第2話 商店街会長・武藤さんの日常
第一章:会長の罪と、歪んだ金属音
商店街の朝は、武藤巌(六十五歳)の激しい咳き込みから始まる。
長年の喫煙による慢性気管支炎だ。「ゴホッ、ガハッ」という濁った音が、シャッターの閉まったアーケードに寒々しく響く。
武藤は懐から飴を取り出し、口に放り込んだ。甘ったるいハッカの味が、肺の不快感を一時的に麻痺させる。
彼は特設会場の『ガラガラ抽選器』に向き合い、その剥げかけた金メッキを布で拭った。
「会長、おはようございます。……またそのガラガラ磨いてるんですか」
電気屋のケンジが、死んだような目で通りかかった。手には「対空用殺虫スプレー」のケースを抱えている。
「ああ。これが回らなきゃ、祭りは始まらんからな」
「祭りって言ってもねえ。……十年前、駅前の再開発計画があった時、会長が『空が見える商店街がいい』って反対しなけりゃ、今頃俺たち、空調の効いたビルの中で商売できてたんですけどね」
ケンジの言葉には、棘があった。
武藤の手が止まる。
その通りだ。武藤は、古き良き景観を守るという名目で、近代化を拒んだ。その結果、この「空が見えるアーケード」は、空から降ってくるハーピーやスライムの格好の侵入経路となり、商店街は廃墟同然になった。
この現状を作ったのは、間違いなく武藤の頑固さだ。
「……終わった話をするな。今は、今日の福引を回すことだけ考えろ」
武藤は低い声で遮った。
ケンジは肩をすくめ、「へいへい。俺はZバットの糞の掃除してきますよ」と立ち去った。
武藤は唇を噛んだ。
そうだ。だからこそ、このガラガラだけは守らねばならない。それが、自分の失敗に対するせめてもの贖罪であり、同時に、間違いを認めたくないという老害の意地でもあった。
その時だった。
チャリ……ギリ……チャリ……。
金属とコンクリートが擦れ合う音に混じって、何か、硬いものが「ねじ込まれる」ような異様な音が聞こえてきた。
現れたのは、コボルドの群れだ。
だが、様子がおかしい。
彼らはただ歩いているのではない。立ち止まっては、拾った空き缶のプルタブや古釘を、自分の腕や胸の肉に「刺して」いるのだ。
「ウウ……アア……」
一匹のコボルドが、武藤と目が合った。
その腕には、錆びたフォークが深々と突き刺さっていた。血は流れていない。壊死した肉が、異物をただ飲み込んでいる。
彼らは光る物を食べるのではない。自分の体をデコレーションケーキのように飾り立てることに、病的な快楽を見出しているのだ。
「……趣味の悪い連中だ」
武藤は杖を握りしめた。恐怖よりも先に、生理的な拒絶反応が背筋を走る。
コボルドの濁った瞳が、武藤の手元――金色のガラガラを捉えた。
瞬間、彼らの喉がゴクリと鳴った。
第二章:贖罪のための防衛戦
「来るぞ! 総員、配置につけ!」
武藤の叫びに、店主たちがのっそりと顔を出した。やる気はない。だが、店を壊されるのは御免だ。
「へいへい。今日は何ですか、ワンちゃんですか」
魚屋のマサが、溜息混じりに冷凍カツオを構える。
コボルドたちは、ガラガラを目指してジリジリと包囲網を縮めてくる。
先頭の一匹が、自分の頬に刺さったスプーンを愛おしそうに撫でながら、ガラガラに手を伸ばした。
「触るな! それは俺たちの……俺の街の魂だ!」
武藤は杖を振り上げた。
だが、体が思うように動かない。昨夜からの咳のしすぎで、脇腹が痛むのだ。
杖は空を切り、コボルドの肩を掠めただけだった。
「ギャウ!」
コボルドが振り返る。その顔には怒りはなく、ただ「新しい飾り(杖の先端の金具)」を見つけた子供のような、無垢で残酷な好奇心が浮かんでいた。
「ひっ……!」
武藤は後ずさった。
こいつらは、俺を殺そうとしているんじゃない。俺の持っている金具を、俺の死体ごとコレクションに加えようとしているんだ。
その理解不能な価値観が、純粋な殺意よりも恐ろしかった。
「会長! 退がって!」
マサがカツオを薙ぎ払う。
ドゴッ。
鈍い音がしてコボルドが吹き飛ぶが、奴らは痛みを感じない。すぐに立ち上がり、自分の体に突き刺さったフォークがズレていないかを確認し、再びガラガラへ視線を戻す。
「きりがないぞ……!」
「会長、もう渡しちまいましょうよ! あんなポンコツ機械!」
ケンジが悲鳴を上げる。
「駄目だ! あれを渡したら……俺のやってきたことは全部、ただの失敗になっちまう!」
武藤は叫んだ。
それは、誰のためでもない。自分自身への言い訳を守るための叫びだった。
彼は震える手で懐を探った。
アルミホイルのボール。中には、昨夜、仏壇の引き出しから見つけた古銭が入っている。
「おい、クズ鉄収集家ども! 極上の『飾り』だぞ!」
武藤がボールを掲げる。
太陽光を反射して、銀色がギラリと光った。
コボルドたちの動きが止まる。
彼らの視線が、ガラガラ(金メッキ)と、アルミボール(純銀色)を行き来する。
「持っていけぇぇぇ!」
武藤はボールを、商店街の外にあるドブ川の方角へ投げた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、コボルドたちは「アアアアッ!」と歓喜の奇声を上げ、ガラガラのことなど忘れてボールへ殺到した。
我先にと互いを押しのけ、川へ飛び込んでいく。
水音が響き、争う声が遠ざかっていった。
「……はあ、はあ」
武藤はその場に膝をついた。
ガラガラは無事だ。
だが、商店街の床には、コボルドたちが落としていった錆びたネジや、体液で汚れた金属片が散乱していた。
まるで、この街の未来を暗示するようなゴミの山だった。
第三章:煙草か、それとも
「……なんとか、なりましたね」
マサがカツオを下ろす。
武藤は杖を支えに立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。
喉が、焼けるように熱い。
ケホッ、カハッ、オエッ。
激しい咳が出た。
いつものことだ。毎朝のルーティンだ。
武藤はそう自分に言い聞かせ、ハンカチで口元を覆った。
だが、咳の質が、いつもと少し違った。
いつもの「乾いたイガイガ」ではない。喉の奥に、ねっとりとした粘膜が張り付いているような、閉塞感がある。
そして、口の中に広がった味。
それはタバコのヤニの苦味にも似ていたが、どこか奥底に「カビたパン」のような、鼻に抜ける青臭さが混じっていた。
(……昨日の晩飯、何食ったっけな)
武藤は必死に記憶をたぐる。
違う。これは味じゃない。臭いだ。
さっき、コボルドと揉み合った時に吸い込んだ、あの甘ったるい腐敗臭が、肺の中から逆流してきているような感覚。
武藤はハンカチを見た。
白い布には、茶色い痰が付着していた。
それはタバコの吸いすぎによるものに見える。
だが、よく見ると、その茶色の中に、微細な黒い粒が混じっているようにも見えた。
「会長? 大丈夫ですか?」
ケンジが心配そうに(あるいは、厄介ごとを恐れる顔で)覗き込んでくる。
「……ああ、平気だ。昨日のシケモクがきつかっただけだ」
武藤はハンカチを素早く隠し、新しいハッカ飴を口に放り込んだ。
強い清涼感が、口の中の嫌な味を誤魔化してくれる。
そうだ、これはタバコのせいだ。絶対にそうだ。
そうでなくては困る。
「さあ、掃除だ。開店時間まであと三十分しかないぞ」
武藤は声を張り上げたが、その声は以前よりも少し掠れていた。
背中を向けてガラガラを磨き直す武藤の手は、微かに震えていた。
それが老いのせいなのか、恐怖のせいなのか、あるいは初期症状としての神経麻痺なのか。
武藤自身にも、もう判断がつかなかった。
ただ一つ確かなのは、今日も商店街は寂れていて、空からはいつでも「招かれざる客」が降ってくるということだけだった。
(第二話 完)
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