十年のキャリアで培った鉄則がある。

 『可哀想だと思った瞬間に、人間は判断を誤る』。

 相手は害獣だ。あるいは、かつてペットだった怪物だ。そこに感情移入すれば、噛まれるか、精神を病むか、そのどちらかだ。

 壁の予定表を見る。今日の出動は一件。

 『特殊変異体(分類コードZ-3)・アライグマ』。

 場所は、住宅街に隣接した工場跡地。

「Z-3……植物寄生型か」

 坂井は防護服のジッパーを上げながら、無意識に舌打ちをした。

 最近、Z-3が増えている。それも、凶暴化するのではなく、人間に「何か」を求めてすり寄ってくるタイプが。

 それは坂井にとって、牙を剥く獣よりも遥かに処理しづらい相手だった。

 現場の工場跡地。湿った土の上に、そのアライグマは座っていた。

 逃げようともしない。白濁した目で、じっと坂井を見上げている。

 その背中は異様だった。白い綿毛のような菌糸が、皮膚を突き破ってびっしりと増殖している。痛々しいはずなのに、アライグマはそれを気にする風でもなく、ただ呆然としていた。

「……確保する」

 坂井は感情を殺し、捕獲網を構えた。

 だが、その足元を見て、動きが止まった。

 アライグマの前足の下に、泥にまみれた一枚のメモ用紙があった。

 雨に濡れて滲んでいるが、子供の拙い字で、こう書かれていた。

 『ポチのごはん 3じ』

 その横には、コンビニ弁当の空き容器と、菌糸でカチカチに固まった百円ショップの安っぽい鈴が転がっていた。

(……飼われていたのか。それも、子供に)

 野良ではない。誰かがこの怪物を「ポチ」と名付け、秘密の友達として餌を与え、そして――手に負えなくなってここに捨てたのだ。

 アライグマが「クゥ……」と鳴いた。

 それは命乞いではなかった。

 **「ご主人様、いい子にしてたよ。褒めて」**という、哀れな報告だった。

 坂井の鉄則が揺らいだ。

 こいつは被害者だ。人間の孤独を埋めるために利用され、変異し、捨てられたゴミだ。

 その同情が、一瞬だけ坂井の心に生まれた。

「……クソッ」

 坂井は吐き捨てるように網を振り下ろした。

 アライグマは抵抗せず、網の中で小さく丸まった。まるで、やっと迎えが来たと安堵するように。

第二章:甘い煙と、侵入した「共感」

 処理は淡々と進んだ。

 現場に残された菌糸と、あのメモ用紙をバーナーで焼却する。

 炎が上がると、獣臭さではなく、焼き菓子のような甘ったるい香りが漂った。それは、誰かの「秘密基地」の匂いだった。

 その作業中、右手の親指にチクリとした痛みが走った。

 防護手袋の指先に、目に見えないほどの亀裂が入っていたらしい。

 保健所に戻り、坂井は執拗に手を洗った。

 だが、洗っても洗っても、恐怖は消えなかった。

 彼が恐れているのは、Zウイルスへの感染ではない。

 **「あのアライグマに同情してしまった」**という、自分の心の防壁に開いた穴だ。

 あの一瞬の隙。そこに、物理的な菌糸だけでなく、**怪物の「情動」**が入り込んだ気がしたのだ。

 報告書を書くため、ペンを握る。

 右手の親指が、微かに震えていた。

 爪の生え際を見る。

 そこが、白く変色していた。

 蛍光灯にかざすと、白い部分は皮膚ではなく、微細な綿毛が密集しているのが分かった。

 ドクン、ドクン。

 指先から、冷たい脈動が伝わってくる。

 そのリズムは、坂井の心拍とはズレていた。

 あのアライグマの、弱々しく、しかし粘着質な鼓動と同じリズムだ。

(……やっぱり、入ったのか)

 坂井はペンを置いた。

 指先が熱い。いや、冷たいのに熱い。

 まるで、指先の菌糸が**「もっと仲間を連れてきて」「寂しい」**と、坂井の脳に直接信号を送っているようだった。

 感情が侵食されている。

 「可哀想」だと思った瞬間、俺はもう人間側ではなく、あちら側(Z)の論理に取り込まれたのだ。

 坂井は引き出しからテーピングを取り出し、親指をきつく巻き固めた。

 血が止まるほど強く。

 指先の脈動を、物理的に押し殺すために。

第三章:脈打つ影と、終わらない日常

 夕方、再び出動要請が入った。

『坂井、至急頼む。ひだまり商店街の裏路地。野良猫の群れだが、様子がおかしい。……分類コード、Z-3』

 無線のスピーカーから流れる声には、ひどいノイズが混じっていた。

 ザザッ……ザザザッ……。

『……キライナ……モノ……ナク……ナレ……』

 一瞬、ノイズの奥から、子供のような、あるいは泥の中から響くような声が聞こえた。

 坂井はハッとして無線機を睨んだ。

 同僚の声じゃない。

 これは、俺の耳の中で鳴っている音だ。

 テーピングで塞いだ親指の脈動が、聴覚神経と共鳴して、幻聴を作り出している。

「……了解。すぐ向かう」

 坂井は立ち上がり、防護服を着直した。

 外に出ると、世界には薄い靄(もや)がかかっているように見えた。

 目をこする。靄は晴れない。

 これは天気ではない。俺の角膜のフィルターが、濁り始めているのだ。

 アスファルトに伸びる自分の影を見る。

 街灯に照らされた坂井の影は、ユラユラと不定形に揺れていた。

 風のせいではない。

 ドクン、ドクン。

 右手の親指の脈動に合わせて、影そのものが膨張と収縮を繰り返している。

(俺は、まだ人間か?)

 自問しても、答えは返ってこない。

 ただ、親指の奥から「早く行こう」「仲間がいるよ」という甘い衝動が突き上げてくるだけだ。

 坂井は公用車に乗り込み、アクセルを踏んだ。

 向かう先は商店街。

 そこには、汚れたガラガラを守る会長がいる。花を売る主婦がいる。そして、秘密を抱えた少年がいる。

 この街の日常は、もうとっくに引き返せないところまで腐敗している。

 坂井はハンドルを握る手に力を込めた。

 彼の仕事は、その腐敗を処理することだ。

 たとえ、自分自身がその腐敗の一部になりかけているとしても。

(第五話 完)

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