◯◯の日常
ことん
第1話 田中広人の日常
第一章:腐臭と憧れのなれの果て
午前六時三十分。スマートフォンの電子音よりも先に、窓の外から響く「グジュッ、グジュッ」という濡れた粘着音で、田中広人(たなかひろと)は目を覚ました。
カーテンを開ける前から分かる。風向きが悪い。
甘ったるい死臭と、安っぽい生ゴミの芳香剤が混ざり合ったような、胃の腑を直接撫で回されるあの臭いだ。
「……最悪だ」
広人は重たい体を引きずり、窓を開けて眼下のゴミ集積所を見下ろした。
そこにいたのは、かつて広人が少年時代に夢見た冒険の敵役――ゴブリンだ。
だが、RPGに出てくるような精悍な小鬼ではない。皮膚は土気色に膿み、所々が剥がれ落ちてピンク色の肉が覗いている。目は白内障のように白く濁り、焦点が合っていない。
『Z体(ゾンビ化)』したゴブリンが三匹。防鳥ネットに爪を引っ掛け、ただ無意味に揺すっている。食欲があるわけではない。脳が腐ってバグり、同じ動作を繰り返しているだけだ。
五年前に『門』が開いた日、当時十二歳だった広人は胸を躍らせた。剣と魔法、未知なる冒険。
しかし現実は、冒険ではなく「公衆衛生の危機」をもたらしただけだった。
「広人ー、ゴミ出し頼める? お父さん、昨日スライム踏んで捻挫しちゃって」
「……分かってるよ」
広人はジャージに着替え、玄関にある「対害獣用ロングトング(改)」を掴んだ。
外に出ると、湿った朝の空気に混じって、先ほどの腐臭が鼻腔にこびりつく。
「おい、どけ」
広人が近づいても、ゴブリンたちは反応しない。一匹が、口の端から黄緑色の粘液を垂らしながら、虚空を見つめて「ア……アウ……」と掠れた声を漏らすだけだ。
広人は息を止め、トングでゴブリンの肩を挟んだ。
その感触に、背筋が粟立つ。
固い筋肉の感触ではない。熟しすぎて崩れる寸前の桃を掴んだような、グズリとした不快な柔らかさが、金属越しに伝わってくるのだ。
「うわ、マジかよ……肉が崩れそうなんだけど」
吐き気を抑えながら、広人は手首のスナップを効かせてゴブリンを引き剥がした。ゴブリンは抵抗もせず、ボロ雑巾のようにアスファルトの上を転がり、そのまま動かなくなった。
死んではいない。そもそも死んでいるようなものだからだ。
ゴミ袋をネットに押し込んでいると、背後で転がったゴブリンが、仰向けのまま「ケケケ……」と笑い、盛大にくしゃみをした。
ビチャッ。
足元のスニーカーに、粘着質な飛沫が飛び散る。
「……っざけんなよ」
広人は低く毒づき、靴底をアスファルトに何度も擦り付けた。
怒りよりも先に、どうしようもない徒労感が押し寄せる。かつて勇者が剣を向けた相手は、今やただの汚物だ。
広人は逃げるように家に戻り、消毒用アルコールを靴と手、そして顔にまで吹きかけた。
第二章:汚染区域の通学路
通学路の空気は澱んでいた。
駅前の交番付近では、若い警官が悲鳴に近い声を上げていた。
「だ、誰か殺虫剤! 早く!」
警官の帽子に、手のひらサイズの妖精、ピクシーがしがみついている。
だが、その羽はボロボロに千切れ、全身から白い粉を噴き出していた。鱗粉ではない。壊死した皮膚片だ。
ピクシーは「キキキ!」と狂ったように笑いながら、警官の顔の周りを飛び回り、粉を撒き散らす。
あれを吸い込めば、三時間は激しい咳が止まらなくなる。広人はマフラーで口元を覆い、早足で通り過ぎた。
駅のホームに降り立つと、異様な光景が広がっていた。
線路内に、黄色い防護服を着た作業員たちが群がっている。
『業務連絡。線路内にてマッシュルームマンの群生地を確認。胞子レベル4。火炎放射による焼却処分を行います』
事務的なアナウンスと共に、ゴォォォッという音と熱波がホームまで届く。
燃え上がるキノコ型の魔物たちが、断末魔のような高い音を立てて爆ぜる。その煙は甘く、焦げ臭い。
「また遅延かよ。あの胞子、服につくとカビるんだよな……」
隣のサラリーマンがスマホを見ながら呟く。誰も「生き物が焼かれている」ことには心を痛めない。ただ「迷惑なカビ」が処理されているだけだ。
広人もまた、無表情でスマホを取り出し、遅延証明書の発行画面を開いた。
慣れとは恐ろしい。この異常な殺菌作業が、今では日常の背景画(バックグラウンド)になっている。
学校の下駄箱を開けた瞬間、生温かい空気が漏れ出した。
暗がりの中に、赤い目が二つ、光っている。インプだ。
コウモリの翼を持つ小悪魔だが、その体は皮膚病にかかった野良犬のように毛が抜け落ち、紫色のあざだらけだった。
「ギャッ!」
インプが飛び出し、広人の顔を目掛けて突っ込んでくる。
広人は反射的に身をすくめたが、インプの濡れた翼が頬をかすめた。
ザラリとした、サメ肌のような冷たい感触。そして鼻を突くアンモニア臭。
「うわっ……!」
インプはそのまま廊下の壁に激突し、痙攣しながら床に落ちた。
広人は頬を手の甲で拭った。ヌルリとした粘液がついている。
「田中、大丈夫か? 顔、洗ってこいよ。そこから菌が入ると腫れるぞ」
通りがかった友人が、心配するでもなく淡々と言った。
広人は無言で頷き、トイレへと急いだ。
鏡に映った自分の顔は、恐怖よりも「不潔なものに触れた」という生理的嫌悪感で歪んでいた。
頬を赤くなるまでゴシゴシと洗いながら、広人は思った。
もし、あいつらがもっと強くて、人間を殺すような存在だったら、まだマシだったかもしれない。これほどまでに惨めで、汚らしくなければ、僕たちは彼らを「敵」として尊重できただろうに。
第三章:数学準備室の残留物
放課後近い五時間目。数学準備室の空気は、冷蔵庫の中のように冷え切っていた。
広人はプリントの束を抱え、早足で退出しようとしていた。
ここに長居はしたくない。部屋の隅にあるロッカーから、カタカタと小刻みに震える音が聞こえるからだ。
(気づかないフリだ。関わったら負けだ)
だが、ドアノブに手をかけた瞬間、背後の気温が急激に下がった。
首筋に、氷を押し当てられたような悪寒が走る。
違う。物理的な寒さじゃない。心臓を直接鷲掴みにされるような、本能的な拒絶反応。
「……ぁ……あ……」
耳元で、湿った吐息が聞こえた。
広人は硬直した。
視界の端に、青白い靄(もや)が映り込む。Z化したゴーストだ。
生前の未練などとうに忘れ、ただ「生きた人間の熱」を啜るためだけに彷徨う、自我の崩壊した霊体。その顔は苦悶に歪み、眼窩は空洞だった。
(まずい、取り憑かれる……!)
ゴーストの半透明な腕が、広人の右肩に伸びる。
触れられた瞬間、肩の感覚が消失した。神経が凍りつき、血液が逆流するような感覚。
広人は震える手でポケットのスマホを掴み出した。
自治体推奨の『除霊アプリ(Ver.4.2)』を起動する。
画面には、無機質な広告バナー(『異世界風邪にはこのサプリ!』)が表示され、×ボタンがなかなか押せない。
「ふざけんな、早くしろよ……!」
ゴーストの顔が目の前に迫る。腐った霊気が肺に入り込み、咳き込みそうになる。
ようやく広告を消し、広人は『高周波・強制排除』のボタンを連打した。
ギャァァァァァァァッ!!
スマホのスピーカーが割れんばかりのノイズを吐き出した。
黒板を釘で引っ掻く音を百倍にしたような不快音が、鼓膜を突き破る。
ゴーストは「ギィッ!?」と奇声を上げ、広人の体を突き抜けてロッカーの方へと弾け飛んだ。
体を突き抜けた瞬間。
広人は、内臓を冷たいヘドロで撫で回されたような吐き気を覚えた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
アプリを止める指が震えている。
ゴーストはロッカーの隙間に吸い込まれ、気配は消えた。
だが、広人はその場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪え、準備室を飛び出した。
教室に戻ると、いつもの退屈な授業風景があった。
先生が黒板に数式を書いている。生徒たちは居眠りをしている。
広人は自分の席に座り、大きく息を吐いた。
「おい田中、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
「……ああ、ちょっと準備室が寒くて」
広人は右腕をさすった。
ゴーストに触れられた肩。
そして、体を突き抜けられた胸のあたり。
教室は暖房が効いているはずなのに、体の右半分だけが、まるで死人のように冷たいままだった。
自分の体温が、そこだけごっそりと抜け落ちてしまったような、奇妙な喪失感。
(……感覚が、戻らない)
窓の外を、ハーピーの幼体がカラスに突かれて落ちていくのが見えた。
日常は続いている。
だが、広人は自分の右腕を強くつねってみた。痛みは鈍く、遠い。
ふと、準備室のロッカーの隙間から、あの空洞の目がまだ自分を見ているような気がして、広人は思わず背後を振り返った。
そこには、ただ汚れた教室の壁があるだけだった。
けれど、広人の右腕の冷たさは、風呂に入るまで――いや、翌朝になっても、完全に消えることはなかった。
第四章:右腕の“捕食”治療
翌朝、事態は「不便」の域を超えていた。
洗面所で顔を洗おうとした瞬間、右腕が洗面台の縁に「ゴツン」とぶつかった。痛みはない。まるでスーパーで買ってきた鶏肉のブロックを、自分の肩からぶら下げているような感覚だ。
鏡を見ると、右の前腕から指先にかけて、カビの生えたパンのような青黒い斑点が浮き上がっている。
「母さん、病院行く。腕が死んでる」
キッチンで弁当を詰めていた母は、広人の腕を一瞥すると、心配するよりも先に、露骨に顔をしかめた。
「うわ、気持ち悪。あんた昨日、消毒サボったでしょ」
「サボってない。学校でZゴーストにやられたんだ」
「あーあ、Z関連の治療費って高いのよねえ……。今月、お父さんのギックリ腰(スライム踏みつけ事故)で出費がかさんでるのに。ちゃんと領収書もらってきてよ」
母の言葉には、息子の体への恐怖よりも、家計へのダメージを懸念する苛立ちが滲んでいた。
広人は黙って頷いた。この世界では、身体の異常は「悲劇」ではなく「損害」として処理される。その事実が、動かない右腕よりも寒々しく感じられた。
***
駅前の雑居ビルにある『久ヶ山(くがやま)内科・異界科クリニック』。
待合室は満席だった。
壁には『Zマッシュルームマンの胞子吸入に注意』というポスターが貼られ、その横には手書きで『待合室での嘔吐は罰金一〇〇〇円』と殴り書きされている。
「田中さん、三番診察室へ」
呼ばれて入った診察室は、ホルマリンと腐敗臭、そして強烈なコーヒーの匂いが混ざっていた。
医師の久ヶ山は、目の下に濃いクマを作り、死んだような目でタブレットを操作していた。
「症状は? ああ、見りゃ分かるか。典型的な霊的壊死(ネクロ・フリーズ)だね」
久ヶ山は広人の青黒い腕を、まるで物体のように持ち上げ、無造作にデスクの上に落とした。感覚のない腕が、ゴトリと重い音を立てる。
「放置すると一週間で腐り落ちて、そこから新しいゴーストの苗床になるよ」
「な……っ」
「まあ、まだ間に合う。『アレ』で吸い出せばね」
医師は看護師に目配せをした。
出されたのは、同意書だった。
『生体治療に伴う寄生リスクに関する免責事項』という文字が並んでいる。
「……先生、寄生リスクって何ですか」
「ああ、これ? 治療に使うヒルがね、たまに患部の腐った肉が美味すぎて、そのまま皮下組織に潜り込んじゃうことがあるんだよ。そうなったら切開して取り出すから。別料金だけど」
広人の背筋が凍った。
冗談ではない。医師の目は本気で面倒くさそうだった。
サインをする手が震える。だが、サインしなければ腕は腐り落ちる。選択肢などなかった。
「よし、じゃあ始めよう。『グレイ・リーチ(Z変異種)』、二匹乗せで」
久ヶ山がピンセットで摘み上げたのは、親指ほどの太さがある、白っぽい半透明のヒルだった。その体内には、赤黒い脈のようなものが透けて見えている。
「動かないでね。暴れてヒルが驚くと、逆に毒素を吐き戻すから」
言うが早いか、久ヶ山は二匹のヒルを広人の右腕に押し付けた。
ジュルッ。
湿った音がして、ヒルの口が皮膚に食い込む。
感覚のないはずの腕に、異様な感触が走った。
痛みではない。「何か」が、自分の血管の中に無理やり侵入し、そこにある汚泥をズルズルと啜り上げているような、生理的な不快感。
それは、自分の体の一部が、他者の餌として消費されている感覚だった。
「う……ぐ……」
「我慢して。いい吸いっぷりだ。見てごらん、腕の色が戻ってきてる」
ヒルの体がドクンドクンと脈打ち、みるみる黒く濁っていく。代わりに、広人の腕からは青黒い斑点が薄れていく。
だが、広人はその光景に安堵できなかった。
ヒルの吸盤が食い込んでいる箇所が、皮膚の下で微かに盛り上がり、何かが蠢いているのが見えたからだ。
(……入ってきてないか? これ、本当に吸ってるだけか?)
恐怖で叫び出しそうになったその時、久ヶ山がピンセットで強引にヒルを引き剥がした。
ブチッ、ブチッ。
皮膚が引っ張られる嫌な音と共に、満腹になったヒルがトレイに転がった。
「はい、終了。ギリギリセーフだね」
「……セーフ?」
「ああ、いや。なんでもない」
久ヶ山は言葉を濁し、黒く変色したヒルを医療廃棄物ボックスへ投げ捨てた。
広人は自分の腕を見た。
色は戻っている。指も動く。
だが、ヒルが張り付いていた二箇所の丸い跡だけが、赤く爛れ、熱を持っていた。
「薬出しとくから。あと、もし夜中に腕が勝手に動いたり、皮膚の下で何かが這う感覚があったら、すぐに来て。緊急手術になるから」
さらりと言われた「緊急手術」という言葉が、広人の胸に鉛のように沈んだ。
***
会計は五千円を超えた。
クリニックを出ると、外の空気は相変わらず生ゴミのような臭いがしたが、診察室の臭いよりはマシだった。
広人は、復活した右腕でカバンを持ち直した。
重さを感じる。感覚はある。
けれど、握りしめたカバンの取っ手の感触が、以前とは微妙に違っていた。
一枚、薄い膜を隔てて触っているような、あるいは、自分の皮膚が他人のものにすり替わったような違和感。
(……治ったんだよな?)
ふと、右腕の血管がピクリと跳ねた気がした。
広人は袖をまくって確認したが、ただ赤いヒルの跡があるだけだ。
だが、その赤みは、心臓の鼓動とは少し違うリズムで、ゆっくりと明滅しているように見えた。
広人は袖を下ろし、見なかったことにした。
医者は「終了」と言った。なら、これでいいはずだ。
これ以上考えても、金がかかるだけだ。
通学路を歩き出す。
すれ違った野良猫が、広人の右腕に向かって「フーッ!」と毛を逆立てて威嚇し、逃げ去っていった。
広人は足を止めず、ただ右腕をポケットの奥深くに突っ込んで、学校へと急いだ。
(第一話 完)
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