第5話 レジデンスに吠える者達
時は過ぎ、空の色が変わることのない、不思議な朝がまた訪れる。
この世界では、時間の経過すら曖昧で、夜と朝の境界もどこかぼやけている。
そんな中、ユイは大きなあくびをしながら、ぼんやりと目を覚ました。
ユイ「ん~、うぅ。」
その時、不意に部屋のインターホンが鳴る。
ピンポーン、と控えめな電子音。
ユイ「はぃ、おまちを~。」
目をこすりながらベッドから身を起こし、ふらふらと玄関モニターを覗き込むとそこにはレイナの姿が映っていた。
ユイ「レイナちゃん!」
一気に目が覚める。ユイは声を弾ませながら玄関へ駆け寄った。
ユイ「待ってて、 今、開けるねって、髪おろしてるの初めて見た!」
玄関を開けると、そこには普段と少し違う雰囲気のレイナが立っていた。
トレードマークだったポニーテールはほどかれ、肩にかかる黒髪が柔らかく揺れている。
レイナ「朝早くにごめん、ユイ。ちょっと、今後の事を相談したいと思って。」
ユイ「あ、ううん! いいんだよ全然! 私こそこんな姿でごめんね~。」
ユイは部屋着のまま、寝ぐせもそのままの状態で立ち尽くす。
レイナの髪型の変化にどこか見惚れつつも、自分の姿を思い出して思わず笑った。
ユイ「この世界に来てからも洗濯はしてるけど、毎日同じ服って、気分ちょっと下がるよね。アパレルショップとか、ないのかな?」
レイナ「そしたら、後で街に出てみよう? そこで話もできるし。私も、この世界にいるのなら、服ぐらいは変えていきたい。」
レイナは少しだけ、微笑んでそう返した。
その言葉にユイも嬉しそうに頷く。
ユイ「うん、行こっ! その前にコーヒー淹れるね。」
ユイは慣れた手つきでキッチンへ向かい、コーヒーの香りが室内に広がっていく。
部屋着姿のユイと、髪を下ろしたレイナ。
不思議な世界の中でも、ごく普通の、穏やかな朝がそこにあった。
灰色の空は相変わらず色を変えることなく広がっていたが、昨日までの重苦しい空気はどこか和らいでいた。
レイナとユイは、午前中のうちに誰も居ない街へと足を運んでいた。
目的は、服の買い替え。
ユイ「わー、可愛い!でもちょっと高いかなぁ。」
アパレルショップの店内をくるくると回りながら、ユイはスマホのような端末で残高を確認しては、何度もつぶやいていた。
ユイ「お母さん、ごめん!ポイポイチャージっ!」
叫ぶように言いながら、ユイは勢いよく決済ボタンをタップする。
そんな彼女の横で、レイナはすでに無言で服を選び終えていた。
レイナ「カードでお願いします。」
店員らしきロボットに落ち着いた声で伝え、スムーズに支払いを済ませていく。
そして数十分後、二人は新しい服に身を包んで、ショップの前で一息ついていた。
ユイはふわっとしたトップスに動きやすいパンツ、レイナは黒のシャツジャケットにスリムなデニムという、落ち着いたコーディネートだった。
ユイ「ねぇ、レイナちゃん。」
歩き出した帰り道、ユイがぽつりと口を開いた。
ユイ「この世界って、普通にお店もあるし、お金も使えるし何か不思議。でも、服はやっぱり嬉しいね。ちょっとだけ、気持ちが前向きになる。」
レイナ「うん。私も、そう思う。」
レイナは頷いたあと、少しだけ表情を引き締めた。
レイナ「昨日も部屋で考え出たんだけど、この世界で生き残る為には、武器が必要だと思ってる。」
ユイは足を止めてレイナを見る。
レイナ「前みたいに襲われた時、あの屋上で鉄パイプが偶然あったのはただの幸運だった。けど、次はどうなるか分からない。強く念じれば、不思議と力が湧くあの感覚。あれはきっと、念が何かの法則を捻じ曲げてる。現実には無い力よ。だから私は、この世界で生き抜く為の、自分の武器を探したい。ユイも絶対に、自分の身を守れるようになって。」
レイナの言葉に、ユイは静かに頷いた。
ユイ「うん。私も、探してみる。何ができるか分からないけど、私だって変わりたい。戦う武器があれば、その念を込めて強くなれるって信じたい。」
レイナ「うん。ユイにも絶対できる。私もまだ上手く使いこなせるか分からないけど」
ユイ「レイナちゃんなら絶対使いこなせるようになるよ!だって現実の世界でも、もう十分強かったもん!あ、そうだ。」
言いながら、ユイはふとポケットに手を入れた。
取り出したのは、いつものスマホ。物は試しとばかりゴーグルマップのアイコンを起動させる。
ユイ「圏外じゃありませんように!」
片手で拝むような仕草で祈る。
画面の中、ぐるぐると読み込みの円が回る。
その時、ピコン、と軽い音が鳴った。
ユイ「出た!地図!!」
レイナ「えっ!? 本当に!?地図アプリがこの世界を映してるの?」
ユイの手の中で、画面が柔らかな光を放つ。
見覚えのない街並みが点と線で繋がり、現実ではあり得ない位置情報がゆっくりと更新されていく。
ユイ「うそ、ほんとに反応してる。GPSの互換性凄いんだけど。」
レイナ「ここって異世界だよね?」
ユイ「現実の決済アプリのポイポイが使えたから、もしかしてと思って試してみたんだけど、本当に使えるなんてびっくりだよ。そしたらさ、この辺りに武器屋って打ち込んだら反応するかな?」
レイナ「一応、やってみよう?」
ユイはスマホを構え、検索欄に指を滑らせる。
しばらくして、画面に何の反応もないまま、検索結果の欄が空白のまま固まる。
ユイ「無理かぁ。そりゃそうだよね、異世界でも流石に武器屋検索とか、ちょっと物騒すぎるもんね。あはは…。」
乾いた笑いをこぼすユイに、レイナが首をかしげた。
レイナ「ユイ、一応剣のワードでも調べてみてくれる?」
ユイ「え?剣だけ?いいよ、待っててね!」
ユイは再び画面に集中し、真剣な表情で文字を打ち込む。
数秒後、ピコン、と短い通知音。
ユイ「あれ?」
検索結果の欄に、たったひとつだけ文字が浮かび上がった。
【剣道場】一件該当
ユイ「出た! ほんとに出たよ!?」
レイナ「剣道場?こっちの世界にも、そんなのがあるの?」
ユイ「どうする?レイナちゃん。」
レイナ「このアプリが現実の距離感と変わらないなら、そこまで遠くない筈。行ってみよう。」
ユイ「よし、決まりだね!」
二人はゆっくりと剣道場と示された位置情報に向けて歩き出したのだった。
位置情報付近に来るとレイナがある看板に目を止めた。
木製の古びた看板には、常心館道場と刻まれていた。
門の奥には、手入れの行き届いた小さな道場の建物がひっそりと建っている。
レイナ「道場、これだ。」
レイナが呟くと、ユイも看板を見上げる。
ユイ「何か、ここなら強くなれる手がかりがあるかもしれないね。そのまま入れそうだし、行ってみよう。」
道場の中は、外見からは想像もできないほど整然とした空気に満ちていた。
柔らかな木の床と、壁際に飾られた模造刀たち。だが、その空気にはどこか張り詰めた緊張感も漂っていた。
その中心にいたのは、一人の小柄な人物だった。
身長はユイの肩にも届かないほど。
しかし、ずんぐりとした体格に纏った灰色の道着は、着古された風格と何か重たい気迫をまとっている。
手には竹刀を握り、無言のまま打ち込みを繰り返していた。
小柄な男「なんだ、お前ら。」
その人物がこちらに気づき、ゆっくりと振り返る。
肌は土を思わせるような質感で、目は小さくも鋭く光っていた。
どこか人間離れした印象を与える容姿。けれど、何よりも先に感じるのは威圧感だった。
ユイは思わず身じろぎしながらレイナの袖をつかむ。
ユイ「人がいる!?」
レイナ「ごめんなさい、ちょっとだけ見学させてほしくて。」
レイナが控えめにそう言うと、小柄な男、ノームはしばらく二人を見下すように見つめていた。
その視線には、警戒と興味、そしてどこか値踏みのような感覚が込められている。
肩にかけた竹刀を下ろし、床に軽く立てる。
小柄な男「勝手に見ていけ。俺の稽古の邪魔にならなきゃな。」
と、気だるそうに言い残した。
ホッとしたユイが、レイナに小さく微笑む。
二人は道場の中を静かに歩き始めた。
壁にはいくつかの写真が飾られていた。
若い剣士、それも目の前にいる人物のように小柄な男の構える姿や、戦いの最中を切り取ったような絵画。どれも現実の道場とは少し違った、思念が染みついたような独特の重みがあった。
ユイ「なんか、凄い空気だね。」
ユイが呟くように言う。
レイナ「うん。場所というより、何かの記憶が染みついてるような感じ。」
レイナは壁際の武具棚に目を向けた。
そこには複数の模造刀が整然と並べられていた。どれも本物ではない筈なのに、空気を裂くような鋭さを感じさせる。
そんな中でも、ひときわ異彩を放つ一本があった。
鞘に収められたままだが、重厚な存在感をまとい、他の刀と距離を取って置かれている。
レイナ「これ。」
レイナが吸い寄せられるように近づこうとすると、小柄な男の声が飛んできた。
男「触るな。そいつはただの飾りじゃねぇ。」
振り返ると、彼は竹刀を肩に担いだまま、真っすぐレイナを見ていた。
その目には先程までの気だるさとは別の色が宿っていた。
男「興味があるのか?」
問いに、レイナは一歩前へ出る。
レイナ「はい。これが、今の私に必要な気がして。」
男はその返答にしばし沈黙したあと、ふっと鼻を鳴らす。
男「当然だが、そいつは渡せねえな。」
レイナ「そうですよね。」
レイナが眉をひそめると、男はその刀を顎で指しながら言った。
男「それはな、
レイナ「誰かの念で?」
男「ああ。そいつがもう居ないのか、それともこの世界に溶けちまったのかは知らねえが道場を構築していったのも、そいつの思念の影響がでけぇ。俺はこの空間を気に入っててな、ずっとここで鍛錬してんだ。」
そう言うと、男は自身の肩に担いだ竹刀を軽く振る。
男「因みにもう一本、お気に入りの刀があったんだが
な。最近、誰かに盗まれちまった、許せねぇ。」
落羽の飾られてる横には元々展示されていたであろう刀は無く、刀置きだけが残されていた。
レイナ「盗み…。」
男「ところで、姉ちゃん。俺の名前はフェンロ。種族はノームになる。誰も興味がないこんな所に見学に来るなんて何かの縁だ、名前を教えてくれ。」
レイナ「名前、ですか。」
ユイとレイナは顔を見合わせてぎこちなく頷く。
レイナ「黒瀬レイナと言います。」
結衣「私は風見ユイです。」
フェンロ「レイナとユイか、なるほど。よろしくな。」
レイナを見つめるフェンロその目が、ふと細くなった。
フェンロ「ところでレイナ、率直に聞くぞ。自分でも力を持ってると感じてるのか?」
レイナ「どうして、分かるんですか?」
ノーム「質問に質問で返すなよ。あんたさっき、俺の竹刀を見て何かを確かめようとしてた目してたぜ。」
レイナは、はっと息を呑む。
レイナ「あなたは、その竹刀で不思議な力を使って、強くなれるんですか?」
その問いに、フェンロの表情が一瞬だけ強張った。
ピクリと眉が動き、その手に握られた木刀が静かに鳴ったようにすら見えた。
フェンロ「やっぱりな。レイナ、あんたも思念を通せる口だったか。」
レイナ「発現させる確証はありません。ただ、あるものと確信はしています。だからこそ、生き抜く為にその刀が必要なんです。」
改めてフェンロは目を細めてレイナを見据える。
フェンロ「ふん、面白ぇ。じゃあ、一回手合わせしようじゃねぇか。こっちも手加減はしねえけどな。」
ユイはえっ、という表情を見せるも言葉には出せなかった。そして自分には目線一つ合わせないフェンロの反応にもむっとしていた。
レイナ「手合わせですか。急すぎて驚きましたが、はい、構いません。ただ、条件があると言ったらおこがましいでしょうか。」
フェンロ「条件?おう、何だ、言ってみな。」
レイナ「私が勝ったら、あの刀をいただけませんか?」
ノーム「はっはっは!なぁに勝った気でいやがる。俺はな、この世界に四年もいるんだ。日がな一日、鍛錬だけして生きてる。小娘に負けるなんざ、沽券に関わるってもんだぜ。だが、ちゃんと条件は飲んでやるよ、安心しな。」
レイナ「ありがとうございます。では、お手合わせを願います。」
レイナは真っ直ぐにフェンロを見つめ、静かに頭を下げた。
ユイ「レイナちゃん!本当にいきなり戦うの?危険じゃない!?」
レイナ「ユイ、私は大丈夫。どうしてもあの刀が欲しい。私の直感がそう告げてる。」
ユイ「そ、そんなに?」
ユイは後方に見える刀を視界に入れるもレイナがここまでスイッチが入る理由は見当たらなかった。
レイナはフェンロに一礼をし、前に進む。
その一歩には、覚悟が宿っていた。
道場の空気がピリ、と緊張に包まれる。
ユイは二人のやり取りを横目に見ながら、ぽつりとつぶやいた。
ユイ「なんか、変な空気だよ。」
レイナは静かに歩を進め、竹刀入れから一本を取り出した。手に取った瞬間、手のひらに伝わる木の質感と、ほのかに漂う汗と油の匂い。
彼女はそれを両手で握りしめ、フェンロの前で一礼した。
レイナ「こちら、お借りします。」
そして正眼の構えを取る。
フェンロは変わらず、竹刀を肩に担いだまま。だがその目だけが、鋭くレイナを見据えていた。
レイナは静かに息を整え、目を閉じる。
昨晩の感覚を、呼び起こす。あのとき、思念が形を変えた。
強く、速く、鋭く。どんなものも切り裂ける刀であれ。
彼女がそう念じた瞬間、竹刀の輪郭がわずかに揺らめいた。光とも、空気の揺らぎとも言えぬ気配が、その刃の形にまとわりつく。
フェンロ「ほう、やっぱり出来るんだな。」
レイナは目を開き、踏み出した。
レイナ「いきます!」
鋭い声とともに、五歩分を一気に詰める勢いで前に出る。狙いは面。
しかしフェンロはまったく動かない。構えのまま、目線だけが追ってくる。
一瞬の気配のズレ。
レイナは咄嗟に手応えのない空間を感じ取ると、踏み込みの勢いのまま後方へと半円を描いて斬り返した。
振り返った先、フェンロの姿は低い体勢、下からの突き。
レイナ「っ!」
ギリギリで首を捻って避けるも、直後、ノームの膝が鋭く突き上がる。
みぞおちに直撃。空気が肺から抜け、レイナの身体は小さく跳ねてから、そのまま床に崩れた。
それでも彼女は竹刀を離さない。だが、動けない。
振りかざされたフェンロの竹刀が、一直線に振り下ろされる。
レイナは寸でのところで反応した。
フェンロの竹刀が振り下ろされるその瞬間、身体を半回転させるようにして刃筋をずらし、紙一重でかわす。
だが次の瞬間、フェンロの身体が横に流れた。
鋭く、横薙ぎの二振り目。容赦はない。
レイナ「…っ!」
咄嗟に竹刀を縦に構える。
ガキィン!
乾いた音とともに衝撃が全身を駆け抜けた。
小柄な体格とは裏腹に、フェンロの打突は重い。
受け止めた瞬間、レイナの膝がわずかに沈む。
重心を支えきれず、彼女の身体はよろめき、転がるように道場の床を滑った。
しかし、レイナは転倒を受け身で流し、すぐに体勢を立て直した。
その目には、まだ闘志が宿っていた。
レイナ(行く!)
彼女は竹刀を構え直し、そのまま一直線にフェンロの間合いへ踏み込む。
フェンロの竹刀が打ち下ろされる、その前に。
レイナは咄嗟にフェンロの竹刀を片手で掴んだ。
フェンロ「……!」
その瞬間、レイナは強く念じた。
レイナ(この竹刀よ、崩れろ。枝のように、脆く。朽ちて、砕けて、力を失え。)
掴んだ竹刀の先端が、わずかに光を帯びる。
だが次の瞬間、その光は跳ね返されるように弾け飛び、何も変わらなかった。
レイナ「くっ!」
その構えのまま、彼女は低く構えた体勢を晒す形になった。
フェンロの蹴りが、すぐさま飛んできた。
足の甲がレイナの脇腹を直撃し、彼女の身体は再び倒れ込む。
レイナ「うぐっ…!」
今度ばかりは受け身も間に合わなかった。
彼女はうつ伏せに倒れ込み、肩で息をする。
フェンロがゆっくりと近づく。
振りかざされた竹刀がレイナの背へ。
ピタッ。
寸前で止まる。竹刀の先が、レイナの肩をかすめる事さえなかった。
フェンロ「勝負あったな?それとも、まだやるか?」
レイナは苦しげに息を吐き、倒れたまま、かぶりを振った。
レイナ「いえ。私の完全な負けです。」
その背に、静かに影が差した。
フェンロ「だが、いい動きだった。」
そして駆け寄ってきたユイの声が、道場に戻ってくる。
ユイ「レイナちゃん!!」
レイナはユイの肩を借りて、ゆっくりと身体を起こした。
額には汗が滲み、呼吸もまだ整ってはいない。それでも、その瞳はしっかりとフェンロを見据えていた。
レイナ「私は負けたので、あの刀は諦めます。でも。」
彼女は少し間を置いてから、静かに言葉を続ける。
レイナ「もし、もっと強くなれたら。またこの道場に来て、もう一度挑戦してもいいですか?」
その真っ直ぐな願いに、フェンロはふん、と鼻を鳴らして笑った。
フェンロ「そりゃいいけどよレイナ、中々筋があるじゃねえか。お前、この世界に来てどれくらい経つ?」
唐突な質問にレイナは一瞬だけ考え込む。
レイナ「うーん、あんまり日付の感覚がなくて多分四,五日くらい?ですかね。」
フェンロ「四、五日!?」
渋い顔の眉が跳ね上がった。
思わず竹刀を肩から下ろし、信じられないという顔でレイナをまじまじと見つめる。
フェンロ「おめえさん、そんな短ぇ時間でここまで戦えるようになったってのかよ!? いや、参っちまうぜ、ほんとに!」
驚きと呆れの混じった声に、ユイがにこっと笑顔で割って入った。
ユイ「レイナちゃんは、ヒーローなんです!」
勢いよく言い切ったその声は、どこか誇らしげだった。
ユイ「元の世界でもすっごく強くて、カッコよくて! 頼れて! ちょっと不器用なとこらもあるけど真面目で、でもすごくカッコいいんです!」
フェンロ「ほぉ、そいつは頼もしいな。ユイも戦える口か?」
不意に話を振られたユイは、ぎくりと肩をすくめた。
ユイ「えっ!? あ、あー、私はそのレイナちゃんのマネージャー的な? ポジションでして…。」
視線を泳がせながら、慌ててコンビニ袋からペットボトルを取り出す。
ユイ「戦うっていうよりもサポート担当っていうか、はい!レイナちゃん、道で買っておいたスポドリ!」
渡されたボトルを受け取り、レイナは少し笑みを浮かべた。
レイナ「ありがとう、ユイ、助かる。」
ユイ「えへへ、どーいたしまして!」
そんな二人のやりとりを見ながら、フェンロは口をとがらせて言った。
フェンロ「ふーん。ま、仲がいいのは見てりゃわかるけどな。レイナよ。」
レイナのほうへと顔を向け、今度は真面目な調子で言葉を紡ぐ。
フェンロ「もし、その気があるなら毎日稽古くらいはつけてやってもいいぜ。俺も暇してる時間は結構あるからな。それに何よりお前さんには強くなる見込みがある。」
レイナ「え、そんな事本当に、いいんですか?」
意外だったのか、レイナの声に思わず素が漏れる。
フェンロ「おう。とはいえ、ずっと付きっきりってわけにもいかねぇが、鍛錬メニュー組んでやるくらいはしてやれる。やる気次第で、いくらでも伸びるぜ。」
レイナの表情がぱっと明るくなった。
レイナ「ありがとうございます! ユイ、良い?」
ユイ「も、もちろんだよ! レイナちゃんがもっと強くなったら、もう怖いものなしだよ!」
そう言いながらも、ユイは内心、ふと焦る気持ちが芽生える。
ユイ(うう、私も何かしら役に立たなきゃ!)
フェンロとのやり取りを終えたレイナとユイは、夕暮れ色に染まりかけた街を並んで歩いていた。
道場での短いやり取りだったが、レイナにとっては確かな一歩だった。フェンロの剣に対する姿勢と経験は本物だった。
彼から告げられたのは明日から体内時計で午前にあたる時間に道場へ来る事。その上で訓練メニューを毎日渡すという、言わば修行の日課が決まった。
レジデンスの輪郭が視界に収まり始めたころ、レイナが口を開いた。
レイナ「ユイ、ごめんね。気づけば、私の事ばかりになっちゃってた。ユイ自身のことも、ちゃんと考えなきゃいけないのに。ユイが身を守れるような武器や手段、私も何か調べてみるから。」
すると、ユイはいつもの調子で笑ってみせた。
ユイ「いいの!全然気にしないで。ていうか、それくらい私が自分でやらなきゃダメだもんね。レイナちゃんはレイナちゃんの特訓、しっかりやって!」
レイナはその言葉に一瞬だけ目を細めたあと、柔らかく頷いた。
レイナ「そう?でも、無理はしないで。何かあったら、すぐに相談してね。ほんの少しでもいいから。」
ユイ「うん、わかった!」
ユイはそう言って、肩をひとつすくめながら前を見据える。
正直、まだ自分に何ができるのかは見えてこない。
けれど、何もしなければ、ずっと誰かの後ろにいるだけのままだ。
その思いを振り払うように、彼女はひとまず声だけでも前向きに出しておこうと思った。
ユイ「じゃあ私、明日から街で情報集めとかしてみるね!武器とかお宝、見つけちゃうかもよっ!」
レイナ「うん、楽しみにしてる。」
どこか空回り気味な張り切りに、レイナは小さく笑いながら返した。
街の空は、相変わらず青と紫の境界を揺らしていた。
二人はレジデンスに辿り着き、それぞれが一日の終わりを思い返すも、すぐに眠りについた。
暗がりの中。
206号室、不意にコンコンと控えめなノック音がユイの夢の縁を破った。
ユイ「はひゃっ?」
自分でも思わず変な声が出たと驚いたその直後、扉の向こうから聞き覚えのある落ち着いた声が響く。
レイナ「ユイ、起きてる?」
この世界には、はっきりとした時間の指標がない。時計はあるが、針の進みはどこか遅く、どのくらいの時間が経ったのかを正確に掴むことは難しい。
それでも、外の空気はかすかに朝を思わせる。
ユイは目をこすりながら布団から体を起こし、ふらつく足取りで玄関へ向かった。
ユイ「い、今あけるねーっ。」
扉を開けた先、レイナが落ち着いた表情で立っていた。だが、開いたユイの姿を見て、わずかに目を見開いた。
レイナ「ユイ、その髪。もしかして、まだ寝てた?」
ユイ「へ?」
レイナの視線を追って、ユイは自分の頭に手をやる。
もっさりと絡まり合った寝癖と、ツンと跳ねたアホ毛が自己主張しているのが分かった。
ユイ「こ、これはそのっ!ちょうど整えようと思ってたところでしてっ!そ、それより、どうぞどうぞ、お上がりください!」
焦り気味に言葉を畳みかけるユイに、レイナは少し口元を緩めて首を振る。
レイナ「ううん、大丈夫。今日はこのまま道場に向かうから。朝ごはんも済ませてきたし。また夜に、成果の報告とか、話しましょう。ユイも、遅くならないように気をつけてね。」
ユイ「レイナちゃんなんか、お母さんみたい。」
思わず口に出た一言に、レイナは少しだけ肩をすくめて照れたように笑った。
レイナ「うん、行ってきます。」
ユイ「いってらっしゃいませ!」
元気よく右手を振るユイの前で、静かに扉が閉まる。
パタン。
ユイはその場に立ち尽くし、少し息を吐いた。
ユイ「ふぅ、焦った。私って寝てばっかり、ほんとダメだなぁ。」
天井を仰ぎながら、ぼやく。
スマホの画面を見ても、時刻は現実とズレて止まっているような感覚。アラームも効かない。
この世界で、時の経過を視覚的に認識することは難しい。
ユイ「はぁ、まずは着替えて、準備しよっ!」
自分を叱咤するようにして、ユイはようやく本格的に一日を始めようと立ち上がった。
ユイはまだパンの最後の一口を頬張ったまま、もごもごと咀嚼しながら街の通りを歩いていた。
ユイ「とりあえず、お店の多そうな所に行ってみよっかな。昨日も結構歩いたけど、まだ行ってないエリア、沢山あったはず。」
どこか現実と似ているようで、まるで空想の中のような街並み。人影のない住宅街を一人で歩いていると、ふと視界の端に、くすんだ赤いテントが見えた。
そこには、今どき見かけることのないタイプの看板がかかっていた。
《オモチャのセカイ堂》
ユイ「うわ、こういうのって現実じゃもう全然見かけないよね。ちょっとエモいかも。」
懐かしさと興味に背中を押されるように、ユイは店の扉をそっと押した。
ギィ、と鈍い音を立てて開いたその先には、他に客の気配はなかった。
カタカタと起動音を立てて動いたのは、人間型の無機質なロボット。レジの横に立ち、センサーに反応して動作を開始する。
接客ロボット「イラッシャイ、マセ。」
ユイ「どーも〜。」
ロボット相手に反射的に返してしまう。
店内には、懐かしいオモチャがずらりと並んでいた。
木製のコマ、ヨーヨー、電子音がピコピコ鳴る卵型のゲーム、どこかで見た記憶のあるカードパック。
ユイ「私ってさ、つくづく女の子っぽい遊びしてなかったんだなぁ。」
棚に並ぶオルゴールやおままごとの道具たちを見て、ぽつりと笑う。
ユイ「これ、現実にあった釣りのゲームと同じ?おばあちゃん家で親戚と一緒にやったなぁ。」
懐かしさが心を少し温かくしたそのとき、不意に目に入ったそれに、ユイの表情が変わった。
ユイ「ん?」
透明なショーケースの奥に、黒くて重厚感のあるフォルムがあった。
ユイ「うっわ!これ(ストームキャットMK-Ⅱ)!?懐かしっ!!」
それは、ユイが中学生の頃にサバゲーに夢中になっていた時代、どうしても手に入らなかった幻の後継機種だった。
ユイ「まさかこんな異世界で再会するとは。弟と家でFPSやるくらいしかなくなってたけど、これ、本物っぽい!」
目を輝かせながら銃の箱をそっと手に取る。
接客ロボット「オカイアゲ、アリガトウゴザイマス。」
ロボットの接客音声が鳴った。
ユイ「ちょっと待って!まだ買うって言ってな。」
声を張り上げたが、気がつけば自分の足はレジの前に立っていた。
ユイ「私はもう高校三年生で、男の子とこういうので遊び回る歳じゃないってば、でも。」
言葉が止まる。
頭の中にレイナの背中と、昨日の屋上での戦いの記憶がフラッシュバックする。
もしかして、これがレイナちゃんの役に立つかもしれない。
そんな思いが胸をよぎったその時。
ユイ「いや、私こういうの、もう一度握ってもいいよね。自分のために。」
小さく頷いて、銃を両手で抱える。
ユイ「買います!これ、ください!」
不思議な高揚感が、胸を満たしていた。
ユイは、思わず買ってしまったアレを抱えたまま、どこかふらりと公園に来ていた。
ベンチに腰掛け、袋を静かに破る。
中から現れたのは、艶やかな黒と金属の重みを持つエアガン、ストームキャット MK-II。
ユイ「おお。」
手の中に収まるその感触は、オモチャというには重すぎた。
見た目も、質感も、現実のモデルガンよりよっぽどリアルに思える。
銃口をそっと空に向けてみる。
太陽も雲もない、澄んだ青のグラデーションの空。
その下で、ユイはぽつりと呟いた。
ユイ「これが、私の武器で良いのかなぁ。」
思案する間もなく、ユイは銃の横にあったパッケージから、追加で買った弾を取り出した。
指先で一粒ずつ装填しながら、気分を切り替えるように声を出す。
ユイ「でも、まずは形から入るって、大事だよね!」
すっ、と立ち上がり、銃を両手で構える。
照準なんてお構いなし。とりあえず、見様見真似でかっこよく見えるポージングをとってみた。
ユイ「おりゃっ!」
空に向かって二発、引き金を引いた。
パスン、パスン。
見た目とは裏腹に、あくまでエアガンらしい軽い音が鳴った。
少し遅れて、どこかの茂みで小さな粒玉が地面に当たる音が聞こえた。
ユイ「だよね〜。現実ってこんなもんだよね〜。」
肩をすくめて、ふぅと溜息をついた時。
?「お姉ちゃん、面白そうなモノ持ってるね!見せてよっ!」
突然、背後から明るい声が響いた。
ユイ「ひゃっ!?」
ユイは驚いて勢いよく振り向く。
そこにいたのは耳がピンと立った、ふさふさとした獣のような耳と、尻尾を揺らす二人の子供達。
一人は元気いっぱいな男の子。もう一人は、おずおずとその後ろに隠れている女の子。
人間ではない。だが、確かにこの世界に生きているという存在感があった。
ユイは目を丸くして、思わず言葉を失った。
ユイ「えっ…え、えぇぇ!? なに、かわいい!?」
もう一人、ユイの視線の先で、そっとテトの後ろに隠れていた獣耳の女の子が、遠慮がちに口を開いた。
女の子「ねぇ、テト。やっぱり話しかけるのはまずかったんじゃない?このお姉ちゃん、すごく怖がってるみたいだし。」
その声にテトは振り返って、小さく肩をすくめて返す。
テト「ミル、怖がりすぎだよ。このお姉ちゃんは、他のレジデンス住人達と違って、うん、そこまで悪い気はしないんだ。大丈夫だよ。」
ユイは知らず知らずのうちに緊張していたようで、額をつたって汗が流れるのが分かった。
ユイ「あなた達は?」
できるだけ柔らかく声を出してみる。
テト「僕の名前はテト。獣族の子供だよ。」
そう言って、少年は小さな胸を張るようにして言った。
テト「この子はミル、僕の双子の妹。いきなり話しかけてごめんね。いつもこの辺りで遊んでるんだ。」
ユイ「おおお、かわいいいい!」
反射的に手を胸元でぎゅっと握る。
ユイ「よく分かんないけど、この世界にも可愛いって存在してたんだね! てっきり街には変なロボットしかいないのかと。ううっ、癒される!会えてよかったぁ。」
テトは興味津々な目でユイの手にあるエアガンを見つめると、口元を緩めて言った。
テト「その銃、戦いごっことかにすごく使えそうだね。僕たち、よく時計塔の裏にある大きな木の下で他の子達とも戦争ごっこしてるんだ。ほら、あそこの木がでっかいから隠れるにもぴったりなんだよ。」
ミルが少し得意げに口をはさむ。
ミル「ねー、私も前に援護射撃とかしてたもん!あそこなら逃げられるし、かくれんぼにも最高なんだよ。」
ユイ(援護射撃って、もう立派な兵士じゃん!)
テト「ところでお姉ちゃん、やっぱりこの世界に最近来た人なんだね?」
テトがやや得意げに言った。
ユイ「うん、そうなの!気がついたらこの世界にいてさ、よく分かんないまま、てんやわんやで、もう泣きそうだったんだから〜!」
ミルが小さく首を傾げながら問いかける。
ミル「お姉ちゃんは、どこから来たの?」
ユイ「私?えーと……日本っていうか、地球っていうかここからは相当離れた場所かなぁ、多分。」
ミル「ふーん、私達と同じだね。」
ミルがふわりと笑った。
ユイ「えっ、そうなの? テトくん、ミルちゃんって元々この世界で暮らしてたわけじゃないの?」
ユイの問いに、テトは小さく目を見開き、逆に聞き返した。
テト「ん?お姉ちゃんって、もしかしてこの世界の事知らないの?」
ユイ「え?」
ミルが口を挟む。
ミル「この世界で生まれた人なんて、誰もいないと思うよ。」
ユイ「えっ。」
ユイは一瞬、思考が止まった。
テトが続ける。
テト「この世界は、誰かが作り出した次元の歪みなんだ。理論とか物理とか、そういうもので出来てる訳じゃない。想いとか、感情とか、もっと曖昧なもので構築された空間。」
彼の声は、子供のものとは思えないほど静かに、淡々としていた。
ミル「みんな異なる次元、異なる世界から連れてこられただけ。元居た世界じゃ絶対に交わることのない存在達が、ここでは何故か出会ってしまう。そんな場所なんだ。」
ミルが指を立てて付け加える。
ミル「でも、街にいるあのロボットさんたちは、この世界で生まれた存在かもしれないけどね。あれは、うん、ちょっと違うかも。」
ユイは呆然とした表情で、二人の子供を見つめた。
ユイ「そうだったの。」
この世界が誰かの意思で生まれたというテトの言葉が、まるで現実感のない空に響いて消えていく。
だが、胸の中には確かにざわつく何かがあった。
震えるような焦燥と、取り残されたような不安。
そして、ぽつりと呟くように声を漏らした。
ユイ「私、いや私達は知らないうちに、あの黒くて、気味の悪いマンションの住人って事にされちゃってて。」
ユイの瞳がまっすぐに、テトとミルを見つめる。
ユイ「テト君とミルちゃんは、この世界の事、どこまで知ってるの? いつからここにいるの?」
その問いに、テトはしばらく目を伏せてから、ゆっくりと答えた。
テト「あのマンション、クロスラインレジデンスって呼んでるけど、そこの住民達は特別なんだ。何かしらの理由で選ばれてる。でも、どういう選び方なのかは僕たちも分からないよ。」
続けて、彼は少し肩をすくめるようにして言う。
テト「でもね、僕たちみたいに選ばれなかったけど、ちゃんと意思を持ってこの世界で生きてる人は沢山いる。ただ皆、あの建物にいる存在を怖がって、隠れてるだけ。お姉ちゃんは、その例外みたいだけどね。」
ミルは小さく頷いた。
ミル「私達も、いつからここにいるのかは分からないの。気づいたら、ずっとここで暮らしてたって感じ。」
ユイは唇を結び、拳をきゅっと握った。
ユイ「教えてほしい、この世界の事。もっと、ちゃんと知りたいの。」
その言葉には、彼女なりの覚悟がにじんでいた。
テトは、その真剣な眼差しを受け止めるとにやりと笑った。
テト「うん、じゃあ。」
その笑みはどこか子供らしくて、でも悪戯っぽくもあった。
テト「僕達と遊んでくれたら、知ってる事、もっと教えてあげてもいいよ?」
ユイ「えっ? 遊び?」
ユイの目がきょとんと丸くなる。
テト「そう!鬼ごっこだよ。お姉ちゃんが鬼になって、僕たち二人を捕まえる。もし両方捕まえられたら、その時は全部話すよ!」
テトがそう言ってポンと自分の胸を叩くと、隣のミルが少し不安そうに口を開いた。
ミル「テト、やめなよ。もしあれが来たら。」
その言葉に、空気が一瞬だけ張り詰める。
だが、テトは首を横に振ってみせた。
テト「大丈夫。まだそういう時間じゃない。せっかく知り合いができたんだ。ギブ&テイクってやつでしょ?」
無邪気さの中に、どこかしたたかさと強い意志が混じっていた。
ユイはそんな二人を見て、小さく苦笑する。
ユイ「ふふ。何この流れ。でも、なんだか嫌いじゃないかも。」
彼女の中に、少しだけ新しい風が吹いたようだった。
テト「僕たちは、はっやいよ? いくよ、用意、はじめ!」
テトが元気よく叫んだ。
ミル「もぉ、テトったら!」
ミルも小さく呟いて、二人同時にふわりと地面を蹴って後退した。
その跳躍は、子供の小柄な身体からは想像できないほどダイナミックで、ユイの目の前から一瞬で距離をとってみせた。
ユイ「ちょっと待ってよ!? 急すぎっ!」
ぽかんと目を丸くしたユイに、テトが振り返ってニカッと笑う。
テト「お姉ちゃん、強くならないとダメだよ〜? 僕達に追いつけないくらいだと、これからきっと苦労しちゃうよー!」
ユイ「むっ!」
ユイのこめかみがピクッと跳ねる。
ちょっと子供に挑発されてるという状況が、彼女の負けず嫌いを心の底から引きずり出していた。
ユイ「良いでしょう。あえてその誘い、乗ってあげるんだからっ!」
湧き上がる対抗心と、どこか懐かしい感情。
こうして誰かと真剣に遊ぶのは、いつぶりだろう。
ユイ「やるからには全力でやるよ。知ってること全部聞き出して、この世界から無事に帰って普通の高校生に戻るんだ!」
ユイの瞳には、希望を帯びた笑みと、確かな意思が宿っていた。
テトが指を公園の片隅にある、古びた大時計へと向ける。
テト「じゃあ、長針があの丸い記号の位置になるまでね!」
ユイもその時計を見やる。
時計の丸い記号というのは数字の六の位置を指している様にみえた。
ユイ「この世界の時間は、現実よりずっとゆっくり流れてる。今が長針四くらいだから、長針があと十分。換算してえっと、多分、体感値一時間ってとこかな?やってやろうじゃん!」
頬をぺちんと叩き、気合を入れる。
ユイ「よし、覚悟してよね、テトくんミルちゃん。全力でいくから!!」
砂煙がふわっと舞う。
ユイは思いっきり地面を蹴った。
同時にテトとミルは人間離れした軽やかな跳躍で、まるで風に乗るように公園の端まで一気に駆け抜けていった。
ユイ「っ、はやっ!」
その様子を見ていたユイの口から、自然と素の声が漏れる。
まるで漫画、ゲームの世界のキャラクターのようだった。いや、ここはその漫画、ゲームよりも現実味のない思念世界。そう考えると納得はできる筈だが、それにしたってスタートからの差はあまりにも過酷だった。
ユイ「まじかぁ。」
そう呟きながらも、にやりと口元を上げた。
ユイ「でも、私にも考えがあるからね。」
言い終えると、ユイはテトとミルが駆けていったのとは逆方向に走り出した。
公園の中央から見れば不自然な動きに思えるかもしれないが、ユイにはちゃんと狙いがあった。
テトとミルはその様子を見て、目を丸くした。
ミル「え?逆?」
ミルが呟く。
テトも怪訝そうに目を細めながら、ユイの方向をじっと見つめた。
テト「これは、僕たちを驚かせようとしてるな? きっと物陰に隠れて、不意打ち狙いだよ!」
ミル「どうするの?」
テト「その手には乗らないよ。僕たちはこのまま遠くまで逃げる!」
二人はくるりと踵を返し、公園の柵をぴょんと軽やかに飛び越え、遊歩道の先へと姿を消していった。
一方その頃、ユイは公園の木陰、足元まで茂った草むらの奥にうずくまりながら、彼らの動向をじっと伺っていた。
ユイ(先周りして捕まえる!あの二人はまだ子供だから、もし私をつまらないって思ったらきっと他の遊びに目がいく。だったら、私の存在をつまらなくするしかない。)
ユイは息を殺しながら、静かに目を閉じた。
ユイ(テトくんとミルちゃんが行きそうな場所、さっきの感じだと、きっと彼らにはお気に入りの遊び場や、隠れ家みたいな場所があるはず。私はそれを推理して、そこへ先回りする。私だって、ずっと弟と遊んできたんだから!子供の考え、読んでみせる!)
柔らかな風が、木々の枝葉を揺らす音が響く中、ユイの集中力は研ぎ澄まされていく。
ユイは草陰にしゃがみこみ、そっと目を閉じた。
ユイ(あの二人、どこに行ったんだろう。公園の出入り口は複数ある。追いかけても、方向を誤れば空振りになるだけだ。)
ユイは思い出す。テトとミルが話していた言葉。
最初は無邪気な笑い話にしか聞こえなかったけど、今ならわかる。あれは、何気ないけど確かなヒントだった。
「その銃、戦いごっことかにすごく使えそうだね。僕たち、よく時計塔の裏にある大きな木の下で他の子たちとも戦争ごっこしてるんだ。」
「ねー、私も前に援護射撃とかしてたもん!あそこなら逃げられるし、かくれんぼにも最高なんだよ。」
ユイ(時計塔の裏、あの木の根本。たしか、通りがかりに見かけた。他の子とも遊んでたなら、きっと隠れる場所としては慣れてる。)
ユイはふと、テトが挑発気味に言っていた声を思い出す。
「僕たち、はっやいよ? 強くならないと、苦労しちゃうよー!」
ユイ(くぅ〜、あの煽り文句、悔しいけど当たってる。)
ぐっと膝に力を込めて立ち上がる。
ユイ(だったら私は頭を使って追いついてやる!)
ユイは一つ息を吐き、木漏れ日のさす先を見据えた。
ユイ(時計塔の裏、あの大きな木。きっと、そこにいる。)
彼女は地面を蹴り、公園の奥、時計塔のあるエリアへと走り出した。
ユイは足音を最小限に抑えながら、それでも素早く、公園の奥、時計塔の裏手にある大樹へと向かった。
陽の光が枝葉の隙間から差し込む中、ユイは慎重に木々の影に身を滑り込ませる。
ユイ(ここまで来れば。)
大きく息を吐き、視線を周囲に巡らせる。しかし、そこにテトもミルもいなかった。
ユイ「やっぱり甘くないよね…。」
木の根元を見て、そしてその奥、岩の影にそっとしゃがみ込む。ユイは素早く脳内で思考を回転させる。
ユイ(テトくんは、私の銃、オモチャだけど興味津々だった。なら、あれを囮にしてみるのはどうだろう。)
彼女は腰のガンショルダーから、買ったばかりのエアガン《ストームキャット MK-II》を引き抜いた。
ユイ「頼りにしてるからね、相棒。」
そう呟きながら、銃を木の幹の真正面にポツンと置く。
あえて無防備に、あたかも、うっかり置き忘れたかのように見せかけた配置だった。
準備を終えると、ユイはすぐにその場から離れた。
数分後。
風を切るような音とともに、草むらの向こうからテトが現れた。
単独で走っている。ミルの姿はない。
テト「んー、さっきの作戦、バレてたのかなあ。お姉ちゃん、どこ行っちゃったんだろ。」
ふと、大樹の根元に目をやる。
テト「あれって、お姉ちゃんが持ってたオモチャの銃?」
ぴたりと足が止まる。
警戒心と興味が、少年の瞳を鋭くする。
テト「まさか、わざと置いていった? ってことはこの辺、罠か。」
テトは周囲を警戒しながら、すぐさま身を翻す。
テト「罠なら一番遠くに逃げればいい、そう公園の一本道まで出ちゃえば!」
テトは一気に加速し、大樹の裏手からつながる一本道をまっすぐ走り出した。
地面を蹴る音が、規則正しく空気を裂いていく。
テトは踵を返すと同時に、一直線に走り出した。
草をかき分ける音と共に、足元の地面がリズムよく震える。
テト(お姉ちゃん、あの銃を囮にしてたんだな。まさか、あんなベタな罠を使うとは。)
冷静にそう分析しながらも、内心にはじわじわとした焦りがあった。
テト(でも、あの場所にいたってことは、もう元の場所にはいないはず!)
公園までの一本道を駆け抜ける。
テト(追いつけるなら、あの場からじゃ到底ムリだ。絶対に公園の境界までは来れない。)
口元に自信の笑みが浮かぶ。
テト(あの作戦、僕には通じないって事、証明してやる。)
走りながら、ふと視界の端に夕陽が差す。
少し眩しくて、少しだけ汗ばむ。
でもこの距離、このスピード。
フェンス越しに見える公園はすぐそこ。
テト(勝った!)
そう思った、ほんの数秒後だった。
そのまま公園のフェンスを飛び越える勢いで走り込んだ。
ユイはこの瞬間を、ずっと狙っていた。
テトが公園の柵を飛び越えたその刹那。
足元から勢いよくユイの身体が飛び出す!
ユイ(今しかないっ!)
空気が一瞬スローモーションのように伸びて、時間が引き延ばされた感覚の中。
ユイの身体がテトにぶつかり、二人は芝生の上を転がるように倒れ込んだ。
ユイ「捕まえたよーっ! テト君っ!」
テト「うわああああああっ!」
ユイはしっかりとテトの服の裾を掴んだまま、地面に身体を預けた。
数秒の沈黙ののち、テトは目をぱちくりとさせてから、悔しそうに叫んだ。
テト「あぁ〜〜っ!!油断したぁああ!!」
ユイは倒れたまま、にっこり笑う。
ユイ「あとミルちゃんだけだね!私に不可能はないよ!」
その声には、この異世界に来てから初めて感じる高揚感と手応えがこもっていた。
テトは唇を尖らせながらも、苦笑する。
テト「完全に僕の負けだよ…。でも、ミルは僕より足は遅いけど、頭の回転は僕より上なんだ。簡単には捕まえられないぞ?」
ユイ「うんうん、油断する気なんてさらさらないから。見ててね!」
ユイは軽やかに立ち上がり、自分の服についた草や土をパッパッと払い落とした。
その手でテトの服にも伸ばして、やさしく汚れを払ってあげる。
ユイ「はい、これでヨシっ!」
テトは少し照れくさそうに笑いながらも、そのまま起き上がる。
ユイはもう一度周囲を見渡し、内心で考える。
ユイ(そういえば、テト君の姿は常に視界にあったけど、ミルちゃんの気配は一度も感じなかった。もしかして途中で別れて、先回りしてた?大樹までは一本道で、遮る建物もなかった。ということは大樹の裏側見えない側に、まだ何かある?)
思考を巡らせるユイに、テトが声をかけた。
テト「お姉ちゃん、これからどうするの?」
ユイはぴしっと指を立てて、笑顔で宣言する。
ユイ「まずは大樹に戻るよ! 私の《ストームキャットちゃん》も、まだあそこに待ってるからね!」
テトは目を輝かせて頷いた。
テト「僕も一応ついていくよ。見てるだけでも、結構楽しいし!」
ユイ「うん、じゃあ行きましょ!」
二人は並んで歩き出した。
芝を踏みしめる足音が、やわらかく静かに、公園の奥へと続いていった。
二人は再び、大樹の元へと戻ってきた。
昼下がりの太陽が落とす長い影。
その影は大きな緑の傘のように枝葉から差し、ユイとテトの体を包み込んでいた。
ユイはそっと、大樹の根元に置いてあった《ストームキャット MK-II》を拾い上げる。
手にした瞬間、金属の冷たさと、どこか帰ってきたような安心感が伝わってきた。
ユイ「よし、ただいま《ストームキャット》ちゃん。」
そう小さく囁くと、腰の後ろに装着したガンショルダーに、しっくりと収める。
あたりを見渡すと、大樹の先、木々の向こうに、うっすらと錆びた鉄骨のようなものが顔を覗かせていた。
ユイ「ミルちゃん、いないね。あの先、もしかして廃れた工場跡みたいな場所?」
ユイが眉をひそめながら指差すと、テトがすぐ横で静かに頷いた。
テト「詳しくは言えないけど。うん、近いかもしれない。あっちの方向って、昔から隠れるのには向いてるんだ。」
ユイは一瞬だけ考え込み、でもすぐに気持ちを切り替えるように笑みを浮かべた。
ユイ「よし、進んでみよう!でも、気配がしなかったらすぐ引き返すよ。テトくんは、ここで休んでても大丈夫だからね?」
そう言うと、テトはぷいっと横を向いて小さくふくれたような表情をした。
テト「気にしないで。体力なら、お姉ちゃんには負けないから!」
その言葉に、ユイは思わず噴き出してしまった。
ユイ「ははっ、そっか、そうだった。私は知恵で勝利をおさめる諸葛亮タイプだったよ!」
そう宣言すると、両手をぐっと握って肩を上げる。
ユイ「でも、もうそろそろ私の息が切れそう。いやいや、負けない、もう一息!頑張るぞ、私!」
その声が、大樹の枝葉を揺らす風に乗って、先の工場跡のような静寂へと溶けていった。
ユイとテトは、ゆっくりと廃工場が並ぶ脇道を歩いていた。
瓦礫と鉄の匂いが漂うその場所は、かつて何かが存在していた痕跡を残したまま静かに朽ちていた。
まるで世界から切り離されたもう一つの廃都。
風が吹き抜けるたび、鉄骨がわずかに軋んで鳴いた。
ユイ「テトくんたち、ここよく来るの?」
ユイが周囲を見渡しながら尋ねると、テトは前を向いたまま軽く肩をすくめた。
テト「たまーにね。でも遊ぶものもないし、やっぱり危険だし、すぐ帰っちゃうけどね。」
ユイ「私なんか、ここ薄暗くてちょっと怖いかも…。でもお姉ちゃんがしっかり守ってあげるからね!」
ユイは胸を軽く叩いて笑ってみせた。するとテトは少しだけ顔をほころばせた。
テト「ありがとう。」
ふと、テトはユイの腰に提げられた《ストームキャットⅡ》を見やった。
テト「ところで、お姉ちゃんのその玩具の銃、なんでそんなに大事にしてるの?さっきから気になってた。」
ユイ「んー、これはね。私、憧れてる子がいるの。物に念を込めることで、それを武器として使いこなせるの。私もその子みたいに戦えるようになりたくて、試しに買ってみたんだけど。」
ユイは照れくさそうに笑って銃を軽く撫でた。
ユイ「全然うまくいかなくて、見た目だけなんだけどね。」
テト「へえ、人間にもそんなことできる子がいるんだ。僕たちの種族にも、似たようなことが出来る人がいるよ。僕は詳しくはないけど。」
ユイ「え、ほんと!?ぜひ紹介してほしいな~!戦うためのスキル、私も身につけたいの。この《ストームキャットⅡ》で!」
ユイは勢いよくポーズを決めて、銃を片手に掲げた。
テト「ミルを見つけたら、会わせてあげるよ。」
ユイ「ほんと?やった!じゃあ、それも約束だね!」
ユイは満面の笑みを浮かべて、軽くウインクしてみせた。
テトは少しだけ照れくさそうに視線を外すと、そのまま工場群の奥へと歩みを進めた。
彼らは最奥の一棟、赤茶けた鉄骨が露出した、最も朽ちた工場の入り口にたどり着く。
ユイはその場に立ち尽くしながら、頭をひねった。
ユイ(無作為に探しても、これじゃあ分からないよね。隠れられたらまず見つからない。)
そんな思考にふけるユイの隣で、テトがぽつりと呟く。
テト「お姉ちゃん、この辺はさすがのミルでも遊びには来ないと思うよ。雰囲気が重すぎるし、危ないから。」
ユイ「あ、やっぱり?」
ユイは目をぱちくりさせる。
ユイ「なんか、テトくんと話してると緊張感ぬけちゃって、ぜんっぜん頭働いてなかった気がする…はは。」
テト「僕もね、お姉ちゃんの事、皆に会わせたいと思ってる。だから特別に協力してあげる!」
ユイ「いいのっ!?」
テト「うん、とりあえず着いてきて。いつもミルと遊んでるのは、いちばん手前の工場だよ!」
ユイ「そっちだったの!? 完全に逆だったじゃんー!」
二人は小走りに来た道を引き返し始めた。
風に乗って工場の屋根がカランカランと鳴る。その音に急かされるように、軽快に歩を進める。
やがて一番手前の工場の前にたどり着くと、テトが小さく人差し指を立てた。
テト「シーっ。」
目で合図し、抜き足差し足の構えをユイに見せる。
ユイはこくりと頷き、二人は息をひそめるようにして、廃工場の扉の隙間から静かに中へと足を踏み入れていった。
二人は、廃れた工場の中を錆びた鉄壁の隙間から慎重に身を滑り込ませる。朽ちた天井は大きく開いており、そこから淡い青空が覗いていた。崩れかけた梁の隙間から差し込む光を目印に、二人はゆっくりと前進する。
人気はないはずなのにどこからか複数の話し声が聞こえ始めた。
それは笑い声のようでもあり、呻きにも似た不気味な響きだった。
ユイは背中に冷たいものが走るのを感じた。テトも目を細め、警戒心を強めている。二人は無言で顔を見合わせ、同じ結論に至る。
テト(ミルの声じゃない!)
ユイ(ミルちゃんじゃない!?)
その瞬間、鋭い金属音が天井の上から響いた。
ガタン!
テト「危ないッ!」
テトは反射的にユイの手を取り、横合いに跳躍した。二人は床に転がりながら、上から落下した巨大な鉄骨をかろうじて避ける。
ドォォォンッ!!
重々しい音が工場内に轟き、粉塵が舞い上がる。天井のひび割れがさらに広がった。
その埃の向こうから、ひときわ冷ややかな声が響く。
?「素直に潰されていれば、痛みもなく逝けたものを。肉と骨を裂いてから喰らうか。静かにさせてもらおうかねぇ。」
テト「誰だ!」
身を起こしながら叫ぶ。
鉄粉の向こうから、姿を現したのは。
人間よりはるかに小さく、頭が異様に大きく、顔の下半分を占めるような不自然な口を持った者。
皮膚はくすんだ緑色で、腹は突き出しており、手には鉄棍棒を握っていた。
牙がぎざぎざと覗き、目の奥には狂気と悪意が渦巻いている。
ゴブリン「お前らの大っ嫌いな、ゴブリン様だよォ! フヒャヒャヒャ!!」
ユイは戦慄した。
ユイ「えっ、ゴブリン!?」
ゴブリン「お前、知らねぇんだな。レジデンスの住人でも最下層の存在とは関わることがない、四階の住民さ。我らが魂狩り部隊だ!」
ユイは目を見開いた。「は……魂!?」
ゴブリンはにたりと笑い、棍棒を肩に担ぐ。
ゴブリン「あのレジデンスにお前らみたいな新顔が来たって話は聞いててな!獣族のガキどもを連れて歩き回るとは、いい撒き餌じゃねぇか!」
テトが怒気をにじませた声で言う。
テト「ずっと、つけてきてたのか。」
ゴブリン「この時間は安全だと思ったろ?その油断が命取りなんだよ、坊やァ!!」
瞬間、ゴブリンは小さな身体からは想像もつかない踏み込みで間合いを詰め、棍棒を振り下ろしてきた。
それはまるで獣のような速さ。
ユイとテトは咄嗟に反応し、目をぎゅっと閉じて身を伏せるしかなかった。
二人は、目の前に迫る死を確信した。
しかしその瞬間、眩い光が彼らを包み込む。
白銀の閃光が視界を裂き、ゴブリンは咄嗟に腕で顔を覆った。
ゴブリン「ぐあっ!? な、なんだこの光ッ!」
振り下ろした棍棒は空を切り、地面に激突。鈍い音が響き渡る。
ゴブリンが目を開けたとき、そこにユイとテトの姿はなかった。
代わりに、自らの脇腹に何かが刺さっているのに気づく。
ゴブリン「なっ……がっ!」
ぶすりと深々と突き刺さっていたのは、小さな銀色の短剣。
柄には星形のチャームがきらりと揺れている。
その柄を握っていたのは、小さな体躯のミルだった。
ゴブリン「ガキィイイ!!」
ゴブリンは怒号を上げ、凶暴な反射でそのままミルを薙ぎ払おうとする。
しかしミルは瞬時に短剣を抜き、身を滑らせるように軽やかにかわした。
その頃、ユイとテトは数メートル後方の廃材の陰に避難していた。
テト「助かったよ!お姉ちゃん!」
ユイ「ミルちゃんが助けてくれたの!?」
テトは一瞬、呆気に取られていたが我を取り戻し、すぐに立ち上がる。
テト「僕も、もう我慢できない!ミルに加勢する!」
その言葉にミルが振り返り、叫ぶ。
ミル「テト!お姉ちゃんを連れて村に戻って!ガルドとルーファスを呼んできて!このままじゃ三人ともやられちゃう!テトの脚なら絶対に抜けられるよ!」
テト「でもミルを置いてなんて行けない!」
ミル「テト、攻撃できるのは私。逃げられるのは、テトなんだよ。それに、まだ敵は隠れてる。」
ユイが言葉を飲み込んだ、その時だった。
背後の闇から三体のゴブリンが姿を現した。
ゴブリンNo.2「やれやれ、気づいてたのか。俺達の仲間の存在にな。」
ゴブリンNo.3「逃がすわけねぇだろ? 三人まとめて、中身ごと美味しくいただくぜ。」
ユイ「中身って?」
ゴブリンNo.4「気にすんなって。つまり死ぬってことよ、ガキども。」
ミルの眉がピクリと動き、構えを取る。
その小さな手に握られた短剣は、まるで聖具のように光を帯びていた。
ユイは俯いたまま、唇を噛みしめた。
ユイ(また、私、何もできないの?ダメだ。そんなの絶対にイヤ!)
ユイの足が、気がつくと自然と前に出ていた。
ユイ「ねぇ、そこの気味の悪いゴブリンのおじさんたち!!」
ゴブリンたちの目がピクリと動く。
ユイ「どうせ私を狙うつもりだったんでしょ? だったら、最初に私を狙ってきなさいよ!」
腰に携えたストームキャットⅡに手をかけ、ユイは堂々と構える。
ユイ「私の弾丸が火を吹くことになるよ!」
横で見ていたテトの顔が青ざめた。
テト(お、お姉ちゃん、それ絶対 ハッタリでしょ!?)
ユイ(シーっ。内緒!)
それでも、ユイの瞳には確かに覚悟の炎が宿っていた。
ユイはストームキャットⅡを両手で構えた。
心臓がドクンと跳ねるたび、視界が冴えていく気がする。恐怖じゃない、これは覚悟だ。
ユイ「誰かのお荷物になるのは、もう嫌!」
目の前には、こちらを舐め腐ったような笑みを浮かべるゴブリンたちが、棒立ちのまま様子をうかがっている。
その不気味な油断こそが、逆に圧をかけてくる。
ユイ「絶対に成功させる!レイナちゃんみたいに、守れる力に!」
ユイは深く息を吸い込み、目を見開いた。
ユイ「いっけえええ!!」
思いと共に声量が高鳴る!
パスン。パスン。
小気味よくもなく、重さもなく、空間に響いたのは、
思ったよりも情けない音だった。
テト「……。」
ミル「……。」
テトは目を丸くし、ミルも口をポカンと開けている。
テト「お、お姉ちゃん、今のは……。」
ミル「えーっと……脅かすため、だったんだよね?」
ユイは血の気が引いていくのを感じた。
あれだけ念じたのに、なにも起きなかった。
ストームキャットⅡの弾は、まるでただのオモチャのように、遠くへ転がっていった。
ユイ「あっ、いや!ま、待って!タンマ!今のはね、威嚇射撃!あえて軽めに打っただけで、次はホントのやつだから!!」
言い訳が虚空に虚しく消えていく。
ゴブリン一同「ギャーハッハッハッ!!」
ゴブリンたちは腹を抱えて笑い出した。
ゴブリン「何も出来ねえと思ったら、ホントに何もできねえとはな!ひっひゃー、いいぞ人間の小娘!涙出るわ!」
ユイ「ちょ、ちょっと笑いすぎだってば!」
ユイは顔を真っ赤にしながら、半泣きになりつつも、なんとか平静を装っていた。
ユイ(恥ずかしすぎるでしょ、私。完全に道化役じゃん。これ、主役じゃなくて、噛ませ犬ポジだよぉ!)
歯を食いしばった。
それでも、手は、震えながらも、銃を手放してはいなかった。
ミル「テト、少しだけ援護して!」
ミルの叫びに、テトは即座に頷いた。
テト「オッケイ!」
まるでさっきまでのユイの奮闘がなかったかのように、状況は急速に動き始める。
ユイはその場で肩を落とし、頬をふくらませる。
ユイ(んもおお、せっかくキメたと思ったのに。)
心の中で悔しがるその一方で、耳が赤くなり、涙がじわりと滲んでいた。
テトは全身の筋肉をバネのように弾けさせ、ミルを腕に抱えて跳躍する。空気を裂きながら勢いをつけ、加速の最中にミルの身体をさらに放り投げた。
テト「いっけーっ!!」
空中で身体を回転させながらミルは星のチャーム付き短剣を構え、落下の衝撃と共にゴブリンの棍棒に刃を振り下ろす。
ガキィン!
乾いた金属音が工場内に響き、棍棒の一部が欠けた。
そのまま着地したミルが息をつく暇もなく、すぐ背後からゴブリンNo.2が棍棒を大上段に振りかぶる。
テト「ミルッ!!」
テトの声が飛ぶ。
だがミルは振り返りざま、星のチャームがついた短剣を高く掲げた。
ピカッ!!
短剣のチャームが爆発的な閃光を放つ。
工場の壁や鉄骨に反射し、空間全体が一瞬、白銀の世界に包まれた。
ゴブリン「ギャアアッ!マブシィッ!!」
ゴブリン達が目を覆い、よろめいた隙を突いて、ミルは素早く背後に回り込む。
背筋を捉えた一閃、短剣の切っ先がゴブリンNo.2の背中へ深々と突き刺さった。
ゴブリンNo.2「うがっ!」
テトはすでに接近しており、その脚力でミルの身体を支えるように抱え上げる。
ミルは短剣を引き抜きながら、二人はすぐさま跳躍してユイの元へと戻った。
ユイ「ミルちゃん!テトくん!」
ユイが震える声で言う。だがミルは顔を歪めながらも、どこか納得いかないような表情でゴブリンを見据えていた。
ミル「変だな。手応えがあったのに、全然効いてる感じがしない。」
その言葉通り、ゴブリンNo.2は背中から黒っぽい血を垂らしながらも、顔をにやりと歪ませていた。
ゴブリンNo.2「ケケケ、ひっさびさに刺されたぜ、小娘。だがなあ、俺たちの身体は魂の膜で守られてんだよ。この程度じゃあ、内側まで届かねえんだよなぁ!」
ゴブリンNo.2の目が妖しく光る。
ユイの喉元に、不安がゆっくりとこみ上げてきた。
ミルが再び構えを取る間もなく、ゴブリンたちの様子が変わった。先ほどまで軽快に跳ね回っていたゴブリンのうち、ひときわ筋肉質な個体ゴブリンNo.1が、地面を蹴る。
ゴブリンNo.1「ウオオオオアアアッ!!」
凄まじい咆哮とともに、これまでにないスピードで突進してきた。
ミルは驚愕を押し殺して短剣を構え、光を帯びさせる体勢に入る。テトもすかさず脚に力を込め、跳躍の準備をした。
ゴブリンNo.3「同じ手は食わねえよ!!」
ゴブリンNo.3は吠えるように言い放ち、どこから取り出したのか、鉄でできた鈍く黒い鎖を投げつける。それは生きているかのようにうねり、テトの脚に絡みつく。
テト「うわわっ!?」
跳躍の勢いを止められたテトはバランスを崩し、そのまま無防備に地面に倒れ込んだ。次の瞬間。
ズガァン!!
ゴブリンNo.3の蹴りがテトの腹を貫くように叩きつけられ、その体は弧を描き、数メートル先の朽ちた壁へと激突した。
テト「ぐわぁあ!!」
地が震えたような衝撃音。テトの身体が壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。
ユイ「テト君!!」
ユイの叫びが響くが、止められない。
ミルは気を逸らさず短剣を振るおうとする。しかしその刃先をゴブリンが素手で握りしめた。
握られた刃の部分からは黒い血が溢れ出す。だがゴブリンは表情一つ変えない。そのまま、短剣を握ったままの手を振り抜きミルの手から剣を奪い、無造作に投げ捨てた。
チャリン。
短剣はユイの足元、ほんの少し手前に転がってきた。
ミル「っ!!」
ミルの瞳に焦りと怒りが浮かぶ。だが既に、ゴブリンの腕がミルの胴体をがっちりと締め上げていた。
その首からぶら下がっていた、禍々しい黒紫色の石が、握りしめられ、ゴブリンの手によってミルの胸元へと強引に押し当てられる。
ミル「きゃああああっ!!」
瞬間、石とミルの身体が接触した場所から、黒煙のようなものが渦巻き上がった。それはまるで、生きている魂が引き抜かれるかのような感覚。
ミル「やめてっ!!やめてえええ!!」
ミルは絶叫した。体をくねらせて抵抗しようとするが、ゴブリンNo.1の力に逆らえるはずもない。
ゴブリンは愉快そうに歯を剥き出して笑う。
ゴブリンNo.1「まずは一丁上がりだ!!」
廃工場、死線の静寂の中。
ミルの目から、色が抜け落ちた。
鮮やかな琥珀色だったはずの瞳が、まるで濁ったガラス玉のように虚ろに沈んでいる。
そのまま、身体が崩れるように地に倒れた。
息をしている気配も、まぶたの揺れも、微かな指の動きさえもどこにもなかった。
テト「ミル!!!」
ユイ「ミルちゃんっ!!」
テトとユイの絶叫が、ほぼ同時に響いた。
ユイは転がるように駆け寄り、ミルの幼い身体を両腕に抱き上げる。
ユイ「ミルちゃん、ねぇ、嘘でしょ? まだ助かるよね? 私が絶対に助けるから、お願い、目を開けてよ!」
震える声で何度も呼びかけるユイ。
必死に揺さぶるその腕の中で、ミルは反応を返さない。
一方テトは、怒りと絶望に支配された目で振り返った。
テト「よくも、よくも、ミルをぉおおお!!」
勢いのままに、一番近くのゴブリンへと拳を叩きつける。
だがその拳が届くよりも早く、ゴブリンの剛腕がテトの頬を捉えた。
バキィッ!
裂けるような音と共に、テトの身体が空を舞い、コンクリート壁へと叩きつけられた。
ユイ「テトくんっ!!」
テト「ぐっ…ミル……っ」
崩れるように倒れるテトの姿に、ユイの目から一筋、涙がこぼれた。
彼女はその場にあった、ミルの短剣を拾い上げ、手の震えを押さえるように両手で握る。
ユイ「私は、私が何とかしなきゃいけないのに!」
レイナの顔が脳裏をよぎる。
ユイ(レイナちゃん、ごめん。私、死ぬかもしれない。でも、黙ってるなんて、もう無理だ!)
ユイは短剣を構えて、震える足を前に出そうとした。
その瞬間。
ドガァァァンッッ!!
頭上からコンクリートが砕け散り、鉄骨が宙を裂き、瓦礫がゴブリンたちの頭上へと雪崩れ落ちた。
ゴブリンNo.1「ぎゃあっ!? 何だ、この音!?」
ゴブリンNo.2「天井が崩れたのか!?」
ゴブリンたちが慌てて後退する中、真っ白な粉塵の中から、ひときわ巨大な影が舞い降りる。
獣族の戦士が現れた。
ガルド「テト! ミル! ここかッ!!」
テト「ガルド……っ。」
血まみれのテトが、うっすらと顔を上げた。
テト「ミルはやられた。変な石を当てられて……それからずっと動かない。」
目を逸らしながら、彼はかすれた声で伝えた。
ユイは混乱の中、獣族の男を見上げる。
ユイ「あなたは…誰?」
ガルド「後で話す。今は逃げるのが先だ。俺がミルを運ぶ。テト、立てるか?」
ガルドは鋭く問いかけた。
テト「まだ動ける。僕が、お姉ちゃんを連れてく!」
ユイ「何言ってるの!? テトくん、そんな怪我してるのに私なんかを!」
テト「お姉ちゃん、今は言うこと聞いてよ。弱いんだから。」
ユイ「っ……!」
返す言葉もなく、ユイは目を潤ませたまま俯いた。
その瞬間、テトは残された力を振り絞って、ユイの腰を抱えあげるようにすくい取り、全力の跳躍を見せる。
テト「行くよ!!」
背後。
ゴブリンNo.1「ネズミどもが!!!」
ゴブリンたちが瓦礫を蹴散らしながら、血走った目で四人に襲いかかってきた。
ゴブリンNo.2「全員まとめて魂吸い尽くしてやる!!」
ゴブリンNo.3「逃がすかぁぁあ!!」
ゴブリンNo.4「殺せぇぇぇッ!!」
怒号が響く中、ユイたちの決死の逃走が、今始まった。
ガルドはその屈強な体格に似合わぬほど軽やかに、ミルの小さな身体をしっかりと抱き上げて跳躍した。
筋骨隆々の腕に包まれたミルの身体は揺れることなく、まるで羽のように軽く運ばれていく。
テト「くっ……!」
後ろを振り返る余裕もなく、テトは血をにじませながらもユイの身体をしっかりと抱え、必死に脚を動かした。ユイも苦しげな息を吐きながら、テトの背にしがみつくしかなかった。
背後、廃工場の奥から、怒号と荒々しい呼吸音が混じり合って聞こえてくる。
ゴブリンNo.1「待てぇえええええ!!」
ゴブリンNo.2「殺す! 殺して魂を抜いてやるうう!!」
瞬間、ガルドが足を止めた。
テト「ガルド!?」
テトとユイが勢いのまま横を駆け抜けていく。
ガルド「っらあああああああッ!!」
ガルドは獣のような咆哮と共に、右拳を工場の壁の基礎部分に叩き込んだ。
ドグンッ!!
直後、メリメリッ ゴゴゴゴ……!!
崩れるような地鳴りと共に、工場の支柱がひしゃげ、鉄骨のフレームが軋んだ。
一棟まるごと、その巨大な構造物が横倒しになるように沈み崩れていく。
コンクリートの破片が宙を舞い、鉄骨が激しくねじれる中、全体が砂埃の濁流に呑まれていった。
ユイ「う、そ…。」
ユイはその信じがたい光景に、息を呑んだ。
ユイ(でも、あのゴブリン達、きっとこれでも死なない。)
そんな直感がユイの胸を刺した。
けれど、砂塵に包まれていく視界の中、わずかに見えたゴブリンたちの姿が完全に埋もれていく。
ガルドは振り返らず、すぐに再び全身を前に傾ける。
地を叩き割るように脚を蹴りつけ、再び驚異的な加速を見せた。
足元のアスファルトが割れ、まるで地面が拒絶するかのような轟音を上げる。
ガルド「もう少しで村だ!耐えろ!!」
ユイはテトの背の上から、ただ祈るように小さく呟いた。
ユイ「ミルちゃん、どうか、生きてて!」
瓦礫と灰色の空の狭間に、逃走劇の終わりと、新たな運命の幕開けが近づいていた。
ユイ、テト、ガルドは背後に渦巻いていた殺気が遠のいたのを感じながらも、一切足を止めずに駆け続けた。三人の脳裏にはただ戻らなければという焦りと、ミルを救えなかった痛みが交錯していた。
ユイの視界に、遠くからでもすぐにわかるほど巨大な木の頭が現れ始める。空を裂くように高く伸びたその姿に、一瞬だけ心が和らぎかけたが、すぐにミルの沈んだ瞳と絶叫が脳裏に蘇る。
私、守れなかった。
胸の内に広がるのは、悔しさと自己嫌悪。情けない、弱い、足手まとい。そんな言葉ばかりがユイの中で鳴り響いていた。
ガルド「テト!周囲に誰も居ないよな!?俺は何も感じないんだが!どうだ?」
ガルドが怒鳴るように問いかけた。
テト「うん!僕も何も視線や気配はないと思うよ!このままいける!」
テトは振り返りながら確認し、力強く頷いた。
ガルド「よっしゃ、いくぞ!」
三人は大樹の根元へと一気に駆け寄ると、すぐにその裏側に回り込んだ。そこには幹の表面とは明らかに異なる、裂け目のような縦長の亀裂が隠れていた。幅は人ひとりがやっと通れるほどだが、縦にして約二メートル程あるその空間は、幹の内部へと続いていた。
ガルドが先頭で飛び込む。続いてテト、そしてユイが最後にその中へ滑り込んだ。
裂け目の中は急勾配の下り坂になっており、自然の階段のようにうねった木の根や湿った土が足元に絡みついてくる。内部はほのかに発光する苔のようなもので照らされ、視界は確保されていたが、滑りやすく、深く、そして静かだった。
ユイ「うわっ!」
ユイの足が一歩滑る。その瞬間、足元の地面が抜けるように崩れ、ユイたちはそのまま空間に飲み込まれるように落下した。
ゴオオオッ!!
風が耳元を削り取るように通り抜ける。長くはない、しかし確実に現実とは隔絶された“転移のような感覚”の末、三人はふわりと、しかし重たく、地面に叩きつけられるように着地した。
見上げると、そこには木漏れ日が差し込む空洞の天井と、草や根が入り混じるようにして作られた自然の住処、獣族の村が広がっていた。
目を見張るほど美しいのに、ユイの胸には痛みだけが残った。腕の中にはまだ、動かぬミルの身体があった。
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