第3話 花屋・百瀬ひろ美の日常
第一章:美意識と公害対策
町外れにあるフラワーショップ『フルール・モモセ』の朝は、FMラジオの無機質な予報から始まる。
『――続いて、今日のZ花粉予報です。市内全域に「やや多い」の注意報が出ています。洗濯物の外干しは控え、外出時はマスクとゴーグルを……』
店主の百瀬ひろ美(三十二歳)は、ラジオを切り、ゴム手袋をはめた。
店の中は、百合の芳醇な香りと、それを台無しにする「生乾きの雑巾」のような臭いが混ざり合っていた。
「……また入ったのね」
ひろ美は無表情で、バラを生けた深緑のバケツを覗き込んだ。
水面が油膜のように虹色に光り、ボコッ、ボコッ、と粘着質な泡を立てている。
鉄製のトングで底をさらうと、握り拳大の緑色の塊――『Zスライム(植物性変異種)』が釣れた。本来は透明なスライムが、茎の養分と腐敗菌を吸ってヘドロ化した成れの果てだ。
「ピギッ……」
トングの先で震える汚物を、ひろ美は裏口の「事業系廃棄物(Z分類)」の指定ゴミ箱へ放り込んだ。
このゴミ箱は週に一度、市の専門業者が回収に来るが、処理手数料はバカにならない。
「おはよう、百瀬さん。臭うわねえ」
開店準備をしていると、隣のクリーニング店の店主が顔を出した。
「おはようございます。そちらも?」
「ああ。換気ダクトにZバットが巣を作っちまってね。客のワイシャツに糞が落ちて大騒ぎだよ。市役所の『害獣対策課』に電話しても、三ヶ月待ちだとさ」
二人は「やれやれ」と肩をすくめ合った。
これが日常だ。美しさを売る花屋も、清潔さを売るクリーニング屋も、毎朝まずは「汚物処理」から始めなければ商売にならない。
九時過ぎ。常連の老婦人が来店した。
ひろ美は、彼女の背中のコートに、銀色の粉がびっしりと付着しているのに気づいた。街中を飛ぶZシルクモス(蛾)の鱗粉だ。
だが、ひろ美は何も言わなかった。
代わりに、少し香りの強いスイートピーを選んで渡した。
「いい香りねえ。最近、鼻が詰まっちゃってて」
「春先ですからね。お大事になさってください」
老婦人は笑顔で帰っていった。
その背中の粉が、店内の空気に少しずつ溶け込んでいくのを、ひろ美は息を止めて見送った。
第二章:沈黙の客とカサブランカ
午後二時。冷たい雨と共に、あの男がやってきた。
三十代半ばのサラリーマン。毎週決まった時間に現れ、決まった花を買っていく。
「……カサブランカを」
男の声は湿っていた。
注文はいつも、香りの強い純白のユリを五本。
ひろ美は手早く花を選びながら、男の手首に視線を走らせた。
ワイシャツの袖口から、無数のひっかき傷が覗いている。そして、その傷口からは、赤い血ではなく、植物の葉脈のような青緑色の筋が浮き上がっていた。
(また増えている……)
男の家には、「何か」がいる。
それはおそらく、Zモンスター由来の奇病『樹人化ウイルス』に感染した家族か、あるいはペットとして飼い慣らそうとして失敗した植物モンスターか。
このカサブランカは、愛の贈り物ではない。その「何か」が放つ腐臭を誤魔化すための、強力な芳香剤だ。
「あの、お客様」
ひろ美は会計の際、あえて世間話を装った。
「最近、湿気が多いですよね。お花も傷みやすいので、延命剤を多めに入れておきますね。……あと、殺菌効果のあるユーカリもサービスしておきましょうか?」
それは、「あなたの家の事情を察していますよ」という遠回しなサインだった。
男は虚ろな目でひろ美を見た。数秒の沈黙の後、彼は力なく首を振った。
「……いえ。妻が、ユーカリの匂いは嫌がるんです。あいつ、最近ずっと寝室に閉じこもってて……機嫌が悪くて」
男はそこで言葉を切り、自嘲気味に笑った。
「困ったもんですよ。壁紙を張り替えたばかりなのに、すぐにカビるし」
男は「壁紙のカビ」と言った。
だが、ひろ美の目には、部屋中を埋め尽くす脈打つ蔦(つた)の幻影が見えた気がした。
男は逃げるように去っていった。
残された千円札は、湿った土の匂いがした。
ひろ美はそれをトングでつまみ、レジに入れるのをためらった末に、自分の財布の「汚染紙幣用」のポケットに入れた。
第三章:緑の家と普通の愚痴
夕方、ひろ美は配達の軽バンを走らせた。
届け先は新興住宅地の一角。注文主は、単身赴任中の夫から妻へ、「結婚記念日のアレンジメント」だ。
ナビが「目的地周辺です」と告げた場所を見て、ひろ美はハンドルを握る手に力を込めた。
その家は、緑色の腫瘍に覆われていた。
庭木ではない。太く、血管のように脈打つ『Zアイビー』が、外壁を食い破り、二階の窓を塞ぎ、屋根まで侵食している。
近隣の家は、この家との境界線にトタン板や防護ネットを張り巡らせていた。見て見ぬふりを決め込んでいるのだ。
「……お届けものです!」
蔦で埋もれたインターホンは壊れていた。
声を張り上げると、玄関のドアが、メリメリと繊維が千切れる音を立てて開いた。
「はーい、ごめんなさいねえ」
出てきたのは、エプロン姿の主婦だった。
彼女は笑顔だった。
その右半身――首筋から腕にかけて、色とりどりの小さなキノコが群生していることを除けば、ごく普通の主婦だった。
「あら、綺麗なお花! 主人が頼んでくれたのね」
「はい……記念日おめでとうございます」
ひろ美は努めてプロの笑顔を作り、花束を差し出した。
主婦は左手でそれを受け取った。家の中からは、むせるような湿気と、獣の唸り声のような低い音が聞こえてくる。
「ありがとう。でも困っちゃうわ、あいつったら。こんな時期に生花なんて」
主婦は花束を抱えながら、まるで世間話のように愚痴り始めた。
「見ての通り、ウチ、湿気がすごいでしょ? 洗濯物は全然乾かないし、除湿機の水は一時間で満タンになるし。その上、この子たち(右腕のキノコ)が胞子を飛ばすから、掃除してもキリがないのよ」
「……大変ですね」
「ええ、本当に。リフォームしようにも、業者が『感染リスクがあるから』って来てくれないし。……あら?」
主婦が花に顔を近づけた瞬間、右腕のキノコが一斉にカサを開き、黄色い粉をパフッと噴き出した。
美しい赤いバラが、瞬く間に黄色い粉まみれになる。
「あらいけない、興奮しちゃって。ごめんなさいね、せっかくのお花が」
「いえ……その」
「でも、ちょうどいいわ。この子たち、新しい花粉が大好物なの。肥料にさせてもらうわね」
主婦は悪びれもせず、粉まみれの花を抱えて家の中へと消えていった。
閉まるドアの隙間から、Zアイビーの蔦がスルスルと伸びて、花束に巻きつくのが見えた。
ひろ美は車に戻り、アクセルを踏み込んだ。
バックミラーの中で、あの家は夕闇に溶け込み、ただの巨大な茂みのように見えた。
店に戻ると、ひろ美はすぐに店の奥のシャワールームへ入った。
熱いシャワーを浴びながら、体をタオルで赤くなるまで擦った。あの主婦のキノコの胞子が、肌に残っているような気がしたからだ。
入念に洗い、鏡を見る。
「…………」
何もなっていなかった。
肌は白く、滑らかだ。発疹もなければ、キノコも生えていない。
ひろ美は安堵の息を吐いた。
しかし、店に戻り、明日の分の花を準備しようとした時、手が止まった。
バケツの中にある、入荷したばかりの純白のユリ。
その花弁が、一瞬だけ、あの主婦の腕に生えていたキノコに見えたのだ。
目をこする。
ただのユリだ。美しく、高貴な花だ。
だが、その香りを嗅いだ瞬間、ひろ美の鼻腔の奥に、あの家の腐った土の臭いが蘇った。
「……臭い」
ひろ美は呟いた。
店の中には、花の香りしかないはずだ。
けれど、もう彼女には分からなくなっていた。
自分が売っているのが「美しい花」なのか、それとも「まだ腐っていないだけの死骸」なのか。
ひろ美は、何もついていない自分の腕を、もう一度強く擦った。
外では、Zモンスターの不快な羽音が、夜の街に響き始めていた。
(第三話 完)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます