第7話 鍵が導く先

暗く、湿り気を帯びた空間に、瓦礫や廃材が無造作に積み重なっていた。空気は重く、不快なほどに生ぬるい湿気が肌にまとわりつく。その中心に、202号室の住人、白石サラの姿があった。

彼女の背には、黒いベルトで括り付けられた小型の爆薬。点滅する赤いランプが、命の猶予を数えるようにゆっくりと明滅している。

神代リクの指示のもと、ここ、かつては手術室だったのか講堂だったのか分からぬ、廃病院の五階ホールへと連れてこられたのだった。

天井の一角には割れた天窓があり、そこから差し込む微かな薄紫の光が、幻想めいた雰囲気を漂わせている。だが、その静謐は幻に過ぎない。

その光の傍らに、見たことのない異様な存在。空中に浮かぶひし形のオーブがあった。中にはまるで意志を持つように、金属質の鍵のような物体がゆっくりと回転している。


白石(神代の意図は分からない。でも、このオーブと関係があるのは間違いない。)


白石は、冷たい汗を背に感じながら目を細めた。

神代「想像はしてるかもしれないが、お前には、その光の結晶体に入ってもらう。」


そう口にした神代は、飄々とした口調の裏に確かな狂気を潜ませていた。


神代「もちろん、返答は聞いていない。言う事を聞かなければ、その背中の爆薬を発火させる。分かるよな?木っ端微塵だ。」


白石は足を震わせ、声を詰まらせながらも必死に問いかけた。


白石「言うことを聞けば、助けてくれるの? お願い、お願いだから。」(今は、耐えろサラ。)


神代は、あざ笑うようににやりと笑みを浮かべた。


神代「俺の言うことだけ聞いてればいい。お前みたいな弱者は、誰かに頼らなきゃ生きていけないんだ。だから俺に従え。それが、お前の唯一の選択肢だ。」


白石「ひぃぃ…っ。」


白石の細い声が、廃墟の闇に吸い込まれていく。




一方、クロスラインレジデンス。

二階のラウンジは、以前と変わらぬ温かな灯りに照らされていた。

一ノ瀬と仁科は、今日も食料と酒を持ち込み、同じようにテーブルを囲んでいた。中途半端な安心感と、拭いきれぬ後悔の中で。

仁科が缶ビールをあおりながら言う。


仁科「今日はあの子たち、顔見せないな。」


一ノ瀬「あんなことがあったからね。」


一ノ瀬は、手にしたスナック菓子の袋を軽く握りしめながら言った。


一ノ瀬「こうして何事もなかったように集まってる私たちの方がおかしいのかもしれないね。」


仁科「言えてるな、悪い意味で慣れちまってる。」


仁科は肩をすくめると、ラウンジのソファにどかっと腰を下ろした。


一ノ瀬「もう私そのソファには座れないよ。また爆破されて、あれはお尻に穴が空くどころの騒ぎじゃないって。穴だらけの女なんてモテないって。」


仁科「がはは、下ネタ言えるぐらいには回復してんだな、お前も。」


一ノ瀬「元々、職業柄ってやつ。何でもかんでもネタに変換しちゃうの。悪いクセだね〜っと、ちょっとトイレ行ってくる。」


一ノ瀬は立ち上がると、共用トイレの方へ向かった。

ラウンジの照明の届かぬその先、薄暗い洗面所の一角。彼女はふと、洗面台の上に紙切れのようなものが置かれているのに気づいた。


一ノ瀬(何?これ、手紙?)


薄い便箋のような紙を手に取り、彼女は目を通す。

一ノ瀬はトイレの隅に残された小さな紙切れを見つけ、慎重に広げた。


【 202の白石です。神代に、北東にある廃病院への同行を強制されました。逆らえば命はないと思います。お願いです、誰か助けてください。隙を見てメモを書いています。】


一ノ瀬は息を呑み、眉をひそめた。


一ノ瀬「これは、かなりマズイかもじゃん。」


急いでメモをたたみ直すと、すぐさまラウンジへ引き返した。そこにいた仁科に紙を差し出すと、仁科は目を通した瞬間、表情を険しくした。


仁科「おいおい、今度は誘拐かよ!爆弾もきっとアイツが仕掛けたんだ!いい加減に頭きたぜ。」


そう言って奥の部屋から金属バットを持ち出してくる。


一ノ瀬「ちょ、ちょっと待って!本気で助けに行く気!?危ないって!」


一ノ瀬が止めようとするが、仁科の目には覚悟が宿っていた。

仁科「俺達人間はな、助け合って生きてかなきゃなんねぇんだよ!それを平気で裏切ってくるってんなら俺だって黙っちゃいねえ!」


その時、背後から落ち着いた声が響く。


レイナ「何事ですか?」


振り向けば、そこには凛とした気配をまとったレイナが静かに立っていた。


一ノ瀬「レイナちゃん!丁度良かった、ちょっと大変なことになっててさ、聞いてくれる?」


一ノ瀬が慌てて事情を伝えようとした時、レイナも口を開いた。


レイナ「その前に、一つ私から。ユイを知りませんか?本来ならもう戻ってきてもいい頃合いなのに、まだ帰ってこないんです。事前に連絡もなかった。何か、事件に巻き込まれている気がしてなりません。」


一ノ瀬と仁科は互いに目を合わせ、無言のまま頷いた。もしかしたら、いや、きっと関係している。そう考えた。


一ノ瀬「ユイちゃんのことは、私達もまだ……。でも、これを見て。」


一ノ瀬は白石が残したメモを差し出す。レイナは一字一句、真剣なまなざしでそれを読んだ。

仁科「神代の仕業だ。あいつはもう仲間じゃねえ。ただの暴走野郎だ。白石さんとは特別な関係じゃねぇけど、無関係の人間をこんな風に巻き込むなんて生粋のサイコパスか、悪魔の使いか。俺はもう、あいつと心中してでも止める覚悟だぜ。」


レイナは静かにメモを折り畳み、まっすぐ二人を見据えた。


レイナ「なるほど、これは緊急事態ですね。真実がどうであれ、現地に行かなければ何も分かりません。」


その目に迷いはなかった。


レイナ(ユイ、お願い、無事でいて。)「白石さんを助けに行きます。ユイがいる可能性があるなら尚更です。仁科さんも一ノ瀬さんも、色々お気持ちはあるかと思いますが、ここで待っていてください。必ず、私が助け出しますから。」


その決意に満ちた言葉に、仁科が一歩前へ出た。


仁科「お気遣いありがとう。でも今回は、俺も行かせてほしい。今度こそ、役に立つぜ。」


続けて、一ノ瀬も口を開く。


一ノ瀬「そんなこと言ったら、私も行かなきゃ薄情みたいじゃん!」


レイナは一瞬だけ黙り込み、心の中で小さく息を吐いた。


レイナ(参ったな、どうしよう。この人たちを納得させるのは、やっぱり難しそう。)


やがて彼女は観念したように頷いた。


レイナ「分かりました。ただし、私が引き返す合図を出したら、必ずレジデンスに戻って下さい。それが絶対条件です。」


仁科は真剣な表情で頷いた。


仁科「分かった。約束するぜ。」


一ノ瀬「私、一応、救急箱持ってくるわ!」


そう言って一ノ瀬は部屋へ駆け戻り、仁科も自室に戻ってから、肘当てや膝当てなどを装着して再び現れた。

レイナも鍛錬用に使っている木刀を携えて、腰に収める。


レイナ(本当ならフェンロから刀を預かりたかったけど、仕方ない。今は、これが私のベストの剣だ。)


彼女は心の中で静かに決意を重ね、仲間とともに白石のもとへ向かう準備を整えた。

レイナ、一ノ瀬、仁科は非常階段より一階エントランスに降りた。足音が響き、不穏な空気が立ち込める。


レイナ「!!?」


一ノ瀬「ちょ!なんなの!」


仁科「マジかよ!なんで異種族が一階に…。」


三人の前には、二つの陰が立ちはだかっていた。


ノヴァ「一階に異種族がいるって、ここは共用エントランスなんですけどー??」


二つの陰は人間三人を凝視観察する。


ノヴァ「はっはーん、人間がそろそろ来るかもって冥主様の予測は的中じゃんねー!」


エリオット「だが、対した実力のない連中だ。見てすぐに分かる。我々が相手するまでもないな。」


一人は頭部から二本の角を生やし、青く短い髪を揺らしながら小柄な体型を鋼鉄の甲冑が身を包んだ女性。もう一人も頭部から二本の角を生やし、標準体型といった容姿に髪色は金色。同じく鋼鉄の甲冑を身にまとい、禍々しいオーラを放っていた。


レイナ「何者だ。」(この相手はマズイ、直感がヤバいと告げてる。なんだろうこの空気。)


一ノ瀬、仁科も同じく恐怖を感じていた。


ノヴァ「私達のことを知らないなんて新入りかよ〜!めんどくせ〜!どうせ、死ぬお前達に説明なんかしてやんないよーだ!はは!」


エリオット「死人も同然だが一応、名前くらいは名乗ってやれ。私は龍族のエリオット=サーヴィンという。」


ノヴァ「はは!優しいねお前は!人間ども、私は龍族ノヴァ=イルステラちゃんだよー!早く死んでね。」


エリオット「こいつらはシンセリオンで事足りる。行くぞノヴァ。」


ノヴァ「はいはーい、あの世でも元気でね!」


二人はエントランス出口から姿を消していく。


レイナ「なんなんだ、あれらは。」


仁科は低く唸るように呟いた。


仁科「このレジデンスには多種多様な生き物が住んでるってのは知ってたが、連中は、特に雰囲気が違う。できれば、二度と出会いたくねぇ。」


その瞬間、コツ、コツ、と硬質な足音が階段から響いてくる。


一ノ瀬「ねぇねぇ、階段から誰か降りてくる音するんだけど!?」


一ノ瀬が不安を押し殺した声で言った。

三人は同時に振り返り、レイナは即座に二人の前へと出て壁となった。

階段の奥から、鋼の影がゆっくりと現れる。現れたのは三体。全身が金属の光沢を放ち、頭部には感情の読めない無機質な眼球。身体はすべて機械構造で構成され、各個体の右腕には鋭く磨かれた刀が直結している。

胸部や肩には識別番号のような刻印「SYN-01A」「SYN-02B」「SYN-03C」無機質な記号が冷たく浮かんでいた。

そのうちの一体、SYN-02Bが口を開く。

金属音の混じった、冷ややかな声が空間を切り裂いた。


SYN-02B「間引きの時期がやってきた。大人しくしていれば、苦しまずに逝かせてやる。一人ずつ、前へ出ろ。」


レイナが一歩踏み出し、静かに言い返す。


レイナ「そんなことを言って、素直に従うと思ってるの?」


一ノ瀬「レイナちゃん、こいつらだよ!」


一ノ瀬の声が震える。


レイナ「こいつらがどうしました?」


仁科が言葉を継ぐ。


仁科「この機械みてぇな奴らは、以前このレジデンスに住んでた人間を何人も殺してる。レイナちゃん、ユイちゃんがいる部屋の前の住人もそうだ。」


レイナ「まさか、そんな事が…。」


一ノ瀬が搾り出すように続けた。


一ノ瀬「怖がらせたくなくて、まだ二人には話してなかったけど、あいつらは本気で、俺たちを処理するつもりなんだ。どうしよう、逃げ場ないよ…。」


だが、レイナの目には怯えの色は一切浮かんでいなかった。凛とした表情のまま、前を見据える。


レイナ「一ノ瀬さん、逃げ場は探すものではなく、作るものですよ。」


鋼の影と、人間の意志が、ぶつかり合う瞬間がそこにあった。

レイナは鍛錬用に使っていた木刀を構え、静かに思念を込める。その刃には、ノームとの修行を経て得た深い光が帯びていた。


レイナ「二人は、下がっていて下さい。」


そう告げると、レイナは一気に横へと駆け、SYN-02Bの懐に切り込もうとする。だが、相手は微動だにせず、重厚で静謐な佇まいのまま。


レイナ(一向に攻撃してこない?)


不意に、SYN-02Bが動く。右腕を持ち上げ、刀剣を構えた。

レイナは警戒し、正対して踏み込もうとする。だが次の瞬間、その腕から伸びた刀剣がまるでボウガンのように、空気を裂いてまっすぐに飛び出した。


レイナ「っ!!」


レイナは反射的に木刀を振り上げ、飛来する刃を払う。天井へと突き刺さる刀。だが終わりではなかった。続けて、SYN-01A、SYN-03Cも刃を放つ。 


レイナ「くっ……!」


間髪入れずに振り抜き、二本の刃も叩き落とす。視界の先では、三体の右腕に新たな刃が補充されていた。


レイナ「次はこっちから行く!」


レイナは一歩で間合いを詰め、SYN-02Bの下顎を木刀の先端で鋭く突いた。思念を込めたその一撃は、数センチほど機械の装甲にめり込む。


レイナ(く、硬い!)


全身に衝撃が走る。それでもレイナは木刀を引き抜き、背後から迫る殺気に即座に反応した。低く腰を落とし、地を這うように木刀を振る。SYN-01Aの足を払うと、相手はバランスを崩しよろめいた。


レイナ「そこ!!」


すかさず、レイナはSYN-01Aの眼球を正確に突く。白煙が立ち上る中、SYN-01Aは木刀を掴もうとするも、引き抜きの速さが勝る。

さらに、背後から迫るSYN-03Cの斬撃を察知し、レイナは体を百八十度ひねる。片手で木刀を回転させ、首元へと一撃を叩き込んだ。バチッと、内部機構が焦げるような音が響く。

そして再び、SYN-02Bへと視線を戻した瞬間。


レイナ「……ッ!」


SYN-02Bの口が、大きく開いた。


レイナ(何か来る!)


すぐさまレイナは後方へ跳ぶ。その刹那、SYN-02Bの口から火炎が噴き出した。半径二メートルを一瞬で焦がす、灼熱の放射。


仁科「なんて野郎だ!あれ、完全に殺人兵器だろ!」


仁科が思わず唾を呑む。


一ノ瀬「でも、レイナちゃん、すごい!今までの誰よりも強いんじゃないの!?」


一ノ瀬が、目を輝かせながら呟いた。


レイナ「そんな曲技まで持ち合わせているのね。本当、油断ならないわ。」


その言葉の直後。

SYN-02Bまで一気に距離を詰め、レイナの木刀は、火炎放射を終えてなお口を開いたままのSYN-02の口内へ突き刺した。強い念に覆われた木刀の切先は後頭部まで貫通していた。

そして、構えを崩さぬまま右へ大きく切り裂く。

バギィッ!

SYN-02の顔面は半壊し、火花と油煙を撒き散らす。


SYN-02「人間、貴様。」


呻くように言葉を漏らす機械兵に、レイナは容赦なく右から左へ木刀を叩きつけた。

顔面は吹き飛び、鉄塊のように壁際まで転がる。


レイナ(やった!)


その一瞬、レイナの心に小さな隙が生まれた。

次の瞬間、左右から迫ったSYN-01とSYN-03が、レイナの両腕をがっちりと拘束する。


レイナ「しまった…!」


仁科「レイナちゃん!」


仁科は金属バットを振りかぶり、援護に入ろうとする。

だが、SYN-01の右腕から射出された刃が地面を掠め、二人の足元を牽制するように突き刺さった。


SYN-01「お前たちは、あとでゆっくりバラしてやる。楽しみに待っていろ。」


レイナ「くっ、放せ!」


振り払おうとするも、機械仕掛けの剛腕はびくともしない。

SYN-01とSYN-03は、そのままレイナの腕を引きちぎるように互いに引き合い、握力で骨ごと締め上げていく。


レイナ「う、うあああああっ!!」


激痛に耐えきれず、木刀が手からこぼれ落ちる。

SYN-01、SYN-03は同時に右腕を構え、その刃をレイナの腕めがけて振り下ろす体勢に入る。


レイナ「くそっ……。」


油断した自分を激しく悔いた。

その瞳には、恐怖と悔しさが滲んでいた。


SYN-03「ガキのくせにてこずらせやがって。まずは両腕から失ってもらう。」


レイナは目をつむる、死の覚悟。

呆気なく終わってしまう現実を噛み締める。

刃が風を裂き、肌をかすめる気配。

だが、その刃が彼女に届くことはなかった。

ドガァンッ!!

突如として響いた爆音。

二体の機械兵の刃、そして腕ごと、激しいエネルギーによって引きちぎられ、宙を舞っていた。

まるでスローモーションのように、金属片が空中できらめく。


レイナ「え、何が、起きたの……?」


理解が追いつかぬまま、拘束を解かれたレイナはその場に崩れ落ちる。

SYN-01とSYN-03は、同時に攻撃元の方向へと顔を向けた。

その視線の先,


ユイ「レイナちゃんをいじめる奴は許さない!」


広い空間に、久々に聞くその声が反響する。

ユイの片手には、重厚なストームキャットMk-II

銃口からは、弾丸を放った直後の煙が静かに漂っていた。

そして彼女の表情には、どこか得意げなドヤ顔が浮かんでいた。


レイナ「ユイ!!」


ユイ「遅くなってごめん、レイナちゃん。もう、守られるだけの私じゃないから!」


仁科「ユイちゃん、どうしてここに?」


一ノ瀬「なんか、今までのユイちゃんと違う気がする。」


その雰囲気に圧倒されると同時に、彼女たちの表情は安堵に変わっていた。


SYN-03「たかが一人増えたところで、状況は変わらん。殺す。」


だが、言い終える前にユイの姿がふっと掻き消えた。

俊足のごとく背後に回り込んだユイ。

彼女はSYN-03の背中に、銃口をぴたりと突きつける。


SYN-03「バカな……!? はや。」


言い切る前に、轟音とともに爆発が起きた。

SYN-03の胸部に、直撃の弾丸が炸裂する。

SYN-03の上半身は激しい爆発と共に吹き飛び、そのまま前のめりに倒れ込んだ。機体の内部はむき出しとなり、焦げた配線と鉄の断面が火花を散らしている。

レイナは一歩前に出て、倒れた機体を見下ろす。そして、静かにユイを振り返った。


レイナ「本当に、あなたはユイなの?どうして、こんなにも強くなったの?」


その問いには、戸惑いや驚き、そして微かな希望が滲んでいた。

ユイは小さく笑みを浮かべると、満面の笑顔を見せ、まっすぐレイナの目を見つめて答えた。


ユイ「レイナちゃんを守るヒーローになるって、決めたから!」


その瞳は自信に満ち、かつての臆病だった少女の面影はどこにもなかった。

レイナはしばらくその顔を見つめていたが、ふいに吹き出して笑った。


ユイ「え、ど、どうしたの?」


ユイが慌てて聞く。


レイナ「ううん、ただ……あまりにもドヤ顔だったから。ちょっと、おかしくなっちゃって。」


ユイ「えぇ!?もう〜!かっこよく決めたつもりだったのに〜!」 


ユイは顔を赤らめて、頬を膨らませた。だが、そんなユイを見て、レイナは安心したように頷いた。


レイナ「でもね、安心した。あなたは間違いなくユイだわ。」


その時だった。


SYN-01「いつまで、私の存在を無視しているのだ、貴様ら。」


低く唸るような声が響き渡る。SYN-01が立ち上がり、左手を振りかぶった。

そして、レイナが首を落としたはずのSYN-02も、首無しのままギギィ……と不気味な音を立てて再起動するように立ち上がった。二体の機械兵士からは、異様な闘気が溢れ出している。

ユイは肩をすくめるようにして言った。


ユイ「もう、しつこいんだから。」


レイナ「ユイ、私もまだ戦えるわ。」


レイナが前に出ようとする。

だが、ユイは優しく手を伸ばし、彼女を制した。


ユイ「レイナちゃん、大丈夫。もうこの機械達は、私達の脅威じゃないよ。」


その言葉に、レイナは何かを感じ取ったのか、ゆっくりと頷いた。

しかし、その瞬間、SYN-01は拳をユイたちに向けて放とうとし、SYN-02も手から伸びた鋼の刀を一ノ瀬と仁科に向けて突き出した。


一ノ瀬「うわうわ!ちょっと、物騒なモン向けないでよー!!」


仁科「やべえ!」


思わず叫ぶ一ノ瀬と仁科。

だが、SYN-02の腕にいつの間にか黒い鞭が絡みついていた。


SYN-02「!!?」


その動きを封じるように鞭が締め上げられる。


ルーファス「すぐに終わらせてやる、鉄屑。」


静かに、だが確実に殺気を帯びた声が届く。ルーファスだった。

SYN-02は首を失いながらも、動揺の色を隠せない挙動を見せる。そのまま壁に向けて投げ飛ばされ、地面に叩きつけられた。

一方、SYN-01が振り下ろしたはずの拳が宙を裂くことなく、地面に落下する。


ヴェルム「ひゃっはあ!! 久々の切り落とす感覚ッ!ぶち壊しぃッ!!」


鋭い声と共に現れたのはヴェルム。彼の両手の短剣が赤い軌跡を描きながらSYN-01に幾度も突き刺さる。


SYN-01「ゴブリン族だと!?何故、人間側に……グガガガガガガ……。」


疑問を抱きながらも、SYN-01はついに活動を停止し、そのまま爆音を伴って崩れ落ちた。

一方、ルーファスはなおもSYN-02に鞭を叩きつける。何十連打にも及ぶ正確無比な一撃が機体を崩壊させ、次々と内部の部品がこぼれ落ちていく。そして、最後の一打が振るわれた瞬間、小爆発が起こり、SYN-02は粉々に砕け散った。

その場には、静寂が訪れた。

破壊された鉄の残骸のなか、ユイとレイナは再び向き合う。かすかな息遣いと共に、二人の間には確かな信頼が芽生えていた。


ユイ「レイナちゃん、立てそう?腕の方は大丈夫?」


レイナは一瞬だけ表情を歪めたが、すぐに小さく頷いた。

レイナ「うん、助けに来てくれてありがとう。私は大丈夫。結構痛むけど、まだ動けるわ。」


そのとき、遅れて駆け寄ってきたのは仁科と一ノ瀬だった。二人とも息を荒げながら、無事を確認して安堵の色を浮かべる。


仁科「また助けられちまったな。感謝しきれない。本当にありがとう。」


そう言って、仁科は静かに目を瞑ると、深々と頭を下げた。

一ノ瀬「ごめんね、私達、今日も足手まといになっちゃって。でも、ユイちゃんもレイナちゃんも無事で、本当に良かった。」


その瞳には、安堵と悔しさが入り混じった涙が浮かんでいた。


ユイ「本当にいいんです!みんな生きて、ここにいる。それが一番、大事なことですから!」


その言葉には、どこか自分自身にも言い聞かせるような強さがあった。


レイナ「ユイ。ところで、その後ろの二人は?」


ユイ「あ、えっとね。説明するとすっごく長くなっちゃうんだけど。この人は、私がここまで強くなる為に出会った仲間、ルーファスさん!」


ルーファスは一歩前に出て、静かに口を開いた。


ルーファス「私はルーファス。獣族の戦士だ。訳あってユイさんと行動を共にしている。これからよろしく頼む。」


その威厳ある声落ち着いた態度に、仁科も一ノ瀬も自然と姿勢を正した。


ユイ「んで、こっちは、えっと……ゴブリンの、ヴェルムさん。元々は敵だったんだけど、途中で仲間を裏切って、今は私たち側なんだ。」


ヴェルムは鼻で笑うように肩をすくめ、手を軽く振った。


ヴェルム「ま、裏切ったって言ってもな。人間をよ、俺もそうそう簡単に仲間面する気はねぇけど。ユイの号令一つで、敵は不意打ちして嬲り殺しにしてやっから、安心しな。とりあえずよろしくな、人間ども。」


仁科は一瞬たじろぎつつも、苦笑いを浮かべながら応じた。


仁科「ユイちゃんの人望、マジで化け物級だな。俺は仁科カンタ。見ての通り、ただの人間だけど、よろしく。」


一ノ瀬は苦笑いしながら手を小さく振った。


一ノ瀬「あはは一ノ瀬アカネです。よろしく…なんか人間以外と話すの、ちょっと緊張するなぁ。」


すぐに手を下ろし、恥ずかしそうに目を逸らした。


レイナ「黒瀬レイナです。ユイが信頼する方々なら、私も信じます。何か私にできることがあれば、遠慮なく言ってください。」


ルーファスは頷き、周囲を見渡しながら提案した。


ルーファス「うむ、今後のことも話し合いたいところだが。」


ユイ「そうだね、レイナちゃん。二階のラウンジって、まだ使えそうかな?」


その言葉に、レイナの顔が曇る。


レイナ「それが、ユイ。今、ちょっと大変なことが起きてて202号室の白石さんが、神代にさらわれたの。」


ユイ「え?」


その一言に、場の空気が一変する。


レイナは懐から一枚の紙を取り出し、手早くユイに差し出した。


レイナ「ラウンジのトイレで見つけた置き手紙。これがその証拠。」


ユイは紙を受け取り、素早く目を通す。そして、すぐに顔を上げた。


ユイ「一大事だね。行こう、レイナちゃん。白石さんを助けに行かないと!」


レイナはそのまっすぐな目を見つめ、わずかに微笑む。

レイナ「ありがとう。そう言ってくれるって、信じてた。」


ルーファス「トラブルか?もし危険があるなら、私も行くが。」


ヴェルム「右に同じだ。その為に俺はここにいる。」


ユイ「ありがとうございます。でも、これは大丈夫です、人間同士の問題だから。二人には、テト君達を取り戻す為の情報整理を先にお願いしたいんです。ルーファスさん、ヴェルムさんから詳しく話を聞いておいて下さい。私も白石さんを助けたら、すぐに戻って合流します。」


ルーファスはわずかに目を伏せ、考えるように唸ったが、やがて静かに頷いた。


ルーファス「そうか。ユイがそう言うなら、無理には言わん。ただし、危険があればこのゴブリンの笛を吹け。こいつと一緒にいるから、すぐにでも駆けつけられる。」


ユイ「ありがとうございます!」


ヴェルム「ま、好きにしな。俺の安全が保障されてるなら、別に文句もねぇ。ただ、死ぬんじゃねぇぞ。」


ユイ「もちろん、そのつもりです。」


レイナ「一ノ瀬さんも仁科さんも、全員が揃うまで部屋に戻っていて下さい。あの角の生えた二人が戻って来ると危険ですから。」


一ノ瀬「うんうん…そうさせてもらうわ……。」


仁科「ああ、軽率な行動はしないようにするぜ。」


レイナは真剣なまなざしで二人に頷くと、そのままユイの方に向き直った。


ユイ「レイナちゃん、行こう!廃病院だよね。」


レイナ「うん、急ごう!」


彼女は地面に落ちていた木刀を拾い上げ、再び戦いに臨む姿勢を整える。

二人はレジデンスを飛び出し、目的地へと走り出す。廃病院までの道を駆けながら、短くも濃い会話が交わされた。


ユイ「そういえばさっき、レイナちゃんが言ってた角の生えた二人って?他にも誰かいたの?」


レイナは走りながら頷いた。


レイナ「うん。あの機械仕掛けの敵が来る前に、龍のような角を二本生やした男女がいたの。明らかに人間じゃなくて、私たちのことを敵視してる感じだった。同じレジデンスに住む種族だと思うけど、すぐに外に出て行っちゃった。」


ユイ「そうなんだ。でも、私、絶対にみんなを守るから!」


力強く握った拳を胸元で突き立てるユイ。その目には迷いのない光が宿っていた。


レイナ「ふふっ、ありがとう。変わったね、ユイ。」

ユイ「色々あったからね〜。でも私にも、やらなきゃいけないことがあるの。戻ったら全部話すね。」


レイナ「うん、待ってる。」


同時刻、場所はレジデンスよりはるか南東。朽ち果てた森を抜けた先に、打ち捨てられたような廃教会がひっそりと佇んでいた。その中に、二つの影が静かに足を踏み入れる。


エリオット「数日前から連絡が途絶え、おかしいと思っていたが……まさか、こんなことになっているとは。」


教会の奥、崩れかけた祭壇の前にある石壁。その壁に、無惨な姿で磔にされた男がいた。全身に鋭利な刃物の痕が刻まれ、鉄骨で四肢を固定され、血まみれの状態でぐったりと項垂れている。龍族の一人、ライナスであった。

エリオットとノヴァは、剣を抜かずに近づく。沈黙を破るのは、エリオットの苛立ちを帯びた低い声だった。


エリオット「ライナス、一体何があった? 息絶える前に話せ。お前ほどの実力者が、そう容易くこうなる筈がない。」


ノヴァも声を荒げる。


ノヴァ「言え! 誰がやったんだ? ここまでやれるのは、我らの中でも限られているはず!」


ライナスは重く垂れた頭をわずかに持ち上げ、血走った瞳で彼らを見つめた。口元には血泡が溜まり、声もかすれている。


ライナス「人間の中に……一人、異分子がい、いる……(吐血)信じられん。あれは、ただの人間じゃ、ない……。」


エリオット「その人間とは誰だ?名を言え!」


ライナス「わ、分からない……不意打ちで……視界に捉える前に戦力を削がれた……ただ、気配や映る形は人間の造形をしていた…グハッ!」


血の塊が喉奥からせり上がり、ライナスはそれを盛大に吐き出す。真紅の飛沫がエリオットの胸元にかかる。


ライナス「人間ごときに……私が……やられるくらいなら(再び吐血)こ、ころして……くれ……。」


ノヴァ「おい、ちょっと待てよ!? まだ話は……!」


ノヴァの声を遮るように、エリオットは静かに片手を挙げた。

エリオット「分かった。やむを得ん。それが、お前の望みならば。」


静かに剣を抜き、一切の感情を見せずにその刃を振り下ろす。鈍く冷たい音が響き、ライナスの首が落ちた。


ノヴァ「なっ!?なんで殺す!?もっと詳しく聞けばよかっただろうが!」


エリオット「奴はもう喋れない。致命傷だった。これ以上、生き恥を晒させるわけにはいかなかった。人間に討たれたなどという汚名を抱えたまま、な。」


ノヴァ「はあ? 優先順位どうなってんのよ。人間ってレジデンスの連中だろ!? 最初から皆殺しにしておけばこんなことには!」


エリオット「焦るな。ライナスは我々と同等の力を持っていた。それを仕留めた者がいるとなれば、事は小さくない。冥主様への報告が先だ。下手に動けば我々も危うい。」


ノヴァは舌打ちし、拳を壁に叩きつけた。


ノヴァ「ちっ、人間どもめ! 下等生物の分際で、我ら龍族に喧嘩を売るとは! 八つ裂き確定!」


エリオットは何も言わずに踵を返す。その背を追うように、ノヴァも振り返った。

やがて、二人の龍族の影は、闇夜に溶けるようにして廃教会を後にした。



場所は移り、同時刻。南東の廃病院の前。

ユイ、レイナはついに、目的地である古びた廃病院の前に到着した。錆びついた鉄扉、割れた窓ガラス、崩れた外壁。まるで時間に見放されたかのような建物が、沈黙のまま二人を迎え入れていた。


ユイ「うわ…やっぱりホラーチック。こういうの、いつまで経っても慣れないなぁ。」


レイナ「私が先頭行くよ。ついてきて。」


ユイ「ちょっと待って!私だって負けてられないんだから!」


二人は扉を開け、中へと足を踏み入れる。薄暗く、湿った空気が一気に押し寄せた。天井には穴が空き、ところどころ雨漏りの跡が広がっている。

一階は広く見渡す限り、人の気配などは感じられなかった。二人は自然に上階へと足を運ぶ。

当然、エレベーターは沈黙したまま動く気配もない。二人は代わりに、壁際の非常階段を探し当てた。

息を潜めながら階段を登っていく二人。


レイナ(さすがにこの暗さは、私も怖いかも。)


ユイ(レイナちゃん、さすがだなあ。こんな空気の中でもどんどん進んでく。ほんと、怖いものなんてないのかも。)


ガタンッ!

乾いた音が階段の壁に反響する。ユイは足元にあった瓦礫を思わず踏んでしまったのだ。


レイナ「っ……!」


反射的に、レイナはユイの手を強く握った。


ユイ「ごめんっ!」


レイナ「う、うん……。気をつけよう。」


ユイとレイナは恐る恐る古びた階段を上り、四階までの各フロアを確認していった。

そこに人の気配はなく、照明もほとんど落ちており、わずかな非常灯の明かりが足元を照らしていた。


ユイ「なんか、映画に出てきそうな病院だよね…。」


ユイが苦笑まじりに呟くと、レイナは無言で頷き、前を歩きながら進み続けた。

天井から吊るされた蜘蛛の巣を掻き分け、横をすり抜けるネズミにユイが思わず肩をすくめる。時おり、コウモリが小さな羽音とともに頭上をかすめた。


ユイ「四階も何もないね。」


レイナ「うん、次は五階、気をつけて。」


二人がさらに階段を上がろうとしたそのとき、不意に柔らかな光が視界に差し込んだ。


ユイ「えっ、明るい?」


ユイは顔を上げ、レイナもその光の出どころに視線を向けた。


ユイ「五階は、日が入ってきてるみたい。」


五階にたどり着くと、二人は廊下の天井を見上げる。そこには吹き抜けのように天井が崩れ、破れた天窓から自然光が直接差し込んでいた。


ユイ「なんだか、他の階とは全然違うね。」


レイナ「光がある分、まだ少しマシだけど油断はできない。」


そんな会話を交わしていた矢先。


「助けて!!!」


突如、建物に響き渡るような叫び声が空気を裂いた。

二人は反射的に振り返る。声の方向、廊下の突き当たり。

そこにいたのは、両手両足を拘束され、椅子に無理やり座らされた白石サラ。

そしてその傍らには、鋭い眼光を宿した神代リクが立っていた。

まるで鬼のような、怒りと狂気を帯びたその瞳に、ユイもレイナも息を呑んだ。


神代「なんで新入り共がここにいやがる!白石、お前、何かしらの手段で助けを呼んだな!?」


怒鳴り声と同時に、神代は白石を平手で殴りつけた。白石の体は椅子ごと横倒れになり、鈍い音を立てて床に倒れ込む。


ユイ「やめて!!あなた何が目的なの!?」


神代「黙れ!!俺に指図するな、質問するな!俺はな、この中で一番強いんだ!」


怒りに歪む神代の目が、狂気を孕んでギラついている。

神代「白石の背中には、いつでも起爆できる小型の爆弾が付いてる。お前らがヘタな動きをすれば地獄を見ることになるぞ?」


レイナ「くっ…分かった。抵抗しない。白石さんを解放して。私たちはあなたに危害を加えるつもりはないわ。」


神代「ほぉ、素直でよろしい。ただし、そこを一歩でも動くなよ?」


そう言って神代はポケットから小さな装置を取り出す。手のひらサイズの四角い金属ケース。カチッと蓋を開くと、その中から不気味な黒い球体を取り出した。


神代「それじゃあ、試してみようか。」


黒球を思い切りこちらに投げつける。


レイナ(まずい、爆発物!?)


咄嗟に木刀を構え、迎撃しようと踏み出しかけたその瞬間。

パンッ!!

乾いた破裂音が響き、黒球が宙で砕けた。


レイナ「…ッ!」


ユイのストームキャットⅡが光った直後だった。砕けた球体は内部の炸薬を一気に放出し、爆風が辺りに拡がる。床がきしみ、空気が震える。


神代「なにぃ!?」


レイナ「ユイ!ありがとう、助かった!」


ユイ「大丈夫。任せて。あなた、今ので私達を殺そうとしたよね?」


神代「チッ。まさかこいつが撃ち抜くなんて。予想外すぎる!」


目を見開き、後ずさる神代の表情に焦りが滲む。


神代「お前ら!念力が使えるのか!?だったらもう、全力で潰すしかねぇな!!」


ユイ「レイナちゃん、やられる前に動くしかない! 白石さんも救出する。」


レイナ「そうね。ユイのほうが早く動けると思うから、白石さんを助けて。私はあいつの注意を引くから。」


ユイ「分かった。でも絶対、無理しちゃダメだよ?」


レイナ「任せなさい。」


二人は視線を交わした刹那、互いに真逆の方向へ駆け出す。

神代「舐められたもんだな!」


その瞬間、神代の手から黒い球体が次々と投げ放たれる。重力を無視するかのような軌道で空間を滑り、ユイとレイナへと迫る。

ユイとレイナはそれぞれ、自らの武器を構え、反射のように反応する。鋭い音と閃光。爆ぜる球体をすり抜けるようにして、二人は一直線に走り続ける。

神代は冷笑しながら手元の装置を操作した。


神代「だったら、丸ごと潰してやるよ……!」


ガチャン、と鈍い音とともに、彼の足元の起爆装置が作動する。

ドン!

病院の天井が突如として爆発音とともに崩壊し、巨大な瓦礫が容赦なく落下してくる。


レイナ「この建物を崩壊させるつもりなの!?」


ユイ(しまった、避けるのが間に合わない!)


その時。

レイナは瞬間的にユイを突き飛ばし、自らも転がりながら崩落から逃れる。瓦礫は二人のすぐ背後に叩きつけられ、衝撃と土埃が辺りを包む。


ユイ「あ、ありがとう!」


レイナ「どういたしまして。おあいこ、ってとこね。」


その間に神代は、拘束された白石を椅子ごと無理やり引きずり、フロアの対角へと移動していた。


白石「何、するつもりなの……?」


神代「お前には、直ぐに結晶体の中に入ってもらう!」


白石の視線の先、薄紫に輝く巨大な結晶が静かに脈動していた。


白石「あれは何?あの中に入ったらどうなるっていうの?」


神代「鍵だよ、この世界から脱出する為に必要な鍵が入っている!龍族から聞いた。だがな、俺は、他人の言うことなんざ信じねえ。この中に入ればタダじゃすまねえって、俺の本能が叫んでんだよ。」


白石「だから私を生贄に?」


神代「おう。お前が入れば、まずどうなるか答えが出る。」


白石「そう。そうなのね。」


神代「は?やけに素直じゃねえか?」


その瞬間、白石の唇が笑みに変わる。

するり、と彼女の手が縄を解いた。さらに、椅子の脚部を手刀一閃で切断し、自らを固定していた拘束を完全に解く。


神代「は?」


次の瞬間、白石の手が神代の胸倉を掴みそのまま、神代の視界が宙を舞う。

ドガァッ!

鈍い衝撃音がフロアに響き渡った。

立ち上がったユイとレイナが、一斉に音の方へと目を向ける。


ユイ「何!?あの光、まるでカケラが砕けたみたい!」(あの輝き、どこかで最近見たような…。)


レイナ「気づかなかった!それに神代が倒れてる!?どうして?」


二人が初めて目にする結晶体。

そして、その傍に立つ白石と、昏倒する神代。

何が起こったのか、整理がつかないまま、二人は思わず息を呑んだ。


神代「てめぇ、何者だ。」


神代が呻くように吐き捨てる。仰向けに倒れたまま、全身が硬直し、まともに動ける状態ではない。目の前に立つ女、白石のただならぬ気配に、彼の本能が起き上がることすら許さなかった。

白石は冷たい目で見下ろしながら、静かに口を開いた。


白石「お前の魂胆と情報源を知りたかった。やはり、龍族が背後にいたのね。」


小さな身体から繰り出された手が、神代の服を容赦なく掴み上げる。想像を超える腕力に、神代は思わず顔を歪めた。


神代「ぐっ……な、何をするつもりだ!?てめぇ、ずっと弱いフリしてたのか!」


白石「お前のような下劣に従うフリでも、反吐が出そうだったわ。」


その声には一片の感情もなかった。怒りでも、軽蔑でもなく、ただ事実だけを告げる冷たい声。


神代「何でいつもこうなるんだよ、クソが…クソが…。」


神代の語気は徐々に弱まり、拳を握りしめながら、どこにもぶつけられない憤りを飲み込むように顔を伏せる。

白石はそんな彼を無視して、手にした結晶体を見つめた。


白石「この中に入れと言ったわね。あなたが入るのよ、拒否は許さない。」


神代「何っ!?」


神代が抵抗するように慌ててポケットから爆薬入りの球体を取り出そうとしたその瞬間、白石の手が素早く伸び、その手を鋭く叩き落とす。


白石「無駄よ。お前は弱い。」


そう言い放つと同時に、白石は神代の身体を片腕で持ち上げ、そのまま結晶体の光の中心へと叩き込んだ。


神代「やめろぉおおおお!!ぐわあああああ!!」

神代の絶叫が空間に響き渡り、やがて光に呑まれて、音ごと消えていった。


レイナ「白石さん!待ってください!」


ユイ「白石さんっ!」


ユイとレイナが駆け寄ろうと叫ぶ。だが白石はゆっくりと二人の方に振り返り、静かに、しかし力強く言った。


白石「人間は協力しなければ生き残れない。この男は、自分の命と利益だけを優先して行動してきた。あなた達もあいつに殺されかけたこと、忘れてないでしょう?」


ユイが小さく頷きかけたその時、レイナが一歩前に出る。


レイナ「はい……でも、あなたも私たちに実力を隠していました。この世界の事を知ってるなら、最初から教えてほしかったです。」


しばらくの沈黙の後、白石は静かに目を細めた。


白石「この前までの弱いあなた達に話しても意味がないと思っていたわ。でも今は色々状況が違う、だから真の私を見せている、それだけよ。」


最後に、冷ややかに一言。


白石「神代は死んでも、構わないわ。」


レイナは小さくうつむきながら口を開いた。


レイナ「神代は、本当に死んでしまったのですか?」


白石は光の結晶を見つめながら、冷ややかに答える。


白石「知らないわ。この光の結晶そのものは、私も初めて見る。けど。」


結晶の中では、未だ半透明の鍵が静かに輝いていた。


白石「あの鍵の存在は、人間にとって非常に重要な可能性がある。だから私が手に入れてみせる。あなた達はここを離れなさい。今から何が起こるか分からないから。」


レイナは静かに息を吸い、白石を見据える。


レイナ「神代の命を犠牲にしてですか?」


白石「そうよ。」


白石は即答する。迷いも、躊躇いもなかった。

白石「悪いけど、神代の方から貴重な情報をぶら下げて、こちらにやってきた。この機会を逃す手はないと思っていたわ。」


レイナ「あの鍵、あなたはどんなものだと考えているんですか。神代が悪人だとしても、私は積極的な人殺しは、見過ごせない。」


白石「そう思っていればいいじゃない?でも私は違う。あの鍵があればこんな所から現実世界に戻れるかもしれない。そうじゃなくても、何か脱出のヒントになる。私はそれに賭けているだけ。」


レイナが言葉を返す前に、ユイがそっと前に出る。

ユイ「私はここを離れません。」


レイナ「ユイ……?」


ユイ「私もその結晶の中に入ります。」


レイナ「ユイ!急に何言ってるの!?いくらなんでも、それはダメ!」


レイナが慌てて声を上げる。その隣で、白石は呆れたように肩をすくめた。


白石「とんだ物好きがいたものね。あなた、死にたいのかしら?」


ユイ「あれに入っても私は死ぬ気はしないんです。何となく、分かるんです。それに、この光の結晶を作った人はレイナちゃんのお兄さん、だと思う。」


レイナの表情が凍りつく。


レイナ「え、どういうこと?」


ユイ「私が思念の力を使えるようになった時、一瞬だけ夢を見たの。レイナちゃんのお兄さんの夢。その時、お兄さんが現れて、そして消えていく。その一瞬が、この結晶と同じ輝きだった。」


レイナ「でも、それだけじゃ!」


ユイ「うん、根拠はない。けど、行かなくちゃ。このままじゃ先に進めない気がする。」


ユイは光の結晶に視線を戻し、真っ直ぐに立った。

ユイ「白石さん、多分このまま待っていても、あの鍵は手に入らないと思うよ。」


白石「何を言うかと思えば、考えもなく楽観視するだけなんてね。命をドブに捨てる気かしら。」


白石の冷たい視線がユイを貫く。

だがユイは、微笑みさえ浮かべながら、まっすぐに結晶を見つめ続けていた。


レイナ「私だって、神代のことは好きじゃない。でも、助けられる命があるなら、見捨てたくないの。ユイをこんな場所に連れてきてしまったのは、私の責任だもの。だから、あなたが行くなら、私も行くわ。」


ユイはその言葉に目を伏せ、一拍の沈黙を挟んだあと、ゆっくり口を開いた。


ユイ「レイナちゃん。私ね、今までずっと誰かに頼ってばかりだった。怖くなったら誰かが助けてくれるって、どこかで思ってた。でも、そんな自分が嫌になったの。」

彼女は顔を上げ、真っ直ぐにレイナを見る。


ユイ「だから、もうやめるの。今こうして話してる事だって本当はすごく身勝手で、きっとレイナちゃんに止められるんじゃないかって思ってた。でも、それでも行かなきゃ始まらない気がするの。」


言葉の一つひとつが、ユイの覚悟を映し出していた。


ユイ「失敗する事だってある、怖くて仕方ない。でもね、今回は、今回は、なぜか絶対に大丈夫だって思えるの。私にしかできないことが、きっとある。そんな気がしてる。」


そう言って、ユイは微笑んだ。緊張の中にも温かさを感じさせる、穏やかで力強い笑みだった。

そして、彼女は駆け出した。


レイナ「ユイ、待って!」


慌てて手を伸ばすが、その背はもう、光の結晶体に向かって一直線に走っていた。

白石はその様子を見て、腕を組みながら静かに通路を開ける。


白石「行くのね。」


ユイは迷いなく、風を切る勢いで光へと飛び込んだ。


ユイ「レイナちゃんも、この世界も私が守るよ!!」

その言葉と共に、彼女の姿は滑り落ちるように光の中へと吸い込まれていった。


レイナ「待って!」


レイナも叫びながら走り出し、必死にユイへ手を伸ばす。

だが、間に合わなかった。ユイの姿はすでに光の奔流に消え、その直後、レイナ自身もその光に飲み込まれる。

光に包まれながらも、レイナは前を行くユイの背中を追う。

吸い込まれていくその瞬間、レイナはユイの横顔を見た。

それは、今までに見たことがないほど頼もしく、自信に満ちた表情だった。

その時、レイナはふと思った。

ああ、私今、希望を取り戻せた気がする。


そして、これまでのやり取りが幻のように消失し、空間に静寂だけが戻る。

ユイとレイナが消えたその場所には、淡い光の粒だけが漂っていた。

白石はゆっくりと目を伏せ、腕を組んだまま微動だにせず、ただしばらくその場に立ち尽くしていた。

空気はひんやりと重く、今し方まで交わされた熱の余韻だけが残っていた。

やがて、彼女はわずかに口元を歪めた。

ほんの少しだけ、感情を見せるように皮肉とも、諦めともつかない表情。

そして、ぽつりと呟く。


白石「本当に、ガッカリしたわ。やっと、共に戦える仲間が出来ると思ったのに。」



光の結晶内部から深い光の谷に真っ逆さまに落ちながら意識を失っていた神代はふと、目を覚ます。

そこは見覚えのある、学校の教室だった。

机の上で腕を枕にして眠っていたらしい。ぼんやりとした視界の中、どこかの異世界ではない、日常の空間が目の前に広がっていた。


神代「何だ、さっきまで俺は異世界に居て…。戻ってこれたのか?」


そう呟きながら、勢いよく顔を上げ、周囲を見渡す。

だが、すぐに違和感に気づく。


神代(いや、んなわけねぇ。俺はとっくに学生を終えてる。何かの罠か?)


黒板には白いチョークで《〇×年 四月十四日》の文字。高校二年に進級して間もない春の日付だ。

まるで過去が再現されているかのような、奇妙なリアリティがあった。

ふと目に留まった壁時計は、十六時三十分を少し回っていた。

あの頃と同じだ。

家に帰りたくなくて、理由もなく教室に残っていた、放課後の空虚な時間。

誰もいない教室に、夕方の光がぼんやり差し込んでいる。


神代「何がどうなってる。また昔の夢でも見てるのか、俺は。」


机に視線を落とすと、落書きがびっしりと刻まれていた。

キモい、死ね、無数の悪意が、視界を刺すように浮かんでいる。

胸の奥がずきりと痛んだ。

この空間が、ただの懐かしさではないことを、体が先に思い出していた。

中学からそのまま上がってきた内部進学のクラスで、居場所をなくしていたあの頃。

異質な空気。視線。言葉にされない暴力。

それらが一気に押し寄せてくる。


神代「こんな過去なら、戻りたくねぇよ。家にも、帰りたくねぇ。」(ていうか、俺は今までどこにいたんだっけ?)


異世界の記憶が、まるで水に沈む墨のようにぼやけていく。誰と、どこで、何をしていたのか。断片が掴めそうで掴めない。ただ、胸に残るのは、酷く不安な感覚だけだった。


教師「おーい! いつまで教室にいるんだ! 帰れ、帰れー!」


廊下の向こうから、生活指導の教師が大声を張り上げる。

その声に神代はビクッと肩を震わせ、何も言わずに立ち上がった。

椅子が小さく軋む。

誰にも気づかれないように、そっと扉を開ける。

帰りたくもない家に向かって、重い足を引きずるように歩き出す。

頭の中は霞んでいて、何を考えようとしても、すぐに溶けていった。


神代「あぁ帰って、理数科目を復習しないと……。」


口をついて出たその言葉に、さらに自分自身が嫌になる。

誰に向けてでもなく、誰からも必要とされず、ただ機械のように家路につく。

薄暗い校舎の廊下で、更に暗いオーラを纏いながら歩いていく。


神代「あぁ、帰りたくねぇ。あんなクソ親父の顔なんて見たくないし、監視される生活も嫌だ。相談できる人もいないし、家出したい。」


校舎裏の植え込みの前に立ち止まり、神代は無意識に制服のポケットに手を突っ込む。手に触れたのは、いつもと変わらない無機質な金属、家の鍵だった。


神代(俺の帰るところなんざ、最初からなかった。)


思考が終わるより先に、身体が動いた。鍵の束はキーホルダーごと勢いよく、植え込みの奥に放り投げられる。

すぐに取りに行こうと一歩踏み出すが、その足も止まる。少し考えた末、踵を返し、靴箱へと向かって歩き出した。

何も考えたくなかった。考える力も残っていなかった。

靴箱に手をかけた、その時。


「落とし物だよ。」


まさかと思う。今の自分に、声なんてかけてくる奴がいる筈ない。

振り返ると、そこに立っていたのは黒髪ポニーテールの女子生徒だった。

キリッとした目元に凛とした佇まい。どこかで見たことがある気がしたが、すぐには思い出せない。


神代「なんでしょう?」


女子生徒「君が、校舎裏の植え込みに鍵を投げてたのを見たの。これ、家の鍵でしょ?どうするつもり?」


神代「い、良いんです。別に……。」


女子生徒の視線が、神代の使っていた靴箱に向く。

中にはゴミが押し込まれ、靴の側面には黒マジックで書かれたような悪意の痕跡が残っている。

女子生徒は少しだけ目を伏せ、短く深呼吸した。

玲那「私、生徒会副会長の黒瀬玲那。ちょっと来てもらえる?」


神代「いや、俺は別に……。」


玲那「いいから来なさい。」


語気は強くないが、逆らえない空気があった。神代は抵抗しかけたが、諦めるように歩き出す。


神代(説教か?女だからって容赦はしねぇぞ。)


校舎裏の角に連れて行かれた神代は、玲那が一度その場を離れるのを見送る。

やがて戻ってきた彼女の手には、二本の缶コーヒーが握られていた。


玲那「ブラックとミルク。どっちがいい?」


神代「いや……俺は別に……。」


玲那「そうか。じゃあ、君がブラックだ。」


そう言って、玲那は缶を軽く放る。神代は反射的に受け取り、手にした缶の重さに戸惑う。


玲那「君、いじめられてる?」


神代「そんなことないですけど…。」


神代は視線を斜め下に逸らす。


玲那「ダウト。顔がそう言ってないよ。」


神代「何なんですか、急に。俺に話しかけてくるなんて、普通じゃないっすよ?」


玲那「どうして、そう思うの?」


神代「俺みたいな陰気臭くて、イジメられてる奴に話しかけたって、ロクなことないっすよ。」


玲那「ふぅん、言ってる事、よくわ分かんないな。」


彼女は缶コーヒーを開け、壁に寄りかかりながら一口すする。


玲那「いじめられてるのは君でしょ?悪いのは、いじめてる側。君は被害者なんだから、堂々としてればいいんじゃない?」


神代「は?」


玲那「自分を責める癖、まずやめよ?っていうか、そういえば名前聞いてなかったね。教えて。」


神代「いや、やめてください。まさか全校集会とかで取り上げて、恥を上塗りさせるつもりじゃないですよね?」


玲那「そんなつもり、更々ないよ。」


口調は淡々としていて、それでいて、どこか本気だった。


玲那「さっきは仰々しく名乗っちゃったけど、私は別に生徒会の副会長として話してる訳じゃない。一人の人間として、君と話してる。それだけ。」


その言葉は、どこか心に引っかかった。

神代は缶コーヒーの温かさを感じながら、視線を落とした。

神代陸は、胸の奥がざわつくのを感じていた。

言葉にできない、暖かさと戸惑いが入り混じるような感覚。

この人の言葉に、なぜか傷ついた心の一部が静かに反応している気がした。

だが、こんなことでほだされてはいけない。そう自分に言い聞かせる。温かみのある声。けれど、それに甘えたらきっと後悔する。

心の扉は、そう簡単には開けない。


玲那「どうして家に帰ろうとしないか、私で良かったら相談に乗る。後輩が死んだ目をしながら家の鍵投げ捨ててたら心配するものだよ。」


神代「いや、結構です…。先輩に話してどうにかなる事じゃない。」


玲那「ふーん。話せないなら対策としてイジメの実行犯を探しださないと。」


神代「え?ふざけないでくださいよ!」


玲那「冗談だよ。でも、私に毒を吐くだけでも気持ちが少し落ち着くんじゃないかな。」


神代「…。」


玲那はにこやかな柔らかい表情を見せた。


神代「誰にも言わないで下さいよ…。」


玲那「もちろん、約束するよ。」


神代「俺、医者になるように父親に強く躾けられてて……娯楽を一切許容されていないんです。家に帰っても勉強しかさせてくれない。漫画もゲームも映画も、この歳でまともに見たことがない。流行りにも乗れないし、遊びにも行けない。だから友人も、居ないんですよ。」


玲那「そうだったの。行動まで縛られるのは、そりゃあ苦しいよ。そんな毎日じゃ、帰りたいって気持ちになれなくても、無理ない。」


神代「決められた人生のレールの上を走らせて、もう俺疲れました。もう家に帰りたくないんです。」


短く沈黙が落ちたあと、玲那は穏やかな声で問いかけた。

玲那「一応聞くけど、君は勉強が好き?医者になりたいって、自分では思ってる?」


神代「そんな訳ないじゃないですか。」


玲那「だよね。」


短くうなずくと、玲那は缶コーヒーを飲み干した。


玲那「私はね、家庭事情はどんな事情であれ、最後は君自身で切り抜けるしかないと思う。でも先輩、友達として気持ちを支えることは出来ると思ってる。それと校内での話は別。弱っている君につけ込んで笑い物にしたり、ストレスの吐け口にする人達を許して良いとは思わない。うーん、何が言いたいかって言うと、つまり君は何も悪くないって事かな。」


玲那はキッパリと言い切る。


神代「はぁ…。」


玲那「もしさ、時間もお金も自由にあったら、最初に何をしたい?」


神代「え?急ですね。そんなこと考えたこともないですけど。うーん、誰もいない南の島でのんびり過ごしてみたい、ですかね。」


玲那「旅行か、良いね。私も社会人になったらお金を貯めて色々な所に行ってみたい。まだ沖縄にも行った事ないしね。」


神代「俺の場合、家出しないと実現出来ないっすよ。」

玲那「家出しちゃえば良いよ。」


神代「え?」


玲那「私も昔家出したから。結局、引き戻されたから良かったんだけど。今は訳あって家には誰も住んでないから出る必要もなくなっちゃったよ。」


神代「何か、苦労してそうですね。俺とは違う方向で。」


玲那は微笑んだ。


玲那「そうかもね。」


神代「黒瀬先輩は何を楽しみにして生きているんですか?」


玲那「うーん、いざ聞かれると難しいけど私、剣道部に入ってて、夏の個人インターハイが迫ってるんだ。だから今は稽古を沢山して、いい戦績を残したいって思ってる。その先は受験だけど正直、大学進学はまだ悩んでる。学費とか色々あるからね。」


神代「へぇ…何か、良い意味で普通で羨ましいっすよ。辛い悩みとか、ないんですか?」


玲那「普通に見えてるだけで、私も自分を普通だなんて思ってないよ。」


少し視線を落とし、声のトーンが低くなる。


玲那「兄がずっと行方不明なんだ。両親も幼い頃に死別してしまって、唯一の家族だった。だから、お金を貯めて、いつか探しに行きたい。」


神代「すみません、嫌なことを聞いてしまって。」


玲那「構わないよ、先に話してって言ったのは私だから。」


神代「神代陸です。俺の名前。」


気づけば、自然と口が開いていた。


玲那「そうか、神代。もし辛くなったら、またこの時間にここへ来な。話くらいは聞けるから。今日は生徒会の会議だったけど、剣道部の練習後でも、毎日ここでコーヒー飲んで一息ついて帰るんだ。」


神代「はあ。ありがとうございます。」


玲那「私、もう帰るんだけど、自暴自棄になっちゃダメだよ?」


そう言って、玲那は神代が植え込みに捨てた鍵を、改めて手渡した。神代はためらいながらも、それを受け取る。


神代「黒瀬先輩は俺の愚痴を聞くだけなんて、全然楽しくないんじゃないですか?」


玲那「そんなことないよ。愚痴の先に、超絶ギャグでも飛び出すんじゃないかって期待してる。」


ほんの一瞬、彼女は神代の前で初めてふざけた表情を見せた。


神代「は?ふざけないでくださいよ。俺は普通の高校生とは違うんです。面白い話なんか……。」


その時、学校の最後のチャイムが鳴った。


玲那「もうこんな時間だ。それじゃあ、また。」


くるりと踵を返し、玲那は夕暮れの中、校門へ向かって歩いていった。

その背中が小さくなっていくのを、神代はただ見送る。

彼にとって、あっという間の時間だった。

常に秒針の音ばかりを意識していた毎日に、ほんの少しだけ、柔らかな光が差し込んだ気がした。


神代は帰宅した。

ここまで軽やかな気持ちで玄関を開けたのは、いつ以来だっただろう。

たとえそれが演技であっても、自分の悩みを少し打ち明け、真剣に耳を傾けてくれる人がいた。そんな経験は、これまで一度もなかった。

これは本当に現実なのか。

今なら、父の理不尽な罵倒も弱い人間の戯言と、一歩引いて見られる気がした。


神代(これが、心の安定ってやつなのか。)


夕食は手早く、一人で済ませた。


神代(あの父親に言ってやろうか。もう俺は医者にならない。自分の生きたいように生きる。絶縁されても、家を追い出されたとしても…。)


そんな言葉を何度も頭の中で繰り返しながら、神代は机に向かった。

だが、テキストには結局手をつけず、父とどう向き合うべきかを考え続けていた。

そのとき、玄関の鍵が回る音。

父が帰ってきた。

反射的に、ペンを握って勉強を始めていた。

まだ心の奥に、父への恐怖が深く刻まれていた。

それは、身体の動きすら支配するほどに。

結局、神代の口からは一言も出なかった。

父親は血のつながりこそあれ、真の意味で味方ではない。

突き放されれば孤独だ。しかし、よく考えれば、元々自分はずっと孤独だった筈だ。

それでも唯一の肉親という事実が、最後の感情のトリガーに重たい錠をかけている気がした。

神代は机の上に視線を落とし、ふと心の中で呟く。

もう一度。あと、もう一度だけ、黒瀬先輩に相談してみたい。

この迷いを、この不安を、どうすればいいのか。

たかだか一、二歳しか年は離れていないはずなのに、あの人はまるで全てを見通し、理解しているかのようだった。

ただの願望かもしれない。それでも、あと少しだけなら、すがってみても損はないのではないか。

神代はそう思ってしまった。

その瞬間、心の奥底で微かに錆びついた何かが、カチリと音を立てた気がした。

翌日。

神代は、いつもと変わらない。いや、変わり様のない学校生活を送っていた。

誰にも声をかけられず、挨拶も交わされない。まるで、自分だけ色の抜けた世界に取り残された透明人間のようだ。

それでいて、机の上には意味のない落書き、足元には誰かが置いた空き缶やゴミ。机ごと端に追いやられた自分の席を見て、本当にここが平均以上の偏差値を誇る進学校なのか、疑問すら覚える。

長く、息苦しい一日の授業がようやく終わり、放課後を迎える。

今日は昨日のように机に突っ伏し、時間をやり過ごそうと思っていたが、不快な声が耳に突き刺さった。


教師「おい、今日も居眠りしながら教室を私物化か?お前、本当に学校を卒業する気あるのか?部活にも入らず、無駄な時間を潰すくらいなら、さっさと帰って予習復習でもしとけ。帰った、帰った!」


神代(くそ、邪魔が入ったか。運が悪い。)


渋々、席を立ち、肩紐のほつれた鞄を背負う。


神代(黒瀬先輩は、部活が終わるまでだいぶ時間があるよな、参ったな。)


昨日と同じく校舎裏の角を覗くが、そこには誰の姿もない。

落胆の息を漏らしながら廊下を歩いていると、横目に道場の扉が映り、そこから力強い掛け声が響いてきた。

気がつけば、神代の足は無意識に道場の入り口近くまで進んでいた。

中では、防具に身を包んだ剣道部員たちが、竹刀を交え、汗を飛ばしながら稽古に打ち込んでいる。互いの顔は面に隠れ、誰が誰かは判別できない。


神代(あの中に、黒瀬先輩はいるんだろうか。)


ぼんやりと立ち尽くしていると、中から低く通る声が飛んできた。

生活指導も兼ねる剣道部顧問、岩田だった。


岩田「何だ、君は?うちの練習に何か用でもあるのか?」


神代「い、いえ……何でもないです。どんな練習してるのかなって、ちょっと気になっただけで。帰りますので。」


岩田「名前は?」


神代「神代です。」


岩田「そうか、神代。うちの部に興味あるなら、少し見てけ。」


神代「え?いやいや、見てただけなので大丈夫です。」(やべぇ……くそ、面倒なことになった。)


岩田「まぁ、そう言うな。今日は早めに終わるメニューにしてある。ほんの二十分くらいだ。そこにパイプ椅子があるから、持ってこい。」


生活指導特有の圧と有無を言わせぬ口調に、神代は反射的に従ってしまう。

本質的に、彼は気が弱かった。

神代は、観念したように小さく息を吐き、道場の端に立てかけられていたパイプ椅子を手に取った。

金属の脚が床を擦る軽い音が、やけに響く。

椅子をそっと開き、腰を下ろすと、自然と道場内を見渡していた。

部員数は、驚くほど少ない。ざっと数えて八人。

丁度、全員が二人一組になり、向かい合って礼を交わすところだった。緊張感のある沈黙の中、竹刀を交え、床板の匂いと防具の革の匂いが混ざって鼻をかすめる。


岩田「意外と少ないと思っただろう? 特に女子は一人しか居ないしな。」


神代「一人?」(先輩しかいねぇじゃん。)


岩田「ああ。でもあの子は男子にも引けを取らない実力があるし、主将も張っている。」


神代「それは、すごいっすね。黒瀬さん。」


岩田「お、知ってるのか?知り合いか?」


神代「まぁ、少しだけ話したことあるっていうか。」


岩田「そうか。それなら黒瀬に頼んで、神代も入部届を書いてもらうように後押ししてもらうか。一応聞くが、帰宅部だろう?」


神代「いやいや、そうですけど…話が早すぎますって!本当に気まぐれで来ただけなので!」


岩田「分かった分かった、そんなに頑なになるな、ははは。」

そのやり取りを遮るように。


「テヤァァァッ!!!」


掛け声が一斉に響き渡った。

稽古が始まったのだ。竹刀が打ち合わされる乾いた音が、道場の壁に跳ね返る。

神代の視線は、自然と《黒瀬》と刺繍された防具垂れへ吸い寄せられた。

彼女は相手と間合いを詰め、わずかな間。


玲那「メンッ!」


スパァン、と竹刀が面を捉える澄んだ音が走った。

鋭い踏み込みと同時に、彼女の掛け声が道場の空気を切り裂く。

素人の神代にも、それが先に決まった有効打だとわかるほどだった。

仕切り直し。

二本目は、互いの面、小手が応酬し、つば競り合いへ。

押し返しざま、黒瀬の竹刀が迷いなく突きへと走る。

ズドン、と心臓を打つような衝撃音。

まっすぐ相手の胴の中央へ刺さるような一突き。

その潔さは、まるで有無を言わさないという意志の塊だった。


神代(すげぇ覇気だ。相手に一切怯まない。目の前しか見てないし、バンバン先に仕掛けて、自分から攻め続けてる。)


それはただの技ではなく、彼女の生き方そのものを垣間見たような瞬間だった。

まっすぐで、揺るぎなく、強い。

神代には、眩しすぎるほどのかっこよさだった。

練習稽古は、何度か組み合わせを変えて繰り返され、やがて打ち込み稽古へと移った。

竹刀の先端が空を切り、面を打つたび、道場中に響く咆哮が重なっていく。

その迫力に圧倒されながらも、神代の脳裏には、何度も黒瀬玲那の剣さばきが焼き付いた。

鋭く、迷いなく、真っ直ぐな打突。あれは武道の精神そのものだった。

稽古が終わり、全員が礼をして面を外す。

汗と革の匂いがふっと薄れ、張り詰めていた空気が緩んだ。


神代「先生、ありがとうございました。切磋琢磨する武道の精神、しっかり見せてもらいました。入部は、多分しないと思いますけど、でも、色々励みになりました。」


岩田「そうか。それならいい。お前の学校生活の実りになればな。応援してる。」


岩田の声は、どこか探るようでもあり、優しさを含んでいた。

神代は、その視線が自分の中の鬱屈を見抜いているように感じた。

椅子を元の場所に戻し、一礼して道場を後にする。

廊下に出た途端、足が止まる。


神代(このまま帰っちまおうかな。いや、でも。)


わずかな逡巡の末、缶コーヒーを二本買った。

そのまま校舎裏へ。夕日が建物の影を長く伸ばし、蝉の声が遠くでかすかに響く。

壁にもたれ、待つこと十五分。


玲那「驚いたよ、神代。」


声と同時に、影が角から現れた。

玲那は、まるで最初から神代がいると知っていたかのように、自然に歩み寄ってくる。


玲那「昨日の今日で、君が部の見学なんて予想もしてなかった。どうしたの?」


神代「黒瀬先輩を待とうとしたら、岩田先生に入口で入部希望と勘違いされて、そのまま見学に……。まあ、本当は心配してくれてたんでしょうけど。」


玲那は少し笑って、首を傾げた。


玲那「そりゃ大変だったね。でも顔が強張ってたから、


見てすぐわかったよ。本意じゃないって。」


玲那「昨日は、ちゃんと家に帰ったみたいだね。」


神代「はい。おかげで、少し気が晴れました。」


玲那「それなら良かった。」


短い間が空いた後、神代は口を開いた。


神代「でも、父親に『医者にはなりたくない』って言おうとしたんです。でも、勇気がなくて……唯一の肉親を失いたくないって思ってしまって。だからもう一度、黒瀬先輩に会って、背中を押してもらいたいって思った。それでまた、ここに来ました。」


玲那は軽く息をつき、少し眉を下げる。


玲那「いきなり荷が重いよ、神代。落ち着いて。」


その言葉で、神代はようやく手に持っていた缶コーヒーの存在を思い出した。


神代「あ、そうだ、先輩はミルク派ですよね。」


玲那「うん、ありがとう!ごちそうになるよ。」


迷いなく玲那は缶を受け取る。

プルタブが開く音が響き、甘い香りがふわりと漂う。

神代も自分のブラックを口に運んだ。


玲那「神代はさ。自分の理想の生き方ってどう考える?」

神代「生き方?うーん……まず、誰にも傷つけられたくないし、誰とも争いたくないです。勉強もほどほどにして、好きなもの食べて、その時に思いついた好きな事をして生きていきたい。」



玲那「そっか。それが、本来の君なんだね。」


玲那の声は柔らかく、それでいて芯がある。


玲那「自分が自分らしくあることは、誰にだってある権利だと思う。親でも兄弟でも、それを奪う権利はない、と私は思うんだ。ぶつかることはあるかもしれないけど、それは結果として受け入れるしかない。ネガティブな意味じゃなく、その先にある幸せを掴むためにやり切るのは間違いじゃないと思う。まあ、無責任なこと言っちゃうけど。」


神代は、ふっと笑い、それから真剣な目になった。


神代「先輩が剣道してるとき、本当にカッコいいなって思いました。俺も、あんな風に迷いなくカッコよくなれますかね。」


目頭が熱くなる。


神代「もし、親から絶縁されて、家を追い出されたら俺、どうすればいいと思いますか? 答えづらいのはわかってます。でも、先輩にしか聞けなくて…。」


玲那はふっと顎を上げ、薄く染まり始めた夕空を一瞬だけ見た。

そして、すぐに視線を神代へ戻す。


玲那「そうなったらね、もっと思いをぶつければ良い。これでもかってくらいに。」


その声音は、静かだが芯が通っていた。


玲那「追い出されることになっても、それはきっと神代にとって最善の選択になると私は思うよ。義務教育はもう終わってるし、死ぬわけじゃない。まあ、辛いけどね。」


彼女は缶を指先で軽く回しながら続ける。


玲那「大学に行きたいなら、回り道になるけど、お金を貯めて行けばいい。自力で生きるって、そういう事だから。私ならそうするかな。というより。」


わずかに笑いながら言う。


玲那「私、今まさにそういう状況だしね。」


神代は思わず息を呑んだ。


神代「先輩は、強いですね。俺に……その勇気、あるかな。」


玲那「決めるのは君自身だよ。」


玲那は即答する。


玲那「衣食住とか、進学費用を優先して、今の生活を続けるのも一つの正解だと思う。どうしたいか、どう生きるかは、いつだって自由だから。」


神代は小さく笑い、少し肩をすくめた。


神代「先輩、逃げましたね。」


玲那も同じように笑い返す。


玲那「私だって君とそんなに年齢は変わらないんだよ。でも、本気でそう思ってる。どんな結果でも、相談には乗れるから。」


その顔は、春の日差しのようにやわらかかった。

母親がいたら、きっとこんなふうに、辛いことを全部聞いてくれたのだろうか。

そんな想像が、神代の胸を温かく満たす。


神代「ありがとうございます。考えてみます。こんなに人に話した事、今までなかったから不思議な気持ちです。」


玲那「これが、コミュニケーションだね。」


玲那はいたずらっぽく言う。


玲那「人に話しかけるのも、話しかけられるのも、心の持ちよう次第。先輩からのアドバイス、ね。」


神代「さっきは年齢変わらないって言ってたのに、ずるいですよ。」


神代は口元を緩めた。


玲那「一歳上の特権ってやつ。」


短いやりとりに、どこか安心する空気が漂う。


神代「じゃあ、俺はそろそろ帰ります。遅い時間にありがとうございました。」


玲那「うん。上手くいくように、応援してるよ。」


神代は振り返らずに歩き出した。

何だか、こうしてみると、自分に心の余裕がなかったんだな。

今なら、物事をもっとシンプルに考えられる。

これは現実なんだろうか。

神代は昨日と同じように机に向かっていた。

ノートの上を走るペンの音が、規則的に部屋の静けさを刻む。窓の外では虫の声がかすかに鳴き、夏の湿った空気がわずかに漂っている。

やがて玄関の錠が外れる音、重い扉の軋み。父親の帰宅だ。

その瞬間、以前なら心臓が凍りつくような緊張に襲われた筈だ。けれど今は違う。胸の奥には奇妙な静けさと、燃え続ける火のような確信があった。


神代(今なら言える。どんな結果になっても、もう俺は逃げない。)


椅子を押しのけ、立ち上がる。

廊下を踏みしめる音が、心臓の鼓動と重なり合う。閉ざされたリビングの前で足を止め、目を閉じる。


神代(母さん、どうか俺を見守っていてください。)


深呼吸を一つ。

ドアノブを回すと、重たい空気が一気に流れ出した。

リビングの中には、柔らかな照明の下でソファに腰掛ける父の姿があった。片手に分厚い専門書を持ち、眉間に深い皺を寄せている。

その場の空気はまるで檻の中のように張り詰めていた。圧迫感の正体が父その人から放たれるオーラであるかのように思えた。


父「こんな時間に何だ?余程のことなんだろう?」

低く抑えた声が、鋭い刃のように刺さる。


神代「父さん、今まで言えなかったけど、はっきり言います。俺、医者にはなりません。」


父の手が止まった。ページをめくる動作が宙で凍りつき、ゆっくりと神代に視線を向ける。

父「ん?言ってる意味がよく分からない。何が言いたいんだお前は。」


神代「だから、医者にはならねーって言ってんだ!」

声が張り裂けるように響く。


神代「いちいち圧かけてくんじゃねえ!もう勉強に固執するのもやめる。普通に卒業して、普通にやりたい職につく。俺は進路を自分で決めるって言ってんだ!」


父の額に青筋が浮かび、怒気が広がっていく。


父「大声を出して何を言うかと思えば…誰にそんな下らないことを吹き込まれた?お前ごときがそんな事思いついて言えるわけがない。名前を言え、その馬の骨に直接怒鳴り込んでやる!」


神代「話を逸らすなよ!これは俺の意思だ!それに誰に何を言われようが関係ねぇ!もう迷いは無いんだ!」

父の顔は赤く染まり、眉は吊り上がり、怒気は爆発寸前。


父「医者になるのをやめて、どうするつもりだ!?将来設計を言ってみろ!!」


神代は一歩も退かず、拳を握りしめて言い放つ。

父「それはこれからの経験と、人との出会いで見つけるんだ!その為の学生生活でもある!」


父は苛立ちを抑えきれず、片手で髪を乱暴にかきむしる。


父「このバカ息子が!これまでお前にいくらの金をかけ、学費を出してきたと思っている!恩を仇で返す気か!」


神代「じゃあどうするんだ!?俺は周りの人間と同じ、いや、人として当たり前の権利を主張してるだけだぜ!悪いことなんざ何一つしてねぇ!」


父「お前はこの家の息子として生まれた!ならこの家のルールに従うのが筋なんだ!贅沢な暮らしが出来ていることも分からんのか!?それが理解できないなら直ぐにここを出て行け!」


神代「家のルールだと?母さんもいないこの家にルールなんてねぇよ!父さんが勝手に俺を小さな檻に閉じ込めてるだけだ!親として子を産み、学校に通わせる、そんなのは特別でも何でもない!恩着せがましく子供に言う事じゃない!」


父の表情は鬼の形相に歪む。

しかし、神代は一歩も引かない。放課後に迷いは置き去りにしてきた。

父「社会を知らないガキが偉そうに!口だけは一人前だな!」


神代「今の俺、もう父さんなんか怖くない!何を言われても、俺は自分の意思で生きる。絶対にそこは譲らない!」


父「そうかそうか!ならもうお前に用はない!絶縁だ!お前は今日から子じゃない!!」


その目にはもはや理性の光はなく、狂気の炎だけが宿っていた。

神代は冷静だった。ここまでの展開は、どこかで予想していたからだ。


神代「嫌だね。意地でもここに住んで、高校卒業までは居座ってやる。鍵だろうが何だろうが閉めれば警察に駆け込む。絶対に思い通りにはさせない。」


その時、神代の頭の奥に、微かなざわめきが走った。


神代「異世界?」


記憶の断片がよみがえる。黒瀬玲那という存在は、本来この過去にはいなかった。

これは異世界が見せている、過去と現実の融合。


父「くっ…てめえ!」


父が立ち上がり、拳を振り上げた。

神代も即座に構える。冷静な眼差しでその腕を受け止め、投げ返そうとする。


神代「触るなよ、父さん!俺はな、あんたのせいで地獄を見たんだ!人生狂って、おかしな世界になっちまった!最初に俺の弱さに漬け込んだのはお前だ!」


父「このやろおおおお!!!」


怒号と共に父が襲い掛かる、その瞬間。

空間が一気に光に満ち溢れた。

眩しさが視界を塗りつぶし、音が遠のく。

神代の耳に響いたのは、ただ高い風切り音だけだった。


神代(もう、この夢から覚めるのか。あの父親、殴っときゃよかったな。)


意識が深い闇に引きずり込まれ、すべてが断ち切られた。


「こちら一点〜、こちら一点〜。」


やる気のない、どこかで聞いたことのある声が店内にぼんやり響く。


神代(ここはどこだ?俺は、なんでトイレに……ブラシを持ってる?さっきまで、俺は確か家に父さんと。ああ、まただ。この、感覚。)


神代は片手で頭を押さえた。鋭い痛みというよりは、膜を張ったように記憶が遠のいていく感覚。昨日の鮮烈な出来事が、まるでシャッターを閉められるように脳裏から薄れていく。黒瀬玲那という少女の声、あの温かな笑顔、誰かに話を聞いてもらえた安堵。全てが霞の彼方に消えかけていた。


神代(嫌だ。これは、無くしちゃいけない記憶だ。どうか消えないでくれ。)


だが、気づけばトイレの無機質な白壁と消毒液の匂いに包まれていた。

視界の端にはくすんだモップバケツ。どれもが嫌というほど見慣れた日常の一部。


神代(ここは、コンビニのトイレだ。俺は医者になるのを諦めて。ああ、そうだ、俺はバイトをしていたんだっけ……。)


揚石「おい!神代、おせーぞ!とっとと掃除終わらせてから、店内もモップかけろ!」


揚石店長のドスの効いた声が背中に突き刺さる。

神代(そうだ、こいつの下で働いてた。ヤクザまがいの口調で人を使い潰す、最低の上司。レジには嫌味な中村、休憩室には豊川。ああ、最悪だ。思い出した。俺のバイト生活。何かにキレた記憶がある気がするけど何だったっけ?)


神代「今、やります。」


返事は自動的に口をついて出た。感情を乗せることなく、ロボットのように手足を動かす。神代は慣れた動作でモップを押し、床をなぞっていく。

安い賃金でただ時間を削られるだけの生活。夢も目標もなく、呼吸をしているだけの日常。あまりに薄暗いその日々に、自分の心がすり減っていくのが分かった。

そんな時、店の入り口から弾けるような声が飛び込んできた。


「おはようございまーす!」


女の子の高い声。弾むような調子に、神代は反射的に顔を上げる。笑顔で挨拶しながら関係者入口を通り過ぎ、制服姿でレジへと入っていく姿が視界の端に映った。


神代(誰だ?新人か。)


ほどなくして彼女は中村と交代し、レジに立った。

神代はその場を離れ、無言で掃除を続けた。

神代(まぁ、俺には関係ない。どうせ陰口を叩かれて終わりだ。余計な気遣いなんかしても無駄。)

そう思いながらモップを片付け、休憩室に戻る。


揚石「おい、神代!」


揚石が舌打ち混じりに声をかける。


揚石「俺は用事で早上がりだ。新人の面倒見とけよ?ちゃんと出来なかったら、お前をシバくからな?」


一方的にそう言い残し、そそくさと店を出ていった。


豊川「お疲れーすっ。」


豊川が軽薄な声をあげ、足を投げ出して椅子に座る。


中村「お疲れ様ですー。」


中村もわざとらしく口を動かした。


神代「お疲れ様でした。」


神代も形式的に頭を下げる。


中村「おめえ、なめられすぎなんだよ。(笑)」


中村がわざと小突いてきた。


神代「……。」


豊川「おいおい、ここに三人もいたら窮屈だろ?考えろや。仕事探して品の整理でもしてこい。」


豊川は神代を名前で呼ばず、まるでゴミでも扱うかのように手をひらひらと振った。


神代「はい…。」


短く返事をし、神代は品整理のため売り場へ出る。

コンビニ特有の冷えた蛍光灯の明かりと、繰り返し流れるCMの音声だけが無人の店内を満たしていた。


神代(変な感覚だ、昨日のことが思い出せない。何か大事なことを忘れてる気がする。俺はこんな所で働いてる場合だったか?)


そう考えながら棚に腰を屈め、品を整理している。


「はじめまして!」


明るい声が真横から飛んできた。

神代はゆっくりと振り返る。

そこにいたのは、制服にまだ慣れない様子の少女。

瞳をきらきらと輝かせながら、深々と頭を下げていた。


結衣「昨日からここで働くことになりました、風見結衣です!よろしくお願いします!」


声は張りがあり、勢いがあった。圧倒されるほどの元気さに、神代は僅かにたじろぐ。


神代「ああ、神代です。よろしく。」


結衣「神代さんですね!よろしくお願いします!」


彼女、風見結衣はぱっと笑みを浮かべ、一礼してからレジに駆け戻っていった。


神代(はぁ。揚石め、また面倒事を俺に押し付けて。新人の教育なんて、どうせ何かと俺のせいにするんだろうな。クズ共め。)


心の中で毒づきながら、神代は再び商品を手に取った。だが、心の奥底に何か小さなひっかかりを覚えていた。


神代(かざみゆい。どこかで見たことがあるような。)


頭の奥にひっかかりを覚えたが、それ以上は靄がかかったように記憶が閉ざされていた。掴めそうで掴めない。指の隙間から砂が零れ落ちるように、思い出そうとすればするほど遠ざかっていく。

そうしているうちにも、店内の時間は容赦なく流れていった。

レジ前は相変わらず落ち着かず、客が入っては出て行く。その度に、結衣は慣れない手つきでレジを打ち、時折戸惑って固まる。神代は横目で見かねて、要領をそっと助言したり、手を伸ばして補助に回る場面が何度もあった。

一度だけ、中村と交代して十分ほどレジから外された結衣だったが、すぐに「やっぱり戻って」と追いやられてしまう。


神代(教育とか言いながら、アイツら結局自分が休みたいだけだろ。揚石に文句言われる前に先手打っとかねぇとな。)


客足が一段落し、空気に少しだけ余裕が生まれた隙を狙って、神代は結衣に声をかけた。


神代「風見さん、良いっすよ。今のうちに休憩入っても。」


結衣「え?大丈夫ですよ。さっき休憩貰ったばかりなので、まだまだやれちゃいます!」


結衣は慌てて首を振り、むしろ笑顔で神代を気遣ってくる。

結衣「むしろ神代さんこそ、休まないとですよ?」


神代「あぁ、俺はいいんだ。休憩室に行っても休める感じじゃないしな。」


結衣「そうなんですか?」


小首をかしげる結衣。疑問の色は浮かべても、裏の事情にまでは思い至らない。その素直さは、天然とも言えるのだろう。

何だかんだで、実質ふたりで店を回すことになり、時計の針はいつの間にか二十二時を指していた。

神代は休憩なしで六時間、ずっと店内に立ちっぱなしだった。飲料のウォークイン補充をしている時だけが、ほんの僅かな気分転換になったくらいだ。

豊川は結衣に一切関わらず、中村も最初に簡単な導入を口にしただけ。結局、結衣の教育係は殆ど神代が担っていた。

二十二時三十分、夜勤組の他二人がロッカーに到着すると、豊川と中村はその姿を確認した途端、風のように着替えてそそくさと退勤していった。


神代(アイツら、どんな人生歩んだらあんなに歪むんだよ。いや、俺も大概だが。)


残った神代と結衣は、マニュアル通りのような簡単な引き継ぎを済ませ、神代は着替えを終えて店を後にする。


神代(このまま家に帰っていいんだっけ?別に記憶喪失ってわけじゃないんだろうけど、妙に馴染めねぇ、違和感がすごい。)


そんな風に頭を抱えている時。


結衣「神代君!」


振り返ると、同じく私服に着替えた風見結衣が、少し弾んだ声で呼びかけてきた。


神代「え?」


結衣「あ、ごめんなさい。歳が同じだって聞いたから仕事外だし、君付けで呼んでみました!」


神代(うわぁ、距離感バグってんなあ。早く帰ろ。)


神代「あ、そうすか…。俺は帰りますんで、じゃ。」


結衣「あの、今日は本当に教えてくれてありがとうございます。何だか神代君しか殆ど教えてくれなかったから、もし神代君がシフトに入ってなかったら……私、困って暴走してたかも。」


神代「覚えられるまでの辛抱です。頑張ってください。お疲れ様でした。それでは。」


神代は軽く頭を下げ、すぐに背を向けた。

自分でもそっけなさ過ぎるとは分かっていた。だが、深く人と関わる度に嫌な思いをしてきた。それを避けるために、ここまで壁を作ってきたのだ。今更、変えられない。そんな負の連鎖が、またもや自分を縛っている。


結衣「はい!お疲れ様でした!」


声の調子から、彼女はきっとお辞儀までしているのだろう。だが振り返らなかった為、確認する事は出来なかった。

不思議な子だ。

神代は、風見結衣という存在に妙な違和感を覚えていた。


神代(なんだろう。暗い生活の中で、ほんの少し明るみが増したっていうか。たった数時間なのに、妙に実りのある時間だったような。いや、気のせいだな。ああいうタイプが俺の人生に居なさ過ぎて、変な感覚になってるだけか。)


それ以上は考えずに、家路についた。

家の中は真っ暗で、父親の姿もなかった。

疑問は浮かんだが、不思議と受け入れてしまう自分がいる。そして、なぜか、父親はもう帰ってこない、そんな確信めいたものを抱いていた。

そのせいか、焦ることもなく食事を済ませ、自室に戻った。

翌日も同じ時間から勤務だということを思い出す。


神代(あの新人、また来るのかな。悪い奴じゃなさそうだけど他の奴らとうまくやれるのかね。ま、俺には関係ねぇか。合わなければ、どうせ辞めるだろ。)


そう自分に言い聞かせ、静かに目を閉じた。

夢を見ることなく、あっという間に朝を迎える。

時計を見ると、八時十分。やはり父親の姿はなかった。

本来ならこの時間、家を出る音がするはずだったのに。それでも居ないことが当たり前のように感じられた。

昼過ぎ。神代は何をするでもなく、テレビのニュースをザッピングしながら無意味に時間を潰す。


神代(俺って普段、何して過ごしてたっけ。)


大事な事を忘れている感覚。だが、考えは深まらず、携帯を眺めたり、本をめくったりして過ごす。

やがて、出勤の時間が迫る。


神代「行くかぁ。」


気乗りしないのはいつも通り。

けれど今日は、胸の奥でざわざわと落ち着かないものが渦巻いていた。

神代はいつものルートで、いつもの時間にコンビニへ入った。

だが、そこに漂う空気は、これまでとは明らかに違っていた。

どんよりとした殺気立つ雰囲気が、どこにもない。

むしろ、目にした光景は思わず自分の目を疑うようなものだった。


揚石「そうなんだよ!あの《サイレント・シティ》のリチャード・コールマンとマリーナ・ハート、マジで最高だよな!?風見さん分かってるなぁ!」


結衣「ですよね!特にマリーナが銃を構えてゲリラと応戦したシーン!あの捌き方エグかったです!あそこがあるからシーズン四が一番好きなんですよ!」


揚石「分かる!そうそう!古いドラマなのによく知ってんなぁ。」


結衣「私、結構観てますから!」


そこへ中村が手を振る。


中村「おーい!風見さん、ちょっと手貸してくれ!」

結衣「はーい!今行きますね!」


結衣は軽やかに返事をし、搬入作業へと向かう。その間、揚石が代理でレジに立っている。


神代は初めて揚石が楽しそうに笑っているのを見た。

一瞬、自分の目を疑い、思わず目を擦る。

それから無言でロッカールームへと足を運び、着替え始めた。

だが、ドア越しに耳へ入ってくる会話がやけに鮮明だ。


中村「いやぁ、この前の《レッドエコーズ》のライブチケット、抽選落ちちゃったんだよ。マジ最悪。」


結衣「それって二十周年アニバーサリーのやつですよね?ヴォーカルのルイ・アンダーソン、長らく声帯の不調だったけど、今回のステージで復活するっていう。」


中村「え!?風見さん知ってんの?」


結衣「はい!音楽聴くの大好きなんです。カラオケでもよく歌いますよ。チケットは応募してなかったですけど。」


中村「へぇ、話分かるねぇ!やっぱルイはあのハスキーさと伸びが良いんだよなぁ。分かる?」


結衣「はい!ルイって、昔は《シルバーライン》ってバンドにいたんですけど、ソロになってからすごく幅が広がりましたよね!」


神代(何の話をしてんだ?結局、俺は蚊帳の外だ。同じ敵を持つ仲間意識をほんの少しでも感じたのがバカだった。きっといつか風見さんも、俺を嫌うようになるんだろう。早いとこ距離を取らなきゃな。)


そんな思考をしていた矢先。


結衣「あ!神代さん!おはようございます!」


明るい声に、心臓が一瞬跳ねる。

だがその直後、中村の舌打ちが聞こえた。


中村「ちっ。(無視)」


神代「おはようございます…。」


相変わらず中村の視線は冷たく、鋭い。

一方で結衣は、昨日と同じ笑顔を浮かべている。

神代は思う。

この女、風見結衣って奴は、本当に頭がお花畑なんじゃないのか。

職場の実態なんて何一つ分かっていない。ただの能天気。そう考え始めると、逆に苛立ちが募ってくる。

その苛立ちを煽るように、中村が小声で結衣へ囁いた。だが、その声は明らかに神代に聞かせるためのボリュームだった。


中村「風見さん、ソイツ陰キャなんで関わらない方がいいっすよ。何されるか分かんないですよ。」


結衣「え?中村さんは、何かされたんですか?」


中村「え、いや。特にはないけど、皆んな嫌がってるし。」


結衣「それなら心配ないですよ。皆んなで仲良くやりましょう?」


ほんの一瞬だが、結衣の瞳が鋭く光り、中村を射抜いたように見えた。

中村は反射的に背筋をこわばらせ、どもりながら答えた。


中村「お、おう。俺はまぁ別に良いんだけどな。おっと……掃除、掃除。」


言い訳を残し、逃げるように商品棚の方へ去っていった。

そこへ、揚石がバックヤードに入ってくる。


揚石「風見ちゃん、さっそく小さな仕事をお願いしてもいいかな?」


結衣「任せてください!大きなお仕事でも大丈夫ですよ!」


何故か自信満々だ。


揚石「いやいや、君は看板娘として十分やってくれてる。簡単な発注業務だよ。ん?」


ふと、揚石は奥を振り返り、神代の存在を確認すると顔色を変えた。


揚石「おい!!神代!!挨拶くらいしろや!!接客業の基本だろうが!」


神代「はい…。すみません。」


揚石「ったくよ。使えねぇ奴が幽霊みたいに突っ立ってんじゃねえよ。風見さん、とりあえず発注教えるから、こっち来てくれ。」


結衣「あ、はい!でも……お客さんが困ってそうです!プリンタの操作みたい。私、行ってきますね!」


揚石「おう。」


結衣は小走りで店のフロアへ出ていった。

揚石は彼女の背中を見送りながら、独り言のように呟く。


揚石「あの子はよく周りを見てるな。」


まるで対比するかのように。

神代の胸に、苛立ちがこみ上げた。


神代「レジ、入ります。」


揚石「……。」(無視)


神代(クソが。女相手にデレデレして、みっともねぇ。気色悪いんだよ、クソオヤジが。今週中に絶対辞めてやる!)


怒りで頭の中が煮えたぎっていたその時、肩をトントンと叩く感触。


神代「あぁ?」


思わず本性の声が漏れた。出した瞬間、しまった、と思った。


結衣「神代さん。店長の言うこと、気にしなくていいと思うよ。」


振り返れば、結衣が静かに、真っ直ぐに見つめていた。プリンタ対応を終えてレジ側に戻っていたようだ。


結衣「私、贔屓されるのも、逆にされないのも苦手。普通にイジメと同じだから。負けないでくださいね。」


神代の苛立ちはさらに膨れ上がった。


神代「余計なお世話ですよ、風見さん。あんた、誰からも好かれたいタイプでしょ?調子の良い事言って全員に良い顔して、人気者になった自分に酔ってるだけじゃないですか。浅はかなんだよ。すげえ性格だ。もう俺に関わらないで下さい。」


結衣「そんなんじゃ、ないです…。気に障ったなら、ごめんなさい。」


結衣は悲しそうに視線を落とすと、深々と腰を折り、膝に手をついて頭を下げた。

そのまま黙ってバックヤードへと引き返していく。


神代(ふん。偽善者なんて見てるだけで虫唾が走る。)


口にした言葉は本心だった。だが、胸の奥にはわずかな曇りが残る。

もしかすると、彼女の親切心を踏みにじっただけかもしれない。

しかし神代はすぐにその考えを振り払い、気にするだけ無駄だと自分に言い聞かせた。

どうせ嫌われるのには慣れている。そう、昔からずっと。

やがて夕方。

結衣は何事もなかったかのように作業を続けていた。中村や揚石と必要なやり取りを交わし、仕事をきっちりこなしていく。


神代(俺があれだけ嫌悪感を突きつけてやったのに。器用に人と関わって、仕事を回してやがる。生意気な奴だ。)


シフトの関係で、結衣は神代より一時間早く上がる事になっていた。

レジに立つ神代の耳に、バックヤードから「お疲れ様です。」の声がいくつも響く。

やがて、店の出口に向かう結衣が神代の前を通り過ぎる。



結衣「お疲れ様です!神代さん。」


神代「……。」


返事はしなかった。

それが今日、二人の最後のやり取りになった。


神代(もう明日には揚石に辞めるって話をしよう。人間関係も、全部消えるんだ。)


そう決めて、神代はただ黙々と残りの仕事をこなし、その一日を終えた。

神代は勤務を終えて自宅に戻った。

もちろん誰もいない。鬱陶しい父親の姿が無いだけで、少しだけ清々しかった。

だがその裏で、脳裏にはひっかかる違和感が渦を巻いていた。何か大事なことを忘れている。そんな感覚だけが残る。


神代(とりあえず、また仕事探さなきゃな。今度は絶対、接客業以外で。誰からも文句言われず、黙ってやれる仕事がいい。はぁ、俺って、結局何がしたいんだろうな。重要な事も思い出せないし、全部が間違ってる気がする。何だ、この気持ち悪さは。)


考えるのをやめた。

気持ちを強引に押し込め、眠りにつき、翌日を迎える。

昼を過ぎ、出勤の時間。

神代はいそいそと準備を整え、外へ出た。

いつもの道。いつもの街並み。見慣れたはずの光景なのに、全てがあり得ないと本能が告げている。

店舗に到着すると、今日は中村と風見結衣、さらに豊川の姿があった。

揚石店長はいない。


神代(クッソ、こんな日に限って休みかよ。辞める話をしようと思ってたのに。ほんと使えねぇな。)


ロッカールームに入ると、会話が耳に入ってきた。豊川の声だ。


豊川「新人、甘やかしすぎじゃね?お前、恒例のしつけしとけよ~。」


中村「いやいや、真里亞さん。風見さん、レッドエコーズの話出来るんすよ?あんな人材そうそういないっす。雑に扱えないっすよ。」


豊川「はぁ?知るかよ、そんなん。店長もなんかデレついてたし。男って単純だよね、ほんと。」


神代(あぁ、結衣さんがレジにいるから陰でそんな話してんのか。本人に聞こえるかもしれねぇのに。まあいい、どうでもいい。てか揚石、さっきまでいたのかよ、クソが。)


着替えてバックヤードに入ると、豊川と中村は嫌そうな顔をして、すぐにスマホへ視線を落とした。

居心地の悪さを押し殺し、神代は店内へ出てレジにつく。

結衣「おはようございます、神代さん。」


神代「あぁ……。」


投げやりな返事しかできなかった。

互いに無言で業務を進めていく


結衣「神代さん、昨日は。」


神代「品出ししといて!」


あからさまに遮った。拒絶。

気まずい空気が店内を包む。

しばらく続く連携のない店内業務。

たまに来店する客の足音、バーコードをスキャンする音、無限に繰り返される店内BGM。

その沈黙に近い空気を破ったのは、『パリィン!!!』という甲高い音だった。

バックヤードから響く、ガラスの砕ける音。

神代は嫌な予感に襲われる。

いや、予感ではない。思い出しかけていた。

母の形見、鞄に忍ばせていた手鏡の存在を。

直後、豊川と中村の笑い声が微かに聞こえてきた。

幸い、今、客はいない。

神代は顔を青ざめさせながら、駆け足でバックヤードへ向かった。

不安そうに視線を送る結衣の存在も、今の神代には映らなかった。

ロッカー前に投げ出された自分の鞄。

それを拾い上げた瞬間、胸の奥が冷たく痺れる。

中身を確認するとやはり、手鏡が無い。


神代(あぁ、そうだ。)


脳裏に、記憶が閃く。


神代(この日、俺は殺人をしたいと、心から思ったんだった。)


ゴミ箱を覗くと、粉々になった手鏡の破片が散っていた。

血の気が引く。

いや、逆に全身を怒りが満たしていく。

バックヤードからノコノコ戻ってきた中村がニヤついて結衣に何かを話しかけている。


豊川「お前さぁ、業務中に何バックヤード戻ってんの?キモいんだよ、マジで。」


神代(もういいや。コイツ、ここで首絞めて殺してやる。)


振り返り、豊川を睨む。

睨みつけて数秒、決意と力を込めていた。

豊川は面食らい、鼻で笑った。


豊川「は?なんだよ、そのキモい目。見るなって。」


神代が一歩踏み出し、飛びかかろうとした。

その瞬間。

カツ、カツ、カツッ!

急ぎ足の音。

扉が開き、結衣が飛び込んできた。

そして。

パンッ!!!

乾いた音が響いた。

豊川の頬を、結衣の手が鋭く打ち抜いていた。

豊川真里亞は豆鉄砲を食らったような表情で、頬に残る痛みを押さえながら結衣を睨みつけていた。

結衣の瞳は揺るぎなく、怒りと正義感を宿してまっすぐ豊川を射抜いている。

中村もレジ側から顔を覗かせ、呆気に取られたまま声を失っていた。


神代「な、何で……。」


その瞬間、神代の胸を満たしていた怒りは、いつの間にか消えていた。

自分の代わりに立ち向かう結衣の姿が、あまりにも予想外で、現実感がなかった。

中村が面白半分で吹き込んだ話が、事態を大きくしていたのだ。


豊川「て、てめぇ! 何すんだよ!!」


激情に任せ、豊川の平手が結衣の頬を打つ。

鋭い音がバックヤードに響き、結衣の頬は赤く腫れ上がった。

だが結衣は怯むどころか、反射的に叩き返す。

避けきれなかった豊川の頭部に直撃し、思わずよろめかせた。


豊川「いってぇ!お前、どうなるか分かってんだよな!?」


結衣「人の私物を漁って、壊してゴミ箱に捨てた人が、よく言えますね。」


豊川「はぁ!?誰がそんなことしたんだよ!」


結衣「中村さんから今聞きました。言い逃れはできません。それに、神代さんを主導でいじめてたのも、あなたですよね?」


豊川の視線が鋭く中村に突き刺さる。


中村「真里亞さん違うんです!俺はただ世間話を!」


結衣は言葉を遮り、冷たい声で告げた。


結衣「この件は店長やマネージャーに全て伝えます。神代さんへのいじめも、今日のことも全部。それで私がクビになるなら構いません。」


豊川「新人のくせに、いい度胸してるな。絶対に許さねぇから。」


結衣「はい。私もあなたを許すつもりはありません。さぁ、神代さんに謝ってください。」


豊川の顔は怒りで瞬間湯沸かし器のように赤くなる。

豊川「ふざけんな!!」


怒りに任せ、近くにあった書類を結衣に投げつけると、バッグを掴んで出口へ向かう。

奥歯を噛み締め、悔しさと憎悪に染まった顔のまま。


中村「ちょ、真里亞さん!どこ行くんですか!」


豊川「放せ!」


その手を振り払うと、豊川は乱暴にドアを開け、店外の街へと姿を消した。

重たい沈黙のあと、中村が舌打ち混じりにぼやく。


中村「あーあ……風見さん、これ責任取ってよ。」


結衣「責任?それはお互い様です。中村さんも、神代さんの私物が壊されるのを止めずに見てましたよね?」


結衣は少しむっとした表情を見せた。


中村「うっ……あ、あれは……真里亞さんを怒らせたくなかったっていうか。」


結衣「じゃあ本意じゃなかったんですね。なら、謝ってください。」


結衣はすっと身体を横にずらし、神代の姿を中村に突きつける。

強気な態度に押され、不真面目な中村でさえ目を逸らすことができなかった。


中村「わ、悪かった。神代、すまん。」


神代「はい…。」(どうなってるんだ、この状況?中村が謝ってる?それに風見さんは俺の為に、自分の人間関係を壊してまで?)


結衣は一度深呼吸をし、努めて明るい声で言った。

結衣「私も業務中に空気をこんなにしてしまって、ごめんなさい。お客さんが来たら大変ですし、お二人はここで休んでいてください。私がレジに入りますね!」

そう言い残し、結衣はきっぱりとした足取りで店内へ戻っていく。

神代と中村の間には、重く気まずい沈黙だけが取り残されていた。


中村「ったく、あの子が来てから調子狂うわ。でもお前は感謝しといた方がいいぜ?真里亞さん、多分もう来ねぇだろ。」


神代「何で俺の為に、あそこまでしてくるのか分からない。」


中村「ふん、少しは見習えよ?あの度胸には正直ビビった。多分揚石さんにも普通に言うだろうな。俺はお前のこと好きじゃねぇけど、今となっちゃ風見さんにつくわ。ははっ。」


神代は黙って中村を見据えた後、低く吐き捨てる。

神代「俺もお前のこと大嫌いだ。正直、風見さんがいなかったらどんな手でも使ってお前ら殺してたと思う。」


中村「は?」


神代「冗談じゃない。毒ガスでも爆弾でも作って、店ごと吹き飛ばしてたかもしれないな。感謝するのはお前の方なんだよ。」


淡々と告げる神代の目には、一瞬だけ狂気が宿っていた。普段大人しい彼の内に、こんな闇があるとは思わなかった中村は背筋を凍らせる。思わず視線を逸らし、苦笑を浮かべた。


中村「はは…まじでお前ヤベぇな。俺は検品でもしてくるわ。」


中村は逃げるようにバックヤードへ消えていった。

神代はその背を見送りながら、自分の胸の内を確かめる。


神代(さっきまでの感情は、何だったんだ。あの狂気はもう消えている気がする。)


自分でも制御できない心の揺れに、戸惑いが残った。 

その後はお互いの距離感も分からず時計の針だけが進む。


一時間後。

中抜けで店から離れていた揚石が店に戻ってきた。


揚石「おはよ、ん?」


中村「お、おはようございますっ。」


結衣「おはようございます!」


神代「おはようございます。」


揚石は周囲を見渡し、豊川の姿がないことに気づく。

揚石「豊川はどうした?」


結衣「店長、その事でお話があります。少しお時間いただけますか?」


揚石「ん?ああ、行こう。」


結衣は二人に「ごめん!」と手を合わせてから、揚石と奥へ消えていった。自然と神代と中村が店に残され、そこそこ入ってくる客に並んでレジを打つ。こんな並びは初めてだった。


中村「はぁ、俺もクビかなぁ。」


神代「どうでもいいですよ。」


中村「一人言に返事すんな!こえーよ。」


そう言いながら、中村は気持ち神代から距離を取る。

三十分ほど経った頃、揚石がバックヤードから戻ってきた。客がいないのを確認し、口を開く。

揚石「風見ちゃんから話は聞いた。君らも大変だったな。」


中村「あ、あの……俺の処分って…。」


神代「……。」


揚石「処分?いや、君らはこれまで通りに働いてくれ。概ね豊川に非がある、それと。」


揚石は神代の前に立ち、四十五度腰を折って頭を下げた。


揚石「神代、これまで本当にすまなかった。俺も厳しく指導しすぎたし、豊川の勤務体制も見落としていた。」

中村(は?揚石が謝ってる?)


神代「どうして、急に。」


神代は状況をうまく飲み込めず、動揺を隠しきれなかった。

揚石は深く息をつき、神代の方をまっすぐ見据えた。


揚石「俺はこれまで、豊川から神代は俺の居ない時に勝手に休憩を取ったり、怠けた勤務をしていると聞かされていた。ずっとそう思い込んでいたんだ。」


彼は言葉を切り、苦々しそうに唇を結んだ。


揚石「だが、さっき風見ちゃんに指摘されて気付いたよ。防犯用店内カメラも確認させてもらったが、俺が居ない間、レジに立っていたのも、店内で仕事していたのも全部、神代、お前だった。豊川が働いていた様子なんて一度もなかった。」


揚石は拳を握りしめ、深々と頭を下げた。


揚石「俺の思い違いだった。本当に悪かった。神代、どうかこれまで通り、ここで働き続けてほしい。豊川についてはマネージャーにも報告する。本人に伝達をした上で、本日をもって解雇としたい。」


その場に一瞬、静寂が落ちる。遅れて、バックヤードから結衣が姿を現した。


結衣「私も、新人なのに大きく掻き乱してしまってすみません。改めて、よろしくお願いします。」


そう言って深く頭を下げる。

だが、顔を上げた結衣の表情は意外にも凛としていて、どこか誇らしげですらあった。その姿に、神代は思わず心の中で小さく笑ってしまう。


神代(謝ってはいるけど、自分の行動の結果には確信と誇りを持っている。あの最悪だった職場の空気を、一瞬でひっくり返してしまった。俺まで助けられる形になるなんて、風見さんは一体何者。)


神代は、こんな解決方法があるなんて、これまで考えた事もなかった。

中村はどこか肩の力が抜けたように、安堵の表情を浮かべていた。神代もまた、自分の頬がわずかに緩んでいるのを自覚していた。

揚石が両手を軽く叩いて場を締める。


揚石「まだお客も来るだろうから、一旦話はここで終わりだ。これからも業務への指導は変わらねぇからな。さぁ、持ち場に戻った戻った。」


その合図に従い、それぞれが自然と自分の仕事へと散っていく。神代は初めて、心から澄み切った気持ちでレジに立つことができた。

その日、特に深い会話を交わすことはなかったが、どこか空気が違っていた。居心地がいい。誰からも敵意を向けられていない、互いに協力して業務を回している。それだけで、胸の奥が温かくなる。


神代(勇気ある正しい行動は、日常をこんなにも変えてしまうのか。まるで世界が違って見える。風見さんが行動に出なかったら、きっと俺は取り返しのつかないことをしていたと思う。)


心のうちで、神代は感謝していた。

やがて時間が過ぎ、それぞれの退勤の時刻となる。中村は他の誰よりも早く着替え、そそくさと帰っていった。夜勤組のメンバーが入れ替わりでやって来る頃、神代も制服を脱ぎ、軽く溜息を吐きながら店を出る。

外はすっかり夜の気配に包まれていた。冷たい空気が心地よい。解放感と安堵が胸を満たしていく。

風見結衣に、改めて礼を言いたい。

その思いに突き動かされるように、神代は店の前で立ち止まり、彼女の姿を待った。どう切り出そうかと考えていた矢先、不意に背後から声が飛ぶ。


結衣「神代くん、お疲れ様!」


はっと振り返ると、制服姿のままの結衣が笑顔で手を振っていた。

神代は慌てて姿勢を正し、深々と頭を下げる。


神代「風見さん、お疲れ様です。今日はありがとうございました。風見さんのおかげで、救われました。」

結衣は少し目を丸くしてから、照れ隠しのように手をひらひらと振った。


結衣「いいの、いいの。私、カッとなるとすぐ行動に出ちゃうとこあるから。あんまり深く考えずに動いちゃっただけなんだよ。」


退勤後、夜風に触れて解放感を覚えながら、神代は結衣の姿を目にした。


神代「それでも俺は、風見さんの行動と言葉に救われました。」


そう言うと、結衣はそんなそんなとでも言うように手をひらひらと振り、鞄の中をごそごそと探りはじめる。

結衣「あのね、次の勤務の時に渡そうと思ってたんだけど。」


そう言って袋を取り出す。その中から出てきたのは、粉々になった鏡の破片だった。

神代は一瞬、呼吸を忘れる。


神代「え。どうして。拾ってくれたんですか。」


結衣は少し恥ずかしそうに笑いながら答えた。


結衣「うん、たぶん大事なものだろうなって気がして。さっき、ゴミ箱から集められるだけ集めてみたんだ。もう元通りにはならないと思うけど神代くんが必要なら、渡せるかなって。」


神代の喉が詰まる。

形見の手鏡、母の面影を繋ぐ最後のもの。

もう戻らないと諦めていたのに、それを結衣は拾い集めてくれていた。


神代「ありがとう……。」


声は震え、涙が滲む。

割れた鏡は無残に砕け、持ち手の装飾も欠けていた。それでも確かに母の思い出を留めている。


神代「うぅ……。」


抑えきれず、涙が零れた。


結衣「神代くん……。」


神代は慌てて目を拭い、首を振る。


神代「いや、ごめん。ありがとう。これは受け取らせてもらうよ。」


結衣はほっと息をつく。二人の間に、静かな間が流れた。

結衣「ねぇ、神代くん。帰り道、途中まで同じ方向だよね?一緒に帰ろうよ!」


結衣はそこで「あっ」と声を上げる。


結衣「てかごめんなさい!普通にタメ口使ってた!すみません、オフになると気が抜けちゃって。」


しまったという顔を浮かべる結衣に、神代は自然と微笑んでいた。


神代「いいよ。年齢も同じだろうし、俺も気にしない。」


結衣「ありがとう。神代君が優しくて助かる〜。」


街灯の下、二人は肩を並べて歩き出した。

街灯のオレンジ色に照らされる夜道を進む。

神代は胸の奥で言葉がせり上がるのを感じ、ここでしか聞けないと思い切って口を開く。


神代「風見さんは俺が職場でいじめられてるって、最初

から気付いていたの?」


結衣はゆっくり頷いた。


結衣「うん、早々にみんなが神代くんに意地悪してるのはすぐ分かったよ。」


神代「俺を助けたら、風見さんまで嫌われるって思わなかった?」


結衣は少し首をかしげ、にっと笑う。


結衣「うーん、そこまで頭回らなかったかな。嫌なものは嫌だって思っちゃう性格だから。直感で動いちゃうの、私の悪いところでもあるけど、良いところでもあると思ってる!」


彼女の目は夜空に散る星のように輝いていた。

神代は思わず感嘆するように言葉を漏らす。


神代「そうだったんだ、風見さんは凄い。環境も、俺自身の在り方も考えさせられた。正直、かっこいいって思った。」


結衣は目を丸くし、頬を膨らませる。


結衣「ちょっとー!私これでも女子なんだから、かっこいいはないでしょ!」


神代「あ……ごめん。綺麗、でもある。」


結衣「いやいや!完全に何か言わせた感あるんだけど!」

二人は思わず笑い合い、そこからはたわいもない話をしながら歩いた。

神代にとって、それは友達と呼べる初めての時間だった。この体験は神代にとって大きな成長を実感させられるものとなった。

やがて、街道の先に分かれ道が見えてくる。


神代「今日はありがとう。風見さん、また明日も出勤?」


結衣「うん、明日も出勤だよ。またよろしくね!」


名残惜しさを残しつつ、二人はそれぞれの帰路へと足を踏み出した。

別れ際、結衣は軽やかに手を振った。

神代も小さく手を振り返す。

街灯の先でその背中が小さくなり、やがて夜の闇に溶けていった。

神代はしばし、その姿を名残惜しそうに見つめ続ける。


神代(行ってしまったな。)


心の中で呟いた瞬間、世界から音が消えた。

同時に、ゆっくりとまばゆい光が辺りを満たしていく。

視界は白に染まり、足元がふわりと浮き上がる。

身体は宙に漂い、重力という鎖から解き放たれたかのようだった。


神代(まただ。この感覚……。)

頭の奥にジリジリと電流が走り、封じられていた記憶が堰を切ったように流れ込んでくる。

黒瀬玲那との邂逅。

風見結衣との出会い。

学校、コンビニでの日々、衝突、笑顔、涙。

次々と脳裏を駆け巡るその映像はあまりにも鮮烈で、現実以上の現実感を帯びていた。

だが同時に理解してしまう。


神代(これは、現実世界じゃなかったのか。黒瀬先輩も、風見さんも俺の人生に本来関わる筈のない存在だった。)


胸をえぐるような痛みが押し寄せる。

だがその正体は絶望ではなく、はっきりとした気づきだった。


神代(これは、俺のために現れたもう一つの世界。パラレルワールド。俺に生き直す事を教えてくれた、もう一つの可能性だったんだ。)


記憶の中で、玲那も、結衣も、決して諦めなかった。

運命に閉ざされても、なお抗い、前を向き続けた。

彼女たちが示してくれた強さは幻ではない。確かに、自分の心に刻まれていた。


神代(俺は心の弱さに縛られて、自分の人生をクソだと吐き捨ててきた。壊すことばかり考えて。でも、本当は違ったんだ。運命は変えられる。受け入れるだけが全てじゃない。)


目尻が熱くなり、涙が一筋、頬を伝う。

光に包まれながら、神代は静かに、しかし確かな声で誓った。


神代(俺もうまく出来るか分からないけど、あの二人のように強くなろう。前を向いて生きてみよう。)


誓いを終えた瞬間、光は弾け飛ぶように消えた。

大きな閃光が走り、空気を切り裂くような轟音が世界を震わせた。

その瞬間、神代の身体は抗うこともできず、巨大な光の渦へと呑み込まれていく。

速い。

目の前の景色が、記憶が、過去と現在が、凄まじい速度で掻き消され、混ざり合っていく。

黒瀬玲那との出会い、風見結衣の笑顔、クロスラインレジデンスで過ごした日々。

あらゆる出来事が光の奔流の中で結びつき、一本の線のように繋がっていくのが分かる。

光はさらに膨れ上がり、神代の意識を強く引きずり込んだ。

眩しさに瞼は重く閉じられ、世界は一瞬で闇へと反転する。

音も、光も、何もかもが遠ざかっていく。

残されたのは、自分の鼓動だけ。

そしてそれすら、次第に静かに収束していった。

神代は目を覚ました。

まるで深い眠りから浮かび上がるような、澄み切った覚醒感だった。


神代(ここは、そうだ、あの廃病院。俺は光の結晶に呑まれて、長い眠りを見ていたのか。)


改めて今を認識した瞬間、神代は身を起こし、周囲を見渡す。

そこには横たわる黒瀬玲那と風見結衣の姿。二人とも意識を失ったまま静かに呼吸していた。

その傍らで、光の結晶がみるみる収縮し、やがて小さな点となって消えていく。

キン!と高い音を残し、そこには金色の小さな鍵だけが落ちていた。

結晶は消えた。残されたのは鍵一つ。

だが、吸い込まれる直前までそこにいたはずの白石サラの姿はどこにも見当たらなかった。

神代は頬を両手で叩き、夢ではないと確認する。


神代「これは現実だよな。俺は結晶から、確かに鍵を取り出した。」


玲那と結衣の寝顔を見つめながら、神代の胸に深い思いが込み上げる。


神代「君らが俺の記憶に介入して、結晶から、あの夢から正しく導き出してくれたのか。」


直感する。

あの光の結晶はただの脅威ではなかった。むしろ、過去を断ち切るために用意された試練だったのではないかと。

神代(いや、それでも今は考えている時間はない。二人を起こして鍵を回収してここを去ろう。もし第三者が来れば、かなり面倒な事になる。)


その時、タイミングよくレイナが目を覚ます。


レイナ「う、うぅ……しまった。気を失っていたのか。」


頭を押さえながら、玲那は半身を起こす。

それに呼応するように結衣の目にも力が宿り、かすかな声が漏れる。


ユイ「あ、朝?あれ……ここって……。」


レイナはすぐに記憶を手繰り寄せるように言葉を続けた。

レイナ「私達は…神代を追って、あの光のオブジェに呑み込まれたはず。」


結衣も目を瞬かせながら、隣の玲那に身を寄せる。


ユイ「あ、そうだそうだ!レイナちゃん、戻ってこれたんだよ!怪我もなく、無事に!」


レイナは小さく頷きつつも眉をひそめる。


レイナ「だが、何か深い体験をしたような気がするのに、記憶が全くない。ユイは?」


ユイ「私も……。長い夢を見た気がするけど、もう思い出せないんだ。変な感じ。でもはっきりしてるのは、私たちはここにいて、神代君と何かを成し遂げた、そう思えるよ。」


二人の瞳は敵意ではなく、神代に真実を求めるものだった。


神代(これは、俺だけが全部を覚えている。けど、この二人の心には感覚としてだけ残っているんだな。それでも、俺は。)


神代は深々と頭を下げた。


神代「ありがとうございます。」


レイナが驚いたように問い返す。


レイナ「どうしたんだ、急に。私はよく覚えていないが教えてほしい。君の記憶の中で、何があった?」


ユイも身を乗り出す。


ユイ「覚えてるの?」


神代は息を吸い込み、真っ直ぐに二人を見つめた。


神代「端的に言うと夢の中で俺は二人に救われました。俺はこの体験をする前まで、本気であなた達を敵として殺そうとした。でも、それは大きな間違いだった。だから俺にできることを、罪を少しでも償わせてほしい。」


言葉を区切り、神代は強い決意を込めて続ける。


神代「詳しいことは、クロスラインレジデンスに戻ってから話します。だから、俺を信じて、今すぐ着いて来てほしい。このままじゃ敵に見つかる。」


レイナとユイは一瞬顔を見合わせ、それから静かに頷いた。


レイナ「分かったよ、神代。今の君なら、どういう訳か信じられる気がする。洗脳だったら、その時は承知しないけどな。」


レイナは警戒心を残しつつも、口元をわずかに緩める。


ユイ「大丈夫だよ。私たちは人間同士。生き残って、一緒にこの世界を出よう。」


にこりと笑顔で答えた。

レイナとユイは服についた埃を払いながら、周囲を改めて見直した。


レイナ「白石さんの姿は、ないようだね。」


ユイ「うん。もしかして、私達が戻らないと悟って一人で帰っちゃったのかも。」


神代は胸の奥にわずかな不安を抱えつつも、落ち着いた声で答えた。


神代「白石さんは間違いなく無事だと思います。俺がレジデンスまでの近道を案内します。着いて来て下さい。」


その手には、光の結晶から得た金色の鍵が固く握られていた。

二人を守る、そんな決意がその握り拳から伝わってくるかのようだった。

彼は鍵を確かめると、階段先を指さす。

レイナはじっと神代の横顔を見据え、低く呟いた。


レイナ「 神代、君、本当に目が変わったな。まるで別人みたいだ。」


神代はぎこちない笑みを浮かべて答える。


神代「黒瀬先輩のおかげです。」


レイナ「先輩!?私が!?」


思わず驚きと共に声を上げる。

その横で、ユイはぱっと笑顔を咲かせた。


ユイ「仲間になれたって事だよね!協力し合うのは大事なことだもん!」


神代の心の奥に、ほんの一瞬、複雑な感情が芽生えた。


神代(あの夢の中の記憶を、二人には思い出してほしくない。このまま新しい俺だけを見ていてほしい…。)


それは小さな誇りであり、同時に臆病な願いでもあった。

その時だった。

静寂な空間に急遽響き渡る不気味な拍手音。


???「リク、偉いぞ。よくやったじゃないか。素晴らしいぞ。」


不意に響いた声も、三人の胸を氷の手で掴むような恐怖を呼び起こした。

特に神代の顔はみるみる蒼白になり、震えるようにゆっくりと後ろを振り向く。

そこに立っていたのは、真に彼をここへ導いた張本人。


神代「冥主。何でここにいる……。」


搾り出すような声。もはや憎しみで押し返すだけの力は、今の神代には残っていなかった。

ユイとレイナも同時に顔を上げ、声の主を睨みつける。


レイナ「誰だ!」


ユイ「なんか嫌な予感がする……凄く!」


二人が見据えたその先には、血を染み込ませたように深紅の髪を揺らし、禍々しさを放つ存在が立っていた。

頭部からは二本の黒い角が突き出し、鋭く空気を裂くように光を反射していた。

衣服は重々しい漆黒の装束で、まるで闇そのものを纏っているかのようだった。


???「リク、君は良い仲間を持ったようだね。」


女は柔らかな声音で神代に語りかけながら、ユイとレイナへと視線を向ける。


???「ふふ、君達とは初めましてになるかな。」


レイナ(この圧なんだろう。存在感そのものに押し潰されそうな威圧感。)


ユイ「神代くん、この人は友達?じゃないよね?」


ユイの額には嫌な汗が滲み、視線は自然と女の放つ異様な気配に釘付けになっていた。


神代「こいつはこの龍族、いや、この異界を束ねる支配者みたいな存在だ。人々からは冥主と呼ばれている。」


???「ふふ……リク。代理で紹介してくれて助かるよ。でもね、私にもちゃんと名はあるのだよ。」


女は漆黒の甲冑を思わせる衣の裾を静かにつまみ、頭を軽く垂れる。笑みを浮かべ、その声には甘美と残酷さが同居していた。


???「私は黎明竜域の統治を一任されし者。全ての龍族を束ねる存在、リュゼリア・レイグラント。もっとも、私を直接、名で呼ぶ者は片手で数えられるほどしかいないけどね。」


レイナ「そんな大層なお方が、何の用でしょうか?」


すぐさま返すその声は震えていない。だが、背筋を這う冷気は隠しきれなかった。


リュゼリア「君達二人に要件はないよ。」


女は軽やかに笑みを浮かべ、視線を神代へと定める。

リュゼリア「私はそこにいる神代リクに会いに来たのさ。」


神代「俺はお前に用なんてない。この鍵が目的だと言うなら渡さない、消えろ。」


鍵を握りしめる手に、自然と力がこもる。


リュゼリア「ふふ、やはり相変わらずだね。」


楽しげに囁くその声は、逆に耳を刺すほど冷たかった。


リュゼリア「そうじゃない。その鍵は君が必死に手に入れたものだ。紛れもなく君自身のものさ。ただ、それよりも大事な事がある。」


リュゼリアはゆっくりと腰の裾に手を滑らせる。

取り出されたのは、マチェーテに似た長大な刃物。刃先にはぎざぎざのノコギリ歯が刻まれており、光を反射して不気味な鈍色を放つ。


神代「……。」


ニヤリと口角を吊り上げ、リュゼリアは神代を射抜くように見据えた。

そして、不意にその刃を軽やかに宙へと投げ放つ。

ゴンッ!

金属音を立て、刃は神代の足元の床に深々と突き刺さった。


リュゼリア「リク。か弱い君に最後の選択肢を与えよう。」


声は甘美で、しかし地獄の宣告のように重い。


リュゼリア「その武器を使い、隣にいる二人を殺すんだ。」


神代「何だと?」


レイナ「くっ!」


ユイ「!!」


三人は同時に、リュゼリアの静かな悪意に身を凍らせた。

空気は一瞬にして張り詰め、逃げ場のない圧力が廃病院全体を覆い尽くす。

神代は、床に突き刺さった刃物をじっと見つめた。

ユイとレイナの視線が自然と彼に注がれる。二人には光の結晶の中での記憶はない。だが、不思議と神代と心を交わした感覚が残っている。

それでも彼がかつて自分たちに向けた殺意は、まだ胸の奥に新しい。

数秒先の未来を左右するのは、神代の選択。二人は息を呑み、その刹那を待った。

神代はゆっくりと柄を握り、力を込めて刃を引き抜いた。


神代「はははは…。」


笑い声をあげながら、リュゼリアへと視線を向ける。

神代「ありがとうよ、冥主様。俺にチャンスをくれて。」


その言葉に、ユイとレイナは身構えた。緊張が一気に高まる。

リュゼリアは目を細め、愉快そうに声を返す。


リュゼリア「嬉しいよ、リク。たった二人の人間くらい、きっと上手く捌けるだろう。さあ私に、君の狂気を見せておくれ。」


神代「見ててくれよ。」


次の瞬間、神代は刃先を翻し、リュゼリアに向けて突進した。

速い。無駄のない動き。

リュゼリアは避けようともせず、視界の中心にそのまま収まる。

ドスッ。

剣は確かに胴を貫いた。

神代の腕には、はっきりとした手応えがあった。


神代「俺に、人間として立ち直るチャンスをくれてありがとうなぁッ!!」


しかし、リュゼリアの表情は欠片も変わらない。


神代「あ?」


リュゼリアは小さく笑みを浮かべ、囁くように言った。

リュゼリア「君の夢は憎くて仕方のない人間達を、最も苦しい方法で殺すことじゃなかったのかい?」

次の瞬間、刃が煮え立つように熱を帯びた。


神代「熱っ!」


神代は思わず手を放す。

刃は白煙をあげながら溶け出し、床に滴る。

やがて水たまりのように広がった液体は、リュゼリアの足元へと吸い込まれ跡形もなく消えた。


神代「そう簡単にはいかないよな。」


レイナ「神代、味方でありがとう!援護するぞ!」


即座に木刀を構え、前へと踏み出す。


ユイ「私も!」


ストームキャットⅡを素早く構え、照準をリュゼリアへ定める。

神代もまた後方へ飛び退き、リュゼリアとの距離を取った。

三人は互いに立ち位置を取り、人智を超えた存在との戦いが始まろうとしていた。

リュゼリアはゆっくりと唇を吊り上げ、冷ややかな声で言った。


リュゼリア「人間の狂気の可能性をリクに見出していたのだけどね、残念だよ。そこの二人がやってくれたのかな?」


その視線がユイとレイナに向けられると、二人は無意識に身を固めた。空気が一瞬、張り詰める。

レイナは歯を食いしばり、まっすぐに返す。


レイナ「あなたの目的は何?なぜ神代を引き込もうとしたの?」


リュゼリアは肩をすくめるように笑い、鼻先で嘲るように言葉を落とした。


リュゼリア「引き込む?違う違う。彼は最初から魔物だったのさ。人間たちのパイプ役として都合よく使っていた。だが、君たちのせいで壊れてしまったらしい。」


ユイの声が震える。


ユイ「壊れたって……神代君は人間だよ!最初から。あなたこそ、本物の魔物でしょ!」


リュゼリアは静かに笑い、言葉を重ねる。


リュゼリア「そう思うかい?それは見解の相違だね。黒瀬アキラに呼ばれし二人というのは、どうやら君達の事らしい。けれど残念、到底私の脅威にはなりえない。」


レイナの顔が青ざめる。


レイナ「どうして兄の名前を…?」


リュゼリアの瞳がぴたりと細まり、冷たい確信が漏れた。

リュゼリア「何故って?この世界を創ったのは、君の兄である黒瀬アキラじゃないか。彼が絶望と悲しみの果てに創り出したこの幻想空間は次元を超えて不安定な者を呼び寄せる。こんな小さな世界でも創造主が託した二人と気構えていたのだけどね。取り越し苦労さ。まぁこれ以上、細かい真実を知る必要もないさ。どうせ君達はここで葬られるのだから。」


レイナは言葉を失い、ユイは小さく胸を打たれるように頷く。思っていた通りの可能性が現実味を帯びてきたのだ。


レイナ「あなたを追い詰めれば教えてくれるかしら。」


リュゼリアは一つ溜息をつき、手をゆっくり差し出した。黒い霧が彼女の腕を這い上がり、やがてその腕全体が無数の黒刃を連ねた刃のような形状へと変貌する。漆黒の影が空気を震わせた。

レイナは木刀を両手で握りしめ、全身に闘気を満たす。木刀はこれまでにないほどの光の波動を放ち、肉眼でもその波が見えるほどだ。ユイもストームキャットⅡに念力を込め、銃身が一回り大きく、力を宿したかのように変形する。

神代は二人を見据え、拳を固める。


神代「黒瀬先輩、風見さん、俺も全力でやります。」


レイナは短く頷く。


レイナ「ああ。人間の力を見せてやろう。私達には成すべき事がまだまだある。」


ユイは震える声ながらも強く言い切った。


ユイ「絶対に生きて、元の世界に戻ってみせる!(全員守ってみせるよ。)」


リュゼリアはゆっくりと身を翻し、冷ややかな笑みを浮かべた。


リュゼリア「いいだろう、すぐに始めよう。これは光栄な体験だよ。迷い子はすべからく迷宮クロスラインレジデンスに飲まれる運命なのだから。」



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──Cross Line × Residence──クロスラインレジデンス りんりんぼーい @Rin919

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