第4話 滝川ユウトの日常
第一章:心の隙間と、甘い胞子の匂い
小学五年生の滝川ユウト(十一歳)の部屋は、いつも少しだけ湿っぽい。
先週、クラスで一番仲の良かったタケシが、両親の都合で隣の市に引っ越してしまった。ユウトは独りになった。
お母さんは仕事で忙しく、帰宅はいつも遅い。
ユウトは学校から帰ると、誰もいない部屋で、ただ押し入れの隅っこに体育座りをするのが日課になっていた。
「ただいま。……お腹、空いた?」
三週間前、神社裏で拾った「奇形のマッシュルーム」のような植物。名前は『ムク』。
ムクは、僕の押し入れの奥で、段ボール箱を割って巨大化していた。
ユウトはランドセルから、くしゃくしゃになった三十五点の算数のテストを取り出した。
テストを丸めて、ムクのてっぺんの切れ込みに押し付ける。
ジュワッ。
ムクはそれを溶かして吸い込む。ムクの体がプルプルと震え、側面にある目のような模様が、ユウトの感情を吸い取った後のように少し冷たいピンク色に変わる。
「ありがとう。……嫌なもの、食べてくれて」
ユウトはムクの肌を撫でた。
ひんやりとして、濡れたナメクジみたいにヌルヌルする。
ムクの体から、甘いような、酸っぱいような不思議な匂いが、微かに漂う。
ユウトはその匂いを吸い込むと、胸の中にあったタケシへの寂しさや、テストへの不安が、フワッと溶けていくのを感じた。
(大人の言う「汚い匂い」なんて嘘だ。これは僕だけの秘密基地の匂いだ)
ユウトにとって、ムクの成長は「孤独を埋めてくれる唯一の友達」の進化だった。ムクは何も言わないが、ユウトの「嫌なもの」から優先して食べてくれる。その優しさが、ユウトにはたまらなく嬉しかった。
第二章:軋む家と、曖昧な認識
その夜、ユウトは不思議な夢を見た。
自分が緑色の森の中で、地面から栄養を吸い上げている夢だ。足の指先が土に溶けていく感覚が、とても心地よかった。
翌朝、お母さんが険しい顔で電話していた。
「ええ、そうなのよ。湿気がすごくて。……二階の壁紙が浮いてきてるのよ。一度、業者に見てもらうわ」
ユウトは慌てて部屋へ駆け込んだ。
押し入れの戸が、内側からの圧力で少し開いている。ムクはもう巨大化し、押し入れ全体を埋め尽くす肉塊になっていた。
「ムク……? 壁、食べちゃダメだよ」
ユウトが小声で注意すると、ムクは側面の目のような模様をギョロリと動かした。
そして、ベニヤ板に突き刺した根っこを通して、ドクン、ドクンと何かを送り込んでいるのが見えた。
ムクの体は熱を帯び、ユウトの部屋の壁の割れ目から、湯気のような胞子が立ち上っている。
ユウトはムクにそっと抱きついた。
ムクはユウトの背中に、太い蔓のような根を巻きつけた。
その瞬間、ユウトの頭の中に「キライナモノ、ナクナレ」という、低い、くぐもった声が響いた。
それは、ムクの純粋な**「願い」なのか。それとも、ユウトの「感情を利用しようとする企み」**なのか。ユウトには区別がつかなかった。
第三章:ボクとムクの共生(シンビオシス)
「ユウト! ちょっと、何してるの!?」
廊下から、お母さんの足音が近づいてくる。
ユウトは焦らなかった。ムクが「大丈夫」と言っている気がしたからだ。
お母さんがドアを開けた。
部屋の中には、湯気のような胞子の霧が充満している。
「あら……ユウト、また窓を開けっ放しにして。湿気が入るじゃない。それに、押し入れの黒カビがひどいわよ。すぐに換気扇を回して」
お母さんは咳き込みながら、眉をひそめた。巨大なムクの姿は、見えていない。
ムクの胞子が、お母さんの視覚と嗅覚を「日常生活の不満」にすり替えたのだ。
「ごめん、お母さん。すぐやるね」
お母さんは押し入れの湿気を気にするだけで、ユウトの顔色の悪さには気づかなかった。
「まったくもう。カビの処理、また業者に頼まなきゃ。高いのに……あら、あなた、手が汚れているわよ」
お母さんが、ユウトの指を指した。
ユウトは自分の指を見た。
指先と爪の付け根の皮膚が、少しだけ白く、カビのようにふやけている。
「ううん、泥遊びしただけだよ。すっごく気分がいいんだ」
ユウトは満面の笑みで答えた。
お母さんは首をかしげながら、部屋を出て行った。
ドアが閉まると、ユウトは押し入れに戻り、ムクの柔らかい肉に触れた。
指先の白くふやけた部分が、ムクの体から伸びてきた細い菌糸と繋がっている。菌糸は、彼の爪と皮膚の間を通り、ゆっくりと血管へと侵入しているのが見えた。
それは、痛くない。むしろ、温かい。
ユウトの指先の皮膚は、微かに青い色を帯び、ムクの生命の色と繋がった。
「これで、ずっと一緒だね」
ユウトは押し入れの肉塊に寄り添い、目を閉じた。
壁の向こうで、家の柱がミシミシと軋む音が、以前よりも大きく響いている。
だが、その音はユウトにとって、ムクが自分のために「秘密基地」を作っている音だった。
明日もきっと、ムクは僕を裏切らない。そう信じながら、ユウトは胞子の微睡みの中で眠りに落ちた。
(第四話 完)
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