第4話 異形の住人達

ラウンジの空気には、まだ爆発の余韻が残っていた。

テーブルは吹き飛び、料理は床に散乱し、ソファの一部は焦げ、壁の一角に焼け跡がくっきりと残っている。

煙の匂いが薄れていく中、仁科が怯えた表情で周囲を見渡しながら、ガーゼと水を持って走ってきた。


仁科「くそっ、こんなことになるなんて!」


一ノ瀬はラウンジの壁際に横たわっていた。腰を押さえながらも答える。


一ノ瀬「ったく、爆発くらいじゃ死なないわよ。」 


レイナは黙って、一ノ瀬の傷口を確認する。出血はあるが、深くはない。火傷と打撲。


ユイ「えっと、えっと追加の包帯と、あ、冷やすのも!」

慌てて走り回るユイに、仁科が小さく微笑んで、肩を軽く叩いた。


仁科「ありがとう、ユイちゃん。でも大丈夫。一ノ瀬はこう見えて頑丈だから。」


一ノ瀬「こう見えては余計よ。はあ、それにしても座る場所で死にかけるとはねぇ。三年も居てココでこんな事初めてよ。」


仁科「レイナちゃんが言うように、誰かが仕掛けたってこと、だよな。」


ラウンジに重い沈黙が落ちる。


レイナ「そう思います。あれは、見ての通り自然に起きた爆発じゃない。」


ユイ「でも、誰が……。」


レイナは言葉を飲み込んだ。


レイナ(白石さんか、神代さん。どちらか。少なくともこの階の住人の中に、犯人がいる。)


疑念は頭の中で冷たく渦を巻いた。

やがて、ラウンジの片づけを仁科が始め、一ノ瀬が落ち着いた頃。

レイナが立ち上がる。


レイナ「私たち、管理人にこの事を報告しに行くべきだと思います。」


ユイ「うん。あんな爆発、放っておけないよね!」


仁科「おう、分かった。色々悪いな…。」


一ノ瀬「落ち着いたら、後でまた集まろ。」


レイナ「はい、ここで待っていて下さい。」 


レイナが仁科と一ノ瀬に会釈し、ユイとともに廊下へと出る。二人の足音だけが、しんとした二階の共用廊下に響く。


ユイ「爆発が起きたばっかりってのに、ここの空気って、ほんと不気味に静かだよね。」


レイナ「……。」


ユイ「もし管理人さんも誰かの仕組んだ爆発で吹き飛んでたら、どうしよう。」


レイナ「まさか。でもそのときは、私たちでこの建物の真実を暴くしかない。」


ユイ「かっこいいけど、ちょっと怖いわ〜。」


苦笑いをしてしまう。

レイナは静かな足取りで、ラウンジを出た。

共用廊下には誰もいない。

焦げた匂いが薄く漂う廊下の壁。

ゆるく震える照明、少しだけ割れたガラスパネル。

異変の爪痕は、確かにここにあった。

犯人は、まだこの中にいる。

レイナは振り返りもせず、静かに歩を進める。

けれど、耳は神経質に周囲の気配を探っていた。

足音、風の流れ、空気の密度。

どれも微かに異常を孕んでいるように感じられる。

やがて、廊下の奥にあるエレベーターホールに差しかかる。

そこで、ひとり立っていたのが白石だった。

白石は無言で振り返り、レイナ達に気づく。


白石「二人とも、今から降りるの?」


ユイ「は、はい。ちょっと、管理人さんを探しに。」


白石はエレベーターに視線をやる。


白石「じゃあどうぞ。」


エレベーターはこのマンションに一台しかない。無人のカゴが今、二階に停まっていた。


レイナ「白石さんも、どうぞご一緒に。」


警戒を忘れずに堂々と立ち振る舞う。


白石「いいえ。私は、階段で行きます。」


少し小さな笑みを浮かべているように思えた気がしたのは疑念によるものか、レイナも分からなかった。

そして何も言わずに踵を返し、非常階段の方へと歩き出していった。


ユイ「えっ、どうして?」


レイナ「なんか、嫌な予感。」


二人がエレベーターに足を踏み入れようとした、その直前。

その後、疑問を残しつつユイがカゴに一歩踏み出そうとした瞬間。

低く、鋭い声で叫ぶ。


レイナ「待って。」


レイナがユイの腕を掴み、引き戻す。ユイは驚いたように振り返る。


ユイ「え、なに……?」


レイナは扉の奥を睨みつけながら、声を落とす。


レイナ「おかしい、何か気配が違う。」


ユイが困惑する中、エレベーターの扉が自動で閉まる。

ガシャン!

ドォォォォォン!!

直後、鉄が軋むような重低音の爆発音。振動と衝撃が空気を揺らし、風圧がホール全体を吹き抜ける。


ユイ「っっ!!」


ユイは思わずしゃがみ込み、耳を押さえる。レイナはとっさにユイを庇うように前に出る。

火花が散ったような音。煙が、扉の隙間から吹き出してくる。

建物全体が揺れるような、轟音と衝撃波が階下から響き上がった。

床が軋み、天井の照明が激しく揺れる。

廊下にガラス片のようなものが舞い、一瞬、停電のようにフロアが薄暗くなる。


ユイ「きゃあっ!!」


ふたりは驚き、廊下に手をついてその場に伏せる。

そのとき。

非常階段側から、白石が戻ってきた。

顔を驚愕と恐怖で引きつらせ、目だけが鋭くこちらを睨んでいた。


白石「あなたたち、何したの!?」


ユイ「えっ!?なに!」


レイナは、即座に眉をひそめる。


レイナ(まさか、私たちがこの爆破したと?)


白石はそれ以上言葉を発さず、そのまま踵を返し足早に自分の部屋へ戻っていった。

レイナとユイはその背中を黙って見送る。


ユイ「え、今の、なんだったんだろ。まるで私たちが爆発させたって思ってるみたいだった。」


レイナ「逆も、ありえる。あのエレベーターには、彼女が何か仕掛けていた可能性もある。」


ユイ「えっ、まさか…。」


どちらの疑念も、いまはまだ確証がない。

だが、誰かが確実に意図を持って動いている。

その確信だけは、二人の胸に重く刻まれていた。

暗くて狭い階段の前、非常灯が頼りなく瞬いている。

ユイは少し震えながら、肩を抱えるように言う。


ユイ「ほんとにまた死ぬかと思った。さっきまで、普通にご飯作ってただけなのに。私怖くて。」


震えた声で言いながら、ふらついてレイナに寄りかかる。


ユイ「レイナちゃん、私、もう無理かもしれない。」


レイナは少し驚いたように見つめるが、そっとユイの頭を抱き寄せる。

レイナは低く、静かに言葉をかける。


レイナ「ごめん。全部、私が連れてきたせいだ。私のせいであなたまで、危険な目に遭わせてる。」


強く拳を握りながら続ける。


レイナ「でも、だからこそ誓うよ。私は、必ずユイを守る。」


ユイは少し顔を上げる。


ユイ「かっこよすぎでしょ、それ。」


涙ぐんだ目で笑う。 


ユイ「そんなこと言われたら私もがんばらなきゃって思っちゃうじゃん……。」


レイナも、小さく微笑む。


レイナ「がんばろう。私達、まだ生きてる。」


一瞬、沈黙。

階段の下から微かに風が吹き上がる。

ユイは少し緊張しながらも勇気を振り絞る。


ユイ「じゃあ…行こうか。下にも、何があるかちゃんと、確かめなきゃ。」


レイナは頷いて、階段の手すりを軽く叩く。


レイナ「慎重に行こう。何が仕掛けられてるか、まだ分からない。」


二人はゆっくりと、きしむ非常階段を一歩一歩踏み下りていく。無言のまま、足音と心音だけが空気に溶けていく。

非常階段を駆け下りたレイナとユイは、静まり返った一階ロビーフロアに足を踏み入れた。

床はわずかにひんやりと湿り気を帯び、空気の密度が不自然に重い。薄暗い照明の下、ロビー中央に設置された巨大な管理砂時計が静かに赤砂を落とし続けていた。


ユイ「赤砂が落ちてる時間って、外に出ちゃいけないんだよね?」


ユイが砂時計を横目に、ぽつりと呟く。


レイナ「うん、境界が薄くなるとか書いてあったよね。ベランダとか屋上もたぶん危険。」


レイナは答えながらも、気持ちがざわついていた。視線を砂時計から離し、管理人室の方向へと歩を進める。

部屋番号や案内板はない。ただ、その奥に管理人室であると直感できる異質な扉があった。

ユイがその前で立ち止まり、大きな声で呼びかける。


ユイ「管理人さん!聞こえてますか?私達、助けてほしいんですけど!」


応答はない。まるでこの空間が音を飲み込んでいるように、ユイの声すらも消えていく。


ユイ「無視されてる、ってこと?」


ユイが肩を落とすと、しばらく沈黙が流れた。

やがて、彼女はぽつりとこぼす。


ユイ「ねえ、レイナちゃん。私たちって、何で命を狙われてるんだろうね。」


レイナ「分からない。でも、あの爆破には明確な意志があった。偶然じゃない。狙われてた、っていう確信がある。」


レイナの声は低く、はっきりしていた。


レイナ「おそらく、神代さんか白石さん。どちらかが仕組んだ、と思う。」


ユイ「どうして同じ人間同士なのにそんなことするのかな……。」


ユイの声がかすかに震えていた。


レイナ「何か理由があるのかもね。でもそれを聞く前に、こっちが消されたら意味がない。」


ユイ「うん。ねえ、早く帰りたいな。元の世界に。」

その言葉を受け止めた直後だった。


プシューッ。

機械的な圧力の解放音が、どこかで鳴った。


レイナ「今の音、何?」


音の発生源は特定できない。だがレイナの皮膚が、警鐘のように粟立つ。


レイナ「ユイ、こっち!」


レイナはユイの手を取り、ロビーの壁際へと移動した。床に這うように漂い始めた白い霧。それは単なる蒸気ではなかった。わずかに黄色味を帯び、焼けるような匂いを含んでいる。


レイナ(これ、毒だ。)


そう直感したレイナは、視線の先に異質な装置を見つけた。配電盤か何かに偽装された排出孔のようなスリットが、ロビーの壁の数カ所に等間隔で並んでいる。


レイナ「やばい、毒ガス!?完全に殺す気だ。」

ユイ「どうしよう……!」


二人は壁伝いに管理人室の扉へと向かい、ドア横に設置されたインターホンらしき装置を見つける。赤い小さなランプが灯っていた。

レイナがためらわずにボタンを押す。


レイナ「管理人、聞こえてるんでしょ!緊急事態!何とかしてよ!」


管理人「はい、管理人でございます。」


突如、無機質な男の声がインターホンから返ってきた。

それと同時に、管理人室の扉が静かに開く。微かな軋み音と共に、半身だけ覗くように現れたのは、痩身で無表情な男。

黒いスーツに身を包み、瞳の奥に光はない。


レイナ「助けてください、毒ガスと思しきものがここに蔓延しています! それに、二階で爆破が二度も起きました。明らかに他の住人による妨害行為です!」


レイナが前に出て訴えると、ユイもすがるように言葉を重ねた。


ユイ「私たち殺されかけてるんです、お願い、助けてください!」


だが、管理人は眉一つ動かさず、口を開いた。


管理人「第三条、住人間のトラブルおよびフロア間の干渉は、すべて自己責任と定められております。管理人はそれらに関与せず、いかなる責任も負いません。」

冷然たる口調だった。まるで人間の感情を切り落とした読み上げ機械のように。

レイナの拳がわずかに震える。


レイナ「くっ! 住人の命はどうでもいいってこと!?」


管理人「私の役目は、このレジデンスの維持と管理です。住人の命の保障までは規約に明記されておりませんので、対応しかねます。」


そう言い終えると、管理人は扉を閉めようとした。

ユイ「うう、管理人さんの人手なし!」


ユイがその場に膝をつき、涙をにじませながら絞り出すように言う。


レイナ(終わりたくない、こんなところで。)


その瞬間、レイナの中で閃光のようにある一文がよみがえった。


レイナ「待って!!」


レイナが声を張った。扉の開閉が止まり、管理人が再び顔を覗かせる。


管理人「他にどのようなご用件でしょうか。」


レイナ「今、この状況。赤砂時間中に、明らかな殺意をもって毒ガスが建物内に放出された。そのガスがこのまま充満すれば、他の住人だって、境界に逃げるかもしれない!それは規約に抵触するんじゃなかった!?」


管理人「ほほう、第二条の事ですか。」


管理人の目がわずかに細くなった。

レイナは息を整え、はっきりと告げる。


レイナ「赤砂時間中は、居住空間からの外出および境界領域への接近を厳しく禁止する、この規約に違反する住人が毒ガスから逃れる為に現れる恐れがあります!今この瞬間、共用部にいる私達もエントランスの入口をこじ開けて逃げれてしまえば規約そのものが形骸化するのでは?」


数秒の沈黙が流れた。


やがて、管理人はわずかに頷き、


管理人「なるほど、一理、ありますね。良いでしょう。」


と口にした。

管理人はすっと手をかざし、手から光が漏れ出す。その光を認識した途端、一気に視界が見えなくなった。


ユイ「え、何々!?」


レイナ「くっ…!」


まるでスライドショーのように視界が切り替わる。

瞬きをした後には全く身の覚えのない場所に居る事を認識する。

赤く濁った空の下、風が唸り声のように吹き荒ぶ屋上に、複数の影が揃っていた。


レイナ「ここは?ロビーにいたはずなのに……。」

レイナは辺りを見渡しながら呟いた。


ユイ「どゆこと!?きゅ、急に外!?」


ユイはその場にしゃがみ込み、青ざめた表情でレイナにしがみつく。

一ノ瀬は、屋上の端に座り込んでいた。左腕を押さえて顔をしかめている。


一ノ瀬「今度は、何なの?」


仁科「訳が分かんねえ!おい、嬢ちゃんたち、これ何か知ってるのか!?」 


仁科が憤るように声を張る。彼は紅音の傍らにいたが、動揺した様子で周囲を見回していた。


レイナ「私たちは、管理人に…。」


レイナが事情を説明しかけた瞬間、無機質な声がそれを遮った。


管理人「私が黒瀬様のご意見を参考に、当該住民の転移措置を実施いたしました。」


振り向くと、屋上の非常扉の前に、先ほどと同じ白手袋の管理人が立っていた。背筋を伸ばし、静かに告げる。


管理人「現在、クロスラインレジデンス一階ロビーでは、異常な気体、危険性のある毒ガスの拡散を確認しております。その為、排煙機構を作動させておりますが、完了までにおよそ十五分を要します。それまでの間、当レジデンスの共用部分に存在する全居住者を安全な位置に一時転移させました。」


レイナ「全員?」


レイナが顔をこわばらせながら、背後に意識を向けた。その瞬間、風の切れるような音とともに、屋上の向かい側にふたつの影が現れた。


一体は、異様なまでに細長い手足を持ち、ぶかぶかの道化服をまとっている。血のように赤い仮面をつけたその顔の下には、錆びた鎌が垂れ下がっていた。

もう一体は、包帯のような布で全身をぐるぐる巻きにされていた。目だけが露出し、その奥で闇のような赤黒い光が瞬いている。手には異様に長く鋭い爪が蠢き、まるでレイナたちを視ているかのように、首だけをぐるりと回した。


ユイ「っ……!」


ユイが思わずレイナの背に隠れた。

不気味な音を響かせながら、屋上に立つ異形の影がゆっくりとこちらに歩を進めてくる。道化師のような姿の男は、首を傾げながら不規則に足を踏み出し、その手に携えた巨大な鎌を床に引きずっている。ミイラのような体をしたもう一体は、むき出しの黒い目でこちらを凝視しながら、指先の鋭い爪をこすり合わせていた。

仁科が息を呑んで叫ぶ。


仁科「上階の連中だ、あれは!こっちのルールが通じる相手じゃねぇ!逃げろ!」


一ノ瀬「これ超ヤバい状況じゃん。」


負傷した足を抱えながら、一ノ瀬紅音が青ざめた顔で呟く。

レイナとユイの背中を、ひやりとした汗がつたう。目の前に迫る異形の存在は、人間が本能的に逃げなければ死ぬと理解するレベルの異様さと悪意を帯びていた。


ユイ「ど、どうしよう。仲良くなれる雰囲気じゃなそうだね。」


ユイが震える声で口にする。

レイナは小さく息を吸い込むと、強い意志を瞳に宿してユイを見つめた。


レイナ「ユイ、今から私の言うことを信じて聞いて。私達がやるべきことは、負傷している一ノ瀬さんを絶対に守ること。彼女は動けない。だから、この十五分間、どんな手を使ってでも、あいつらの注意を私たちに引きつける。」


ユイ「え、でも、どうやって……。」


レイナ「もし、あのオバケ二体が私達に襲いかかってきたり、変な動きをしてきたら私が合図を出す。そしたら左右に分かれて、あの異形の横を駆け抜けて。視線を、意識を、私たちに向けさせる。煽るの。そこからは私がやるから……お願い。」


数秒の沈黙。けれど、ユイの瞳がゆっくりと強さを取り戻していく。


ユイ「分かった、レイナちゃんは、いつだって正しい判断をしてきた。私だけ、メソメソしてらんないもんね。」


ユイはレイナの冷静さを目の当たりにし、初めて会ったあの商店街を思い出した。あの時と同じ抗う目だった。


レイナ「ユイ、ありがとう。あなたは私の大切な友達。守ってみせる。」


ユイ「レイナちゃん。」


二人は手を強く握り合った。その背後では、鎌を持った道化が乾いた笑い声をあげながら、もう一歩、近づいてくる。

異形の双影が、ゆっくりと距離を詰めてくる。

そのうちの一体、道化師ような姿をした者が、咽に錆びついた金属を流し込んだような声で口を開いた。


道化師「ニンゲン、オマエラノセイデ、ワレラハ、カエレナクナッタ、コロス。」


不意にもう一体、ミイラのような姿の者が、ぼそりと低く呟く。


ミイラ「キサマラノ、タマシイヲクライ、カケラニカンショウスル。」 


レイナ「一体、何を言っているの?」


レイナは心の中で唾を飲み込んだ。単なる攻撃ではない、何か執念めいた悪意を感じる、理屈ではなく、直感が告げていた。

二体が同時に一歩、また一歩と近づこうとしたその瞬間。


レイナ(やっぱりくるか…!)


二体はそれぞれ鎌と爪の切先をこちらに向け、明確に殺意の意思を示した。


レイナ「いくよ、ユイ。」


ユイ「うん!」


レイナ「今だ!」


声を張り上げる。

次の刹那、レイナとユイが左右に分かれ、一直線に異形の前をすり抜けるように駆け出す。風を切る音。足音が屋上の床を鋭く叩く。

その動きに、道化師とミイラは瞳だけを動かし、じっと彼女たちの動きを追った。


レイナ(よく分からないけど人間が嫌いなら、それも利用する。もっと煽って喋らせれば、引きつけるだけじゃなく、何か手がかりも掴めるかも。)


走りながら必死に考え、振り返りざまに叫ぶ。


レイナ「全然怖くないのよ!私達からすれば、お前達の力なんて、たかが知れてるわ!化け物!」


その瞬間、道化師の口元が裂けた。顔面が引きつり、金属音のような声が響き渡る。


道化師「コムスメガ、テアシヲヒキサキ、ヤツザキニシテヤル!」


レイナ「くっ、怒りを買っただけだ!」


レイナは顔をしかめつつ、更に屋上後方へと走り出す。とにかくあの二人、一ノ瀬と介抱する仁科から遠ざけなければならない。

怒気に満ちた異形の視線が、今まさにレイナに集中している。恐怖が心を締め付ける中、それでも彼女は走り続けた。

レイナ(まだ終われない、止めてみせる!)


レイナは屋上の入り口とは反対側、柵の続く端まで全速力で駆け抜けた。背後には異様な気配。あの二体の異形が迫ってくる。心臓の鼓動が耳を打つ中、彼女は逃げるだけではいけないと、頭をひたすら回転させる。

視界の隅、風に揺れるパイプの影が目に入った。鉄製の配管。建物に固定されていたが、明らかに劣化してヒビが入っている。


レイナ(これだ!)


レイナは足を止め、咄嗟にその配管に手を伸ばす。そして、全身の力を込めて引き抜いた。


レイナ「……ッ!」


バリィン!

金属が砕ける音が響き、反動とともに腕が痺れる。それでもレイナは歯を食いしばって配管を構えた。剣道の構え。中学生の時から幾度となく磨いた所作が、今この瞬間に身体へと染み出していた。

彼女は振り返る。目の前には、歪な影がゆらりと迫る。

その頃、ユイは少し遅れて走っていた。結果として、異形の二体をレイナと挟むような形となってしまっていた。


ユイ(マズイ、このままじゃ……。)


彼女の呼吸は乱れ、足が震える。脳が凍りつくように思考が止まりかけていた。


ユイ(考えなきゃ!レイナちゃんだけに、全部背負わせるなんて絶対ダメ!)


唇を噛む。負けそうになる心を、必死で押さえ込む。

レイナと対峙する道化師の声が、屋上の風を震わせる。


道化師「ニンゲンノ、モロサハ、ヨクシッテイル。」


その言葉を残し、道化師は不気味に体をくねらせる。レイナは一瞬も迷わず、引き抜いた配管を構える。狙いは、道化師の顔面。

レイナは一気に道化師目掛けて走り出す。間合いを一気に詰める。道化師は相手の様子を伺っているのか静観しているようにも見えた。

軸足を踏み込んで、パイプが唸りを上げ、大きく振り下ろされた。


レイナ「ッ!」


しかし、手に伝わった感触は、まるで岩を砕こうとするかの硬さだった。刹那、攻撃がまるで届いていない事を悟ると同時に、異常に長く伸びた道化師の腕が、巨大なスイングを放った。

ゴォン!!

衝撃が全身を貫き、レイナは身体ごと数メートル先まで吹き飛ばされた。空気を切る音とともに着地し、無造作に転がる。痛みの感覚が遅れて脳に届き、視界の端でユイの慟哭が震えた。


ユイ「レイナちゃん!!」


それでも、レイナは意識を失わずにゆっくりと体を起こす。だが、立ち上がった彼女の脚は震え、圧倒的な力の差を目の当たりにし、死の予感が胸を締めつけた。

その刹那、ユイが声を荒げた。


ユイ「やめて!!私達が何をしたって言うの!?」


ユイは屋上の隅に転がる小さな石を掴むと、思い切り投げつけた。石は宙を舞い、むき出しの礫がミイラの包帯を裂くわずかな音を立てて当たる。

石を命中させられたことに気づいたミイラが、静かに振り返り、その漆黒の眼球がユイを捉えた。


ミイラ「シネ…シネ。」


ミイラは音もなく一歩、また一歩とユイに近づいてくる。息を飲むユイの前方には、倒れたままのレイナがかろうじて目を見開いていた。

ミイラは両腕を振りかぶり、鋭く露出した爪をユイへ叩きつけようとした。避けようにも間に合わないユイは息を飲んで目を閉じ、覚悟を決めたその時。


仁科「オラァ!!」


仁科が咆哮しながらミイラへ突進した。彼の体躯が炸裂音のように屋上を横切る。巨大なミイラの爪が放たれたものの、正確な軌道を外す。

だが、ミイラの爪の先端が仁科の二の腕に掠れ、出血がほとばしる。仁科は痛みを堪えながらも大きな手を伸ばしてミイラの包帯を一気に掴み取った。次の瞬間、膝を軸に反転して拳を振り上げようとした。


仁科「ぐっ!」


拳が届くよりも先にミイラが仁科の首根っこを掴み、宙へと持ち上げて放り投げる。彼は重力に逆らって宙で一瞬止まり、そして硬い床へと叩きつけられた。


ユイ「仁科さん!」


ユイは涙で視界がぼやける。

その時、レイナがゆっくりと立ち上がり、鉄パイプで再び剣道の構えを取る。瞳に強い光を宿し、異形を見据える。


レイナ(ユイの所に行かなくちゃ…。でも目の前のコイツを止める腕力が圧倒的に足りない。どうすれば、考えろ。)


レイナは敵を目の前にしながらも無意識に目を閉じた。研ぎ澄まされた聴覚は複数の対象を捉える。

ドクン、ドクン。

胸の奥で、鼓動が響く。

ジャリ……ジャ……。

ユイが後退りする足音。

カチ、カチ、カチ、カチ。


レイナ(この音、何?秒針?まさか、管理人の手にしている時計の音?どうして、こんなにはっきり聞こえるの?)


レイナはゆっくりと瞼を開け、屋上の出入口へと視線を向けた。

そこに立つ管理人の手の中で、銀色の懐中時計が静かに時を刻んでいる。


レイナ(信じられない。聴覚が異常なほど研ぎ澄まされてる。)


ザッ、ザッ、ザッ。

乾いた靴音が近づく。道化師が鎌を肩に担ぎ、こちらへと歩み寄ってくる。

空気が、変わった。鼻を刺すような、金属にも似た苦い匂い。思わずレイナは手で鼻と口を覆う。


レイナ(この臭い、一階の毒ガス?でも、屋上にまで届くなんて。いや、違う。私の嗅覚も、もう人間の域を超えてるんだ。)


道化師「ニゲルコトモ、デキナイカ。クビヲ、キリオトスゾ。」


無機質な声が、風を切るように響く。

レイナは答えない。

ただ、深く息を吐き、再び目を閉じた。

自分の内側へ。


レイナ(この世界に来てから、五感が研ぎ澄まされている。視覚、聴覚、触覚、全てが、いつもの何倍も鮮明だ。爆弾からも逃れられたのはきっと、この感覚のおかげ。ここは、私の五感と深く結びついた場所なんだ。)


一瞬、頭の中で閃く。何故か、思ったことが出来るような気がした。


レイナ(もし、この鉄パイプがどんな鋭利な刃物よりも

切れ味を持ったら? 目の前の悪意を、思いのままに断ち切れたら!)


自らの為すべき事を直感が告げている。

彼女は心の底から強く念じた。この刃に、私の意志を込めたい。

その直後、パイプに異変が起こる。金属の輪郭が淡く光り始め、刃物のように鋭く、そして不思議なくらい軽く感じられた。

レイナは新たな武器を手に握りしめ、深呼吸一つで静かに構え直す。


レイナ(来い!)


屋上に緊張が張り詰める次の一撃を、異形に叩き込むために。

道化師は、尚もも燃え上がるレイナの闘志を見て、不気味な怒気を込めて口角を歪めた。


道化師「ニンゲン、トットトクタバレ。」


裂けたような声を上げると、手にしていた鎌を大きく振り上げ、勢いそのままに振り下ろしてくる。


道化師「……!」


刹那、レイナの手に握られた鉄パイプが蒼白く煌めき、まるで意志を持つように斬撃を迎え撃った。ギンと甲高い音を残し、道化師の鎌は途中から断面をさらけ出し、刃が床に転がる。

レイナの意識が織りなす思念の刃が、敵の武器を断ち切ったのだ。


レイナ「っ……はぁッ!」


一瞬の好機を逃さず、レイナはパイプを構え直し、下から突き上げるように斬り込んだ。道化師は反射的に身を翻して躱すが、その豪奢な衣装には鮮やかな切れ目が走る。


道化師「ナンダト!?」


予想外の攻撃に、道化師が初めて驚愕を見せる。


レイナ「どけ!!」


叫びと共に二撃目を放ち、道化師を強引に後退させながら、レイナはすぐさまユイの元へと駆け出した。

その間も、ミイラはユイに爪を向けていたが、背後から迫る気配に気づいて振り返る。


ミイラ「グルゥッ!」


一拍遅れて振るったミイラの腕。だが、レイナの突進はそれを上回った。

鋭利な意志を宿したパイプが、レイナの腕の勢いそのままにミイラの胴を貫いた。ミイラの体が軋む音を立て、ふらつく。レイナはそのまま武器を手放し、パイプをミイラ体内に残す。

彼女は仁科とユイの前に立ちふさがり、二人を庇うように異形と対峙する。

その瞳には、恐れも迷いもなかった。

ミイラの身体に突き刺さったパイプ。その根元に手を添えたまま、レイナ達と対峙する。風が吹き抜ける屋上、その冷気よりも、背後の仁科の呼吸が浅くなっていく感覚に、レイナの心が焦る。


レイナ「まずい、思ったより出血が多い。止血しないと…。」


瞬時に思考が走る。この異常な世界において、ルールは物理だけではない。おそらく強い思念で世界が反応する。だからこそ、あの管理人が掲げた【五つの管理規約】が、この空間を動かす真の鍵だ。

ミイラは自らを貫く鉄パイプを引き抜き、地面に放り投げると同時に手先の爪を剥き出しにして戦闘体勢の構えをとる。

レイナは叫んだ。


レイナ「管理人!!クロスラインレジデンスの管理規定を適用して!負傷した仁科寛太さんの生命維持の為に、支援物資を今すぐ支給して!包帯をたくさん巻くから、ハサミじゃなくてナイフもあると助かる!」


一瞬、世界が静まり返ったように感じた。

そして、虚空から声が降ってくる。


管理人「第四条の事ですか。ここまで管理規約を逆手に使いこなすのは、あなたが初めてですよ、黒瀬さん。」


冷静かつ少し驚きを含んだ声だった。

次の瞬間、レイナの足元に救急箱がふわりと出現する。中には大量の包帯、消毒液、止血用のジェル、そして医療用の縫合キットが整然と収まっていた。

さらに、レイナの手元にすっと冷たい感触。小型のナイフが握らされる。

レイナは深く息を吐いた。


レイナ「助かるっ!」


すぐに救急箱を抱えながらも、手にしたナイフをぎゅっと握る。その目には、まだ終わらない戦いへの覚悟が宿っていた。


レイナ「ユイ、仁科さんに包帯を巻いて!意識を保てるように、ずっと声をかけてて!」


ユイ「うん、分かった!」


ユイが救急箱を受け取り、必死に仁科のそばへ駆け寄るのを確認し、レイナは再び立ち上がる。

ナイフを手に、怪異たちと相対するように一歩踏み出す。

屋上に漂う緊張は依然として重い。しかし、その中にレイナたちの希望と知恵そして覚悟が確かに燃えはじめていた。

ユイは落ちたミイラが投げ捨てたパイプを拾い上げた。重い。


ユイ「レイナちゃんは一体、これをどうやって振り回してたの。」


だが、そんな疑問に浸っている時間はなかった。何かを変えなきゃいけないという思い。それでも焦りと動揺が先行してしまう。

震える指先で鉄の冷たさを感じながら、ユイは自分に言い聞かせる。


ユイ(もう、守られてばかりじゃいられない。私だって、この場にいる意味があるはず!)


その時、身体を引きずるようにして一ノ瀬がユイの元にやってきた。


一ノ瀬「ユイちゃん、これ、何かに使えない?」と、手渡されたのは一ノ瀬がタバコに使用する為のターボライター。


ユイ「え、あっ!」


閃いた。ムチャクチャだし、成功する保証なんてない。


ユイ(でも、やらなきゃ。何もしないより、ずっとマシだ!)


ユイは急いで鉄のパイプに包帯を幾重にも巻きつけ、エタノール消毒液を豪快にぶちまける。

そして、震える親指でターボライターをカチリと点火。

包帯の先端に火が灯り、炎のパイプが生まれた。

パイプの先端は鋭く、万物が適応できない火を纏っている。


ユイ「お願い、ずっと燃えて!」


静かに立ち上がると同時に突進するように走り出す。そのまま、レイナと対峙するミイラの背後に辿り着く。自分よりも一メートル先にミイラの背部にパイプの先端が到達する。先程レイナが貫いた風穴にもう一度食い込ませるように突き刺す。それは怪異の体表を穿ち、エタノールと火が肌に移る。


ミイラ「キサマァ!! ナニシヤガッタ!!」


ミイラの一部が火に包まれた一瞬、ユイの心に小さな確信が芽生えていた。


ユイ(これでいい。これが、私にできる戦いだ!)


ミイラの体に徐々に火が回り、ドス黒い煙が立ちのぼる。

怒声とともにパイプを引き抜かれ、投げ捨てて床を転がる。ユイはその場に尻もちをつくが、手応えのある一撃を実感していま。

道化師は半身焦げたミイラには目もくれず、再びレイナへ手を伸ばす。

その瞬間。


管理人「ちょうど十五分経過です。皆様を、元居たエリアへ戻します。」


空間を震わせるような管理人の声が響いた。

全員の身体がふわりと浮き上がり、重力が反転するような感覚の中で、視界は一瞬にして白から黒へと反転していく。

そして、その意識の境界線で、再び管理人の声が聞こえた。


管理人「黒瀬様、思ったよりも柔軟な判断ができる方のようですね。風見様も意外と、踏ん張りが効く。」


皮肉のようでもあり、関心のようでもある曖昧な言葉だった。だが、それが彼の中立的な観察者としての立場を物語っているようでもあった。

次の瞬間、意識は闇に落ち、転送が完了した。

意識が戻ったとき、ユイとレイナは一階ロビーの中央に立っていた。

天井から吊るされた照明の白さが、まるで現実に無理やり引き戻されたような感覚をもたらす。

その空間には。

サラ……サラ……。

赤砂が落ちる微かな音が響いていた。ロビー奥に設置された管理砂時計が、まるで時間の本質そのものを削り落としていくように、静かに赤い粒をこぼし続けている。

加えて、壁に掛けられた古びた大時計の秒針がカチ、カチ、カチと一定のリズムで鳴っていた。

その二つの音だけが、まるで世界の残響のように、彼女たちの鼓膜を打っていた。

先ほどまでの屋上での戦いが、まるで幻だったかのような錯覚。

毒の臭気も消え、空気には何も残っていない。ただ、異様なまでの静けさだけがそこにあった。

そして管理人は、まるで最初からそこに居たかのように、彼女たちのすぐ傍に立っていた。


管理人「夜も更けてきておりますので、お部屋にお戻りお休みください。くれぐれも、境界線の外には出る事のないように。」


それだけを淡々と口にすると、彼の姿は再び霧のようにその場から消えた。

わずかな沈黙の後。


ユイ「私達、ちゃんと、生きてるんだよね?」


ユイの小さな声が、静けさを切り裂いた。


レイナ「うん。私達は、勝ったんだよ。夢なんかじゃない。ちゃんと……生き延びた。」


短く応えながら、自分の足で歩き出す。


レイナ「二階、ラウンジに戻ってみよう。」


二人は自然と駆け足になっていた。廊下を走る音が、ようやく日常に戻ってきたことを知らせるように響く。

そして二階ラウンジ。

そこには、壁にもたれかかるようにして座りこむ仁科と、床にしゃがんでタバコをふかしている一ノ瀬の姿があった。

仁科の腕には雑に包帯が巻かれ、顔色はまだ血の気がなかったが、その目は確かに覚めていた。


仁科「よぉ、嬢ちゃん達…散々な目にあっちまったな。」


少しだけ気を抜いた声で笑う。


一ノ瀬「心配したよ。まだ頭が追いつかないけど、あんた達が助けてくれたんだよね?」


タバコの煙をゆっくりと吐きながら、静かに微笑んだ。

ラウンジに戻ったレイナとユイを迎えたのは、ほんの少しだけ和らいだ空気だった。

まだ不穏さの残るレジデンス内だが、こうして誰かの無事を確かめ合える時間が、今は何よりの救いだった。

レイナは深く頭を下げる。


レイナ「こちらこそです。皆さんの協力あってこそ、戻ってくることができました。本当に、ありがとうございます。」


その言葉に、ユイもうなずいた。


ユイ「ほんとに……良かったよ。みんな無事でここに戻ってこれて……。」


ホッとしたように、ユイは隣にあった、椅子にどさりと座り込む。涙がこぼれそうになるのをこらえるように、唇を引き結んだ。

仁科が照れ隠しのように頭をかきながら言った。


一ノ瀬「あなた達は怪我とかない?」


レイナ「はい、深い怪我はありません、大丈夫です。ユイも?」


ユイ「うん、私もお陰様で無傷。あの仁科さん、助けてくれて、本当にありがとうございます。仁科さんが身体を張ってくれなかったら私あそこで確実に死んでました。」


レイナ「それは私からも言わせて下さい。本来、私がユイを守らなきゃいけなかったのに…。ありがとうございます。」 


二人は深々と仁科に頭を下げる。


仁科「いやいや、気にすんな!俺も夢中だったし、俺達は同じ仲間だろ?お互い様じゃねぇの!」


一ノ瀬も安堵したのか、平気な装いをしているものの目には涙が浮かんでいた。


仁科「ところで、レイナちゃんよ、あの時の剣捌きっていうか……なんだあれ? 達人かってくらいの速さだったぜ?」


一ノ瀬「あ、みたみた。しかもさ、棒っていうかあの鉄のヤツ、ちょっと光ってたよね? 魔法でも使ったのかと思ったよ。」


タバコを指先で弾きながら、少し興奮気味に付け加える。

レイナは少し困ったように笑い、ゆっくりと首を横に振った。


レイナ「正直、私もまだよく分かってないんです。ただ、強く願ったら、こうなってほしいって思ったら、何かが応えてくれるような気がして。だから、必死で考えるより先に身体が動いていて。」


話しながら、レイナ自身もその感覚を手探りでなぞっていた。

あの時、自分が手にしていたのはただの鉄パイプじゃなかった。

それは確かに、自分の意志を通す刃だった。


ユイ「超能力みたいなやつ、なのかな?」


ユイが首を傾げながらも、目を輝かせてレイナを見つめていた。


レイナ「うーん、ちょっと違うかも。でも、あれがまた使えるようになるなら、私は、また試してみたいと思ってる。」


レイナがそう言うと、ユイは勢いよく頷いた。 


ユイ「うんうん、すっごくカッコ良かったから! 私もレイナちゃんの剣使いに協力できることがあったら、いつでも言ってね!」


なぜか目をキラキラと輝かせながら握りこぶしを作るユイに、レイナは苦笑をこぼす。


レイナ「ありがとう、一度、どこかであの感覚を思い起こしてみるよ。」(この世界で生き抜くためにも、必ず……。)


レイナは口には出さず、ただ静かに、自分の中で誓いを立てた。

それから、彼女はエレベーターの爆発の件や、ロビーでの毒ガス、そして管理人の転送によって屋上へ飛ばされた経緯を仁科と一ノ瀬に説明した。

二人は最初こそ困惑した表情を浮かべていたが、次第にどこか思考を止めるような、諦めたような表情を浮かべる。


仁科「今日は色々ありすぎた。考えても始まらねぇよ。とりあえず、部屋戻って休もうぜ。」


そう言ってソファから立ち上がると、重く伸びをするように肩を回した。 


一ノ瀬「賛成…私もさっきまで気が張ってたけど、安心したら一気に疲れが……もう全身ボロボロだよ〜。」


タバコをもみ消しながら立ち上がり、目元を擦る。


レイナ「そうですね。今夜は……部屋に戻りましょう。」


レイナは短くそう返して、ユイとともにエレベーターへと向かった。

まるで、日常に戻ったかのような穏やかな時間。

だがレイナの胸の奥には、消えかけた光のような警戒が静かに残り続けていた。

それぞれが、静かに自室へと戻っていく。

エレベーターホールを通過し、エレベーターは依然として爆発の影響で使用不能のまま。廊下に差し込む薄明かりは、先ほどまでの屋上での死闘が現実だったことを静かに証明しているようだった。

ユイは自分の206号室の前で、レイナに振り返った。


ユイ「レイナちゃん、今日はありがとう。また明日ね!」


ユイが笑顔を見せながら手を振る。

その表情には、まだ少しだけ緊張が残っていたが、ようやくいつもの調子を取り戻しつつあることが見てとれた。


レイナ「うん、おやすみ、ユイ。」


レイナも小さく手を振り返す。

そして、自分の部屋203号室の玄関に手をかけようとした。

ふと、隣の201号室の扉が視界の端に入った。

その瞬間、レイナの手が止まる。

ゆっくりと視線を向け、ためらいながらも歩を進める。

静まり返った廊下の中で、彼女の足音だけがコツ、コツ、と響いた。

201号室の扉の前で立ち止まる。

誰もいないはずの廊下。だが、彼女はそこで小さく息を吸い、まっすぐに扉に向かって語りかけた。


レイナ「私は、あなたには負けない。私の大切な友人までも傷つけた、その事実を許すつもりもない。」


声は震えていなかった。ただ静かで、揺るぎない。

レイナ「それでも、あなたにも事情があるというのなら、話してほしい。それだけ。」


誰かに届くことを願っているようで、けれど誰にも期待していないような、そんな声音だった。

しばしの沈黙のあと、レイナは踵を返す。

その背中にはもう迷いはなかった。

そして再び203号室のドアへ向かい、無言のまま、扉の向こうへと戻っていった。

一方、201号室の内部。

神代陸は部屋の片隅に身を置き、両手で頭を抱えながら、込み上げる怒りと焦りを必死に押し殺していた。


神代「ちくしょう、ちくしょう、なんで全員無事でいやがる!」


声は震え、低くうなっている。

言葉を吐くたび、内側から煮え立つような感情が喉元まで込み上げてくる。


神代「少なくとも、二人は殺れると思っていた…。」


あの爆発、毒ガス。

どれも仕留める為に組んだ想定だった。それが、どれも不発に終わった。


神代「何故、失敗した?まさか誰かが覚醒したのか?」


思考が混線する。想定外の何かがあった。それは間違いない。

そしてあの女、203号室の黒瀬。


神代「奴が玄関に近づいた時、扉の向こうで話していた。まるで犯人が俺だと知ってるみたいに!」


拳を握りしめる。嫌な予感が心の奥で膨らむ。

神代「明日になれば、今度は俺が狙われるかもしれない。」


神代の視線が窓の外へと泳ぐ。静まり返った夜のフロア。

だがその静寂は、まるで嵐の前の凪のようでもあった。


神代「策を練らねぇと。一気に人間を一掃して、上階の奴らに示してやるつもりだったのに!」


奥歯を噛みしめながら、神代は壁を強く殴った。


神代「クソッ!!」


音が虚しく室内に反響した。

その怒りは、誰にも届かないはずの場所で、静かに燻り続けていた。

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