第3話 魔城クロスラインレジデンス

紫の光が、視界を覆った。

まるで落雷の一瞬に閉じ込められたかのように、私たちの世界は眩しさだけになった。

目を閉じたはずなのに、眩しい。足元がぐらりと揺れる。重力が消えて、音も消えて、自分の存在だけが空中に浮かんでいく。

怖い。

ユイは誰かの手を握っていた気がした。

それがレイナの手だったのか、確信はなかったけれど、あの温度だけが唯一の現実だった。気付けば、どこか知らない場所に立っている。

足元を踏みしめると、ざらりとした感触が靴底に伝わった。

アスファルトはひび割れ、ところどころ瓦礫や砂埃が積もっている。

何かが焼けたような、焦げた鉄のような匂いが、冷たい空気の中に漂っていた。

周囲は薄く靄がかかったようにぼやけ、どこからか低く風が唸る音だけが響いてくる。

人の気配はない。車の音も、街のざわめきも何もない。ただ、世界だけが、静かに、息を潜めていた。

そしてすぐ隣に、レイナもいた。


ユイ「え?ここって、どこ?」


声が出た。ちゃんと届いた。

でも、その答えは二人共、分からなかった。


レイナ「今、黒須荘の、はずだったんだけど。」


私たちは、203号室の扉を開けた。

でも、そこにあったのは部屋であり、部屋じゃなかった。

どこでもない場所、私たちが今いる名前もない異空間だった。そしてこの瞬間から、私たちは本当に知らない世界へと、踏み出していた。

息を呑むようにして周囲を見渡す。

そこは外だった。

見覚えのあるような住宅街。

けれど、すぐに違和感に気づく。

空は、不自然な赤紫。夕方でも、夜でも、朝焼けでもないそんな異様な色。

人影も、音もない。

静かすぎる街並みに、無意識に息を潜めた。


ユイ「ここどこ?さっきまでいた場所と違うのかな、私達がいた街と同じ?」


レイナ「違う。似てるけど、多分…。」


言いかけた玲那の声が止まる。

視線の先、すぐにそれを見つけた。

街並みの奥に、異形の塔がそびえ立っていた。

黒く、禍々しく、異様に高い。

まるで、この街に無理やり突き刺さった異物。

先端は空を引き裂くように鋭く、建物全体から不気味な光が滲んでいた。

私は言葉を失ったまま、黒い塔を見上げた。


ユイ「なに、あれ…。」


レイナはポツリと答えた。


レイナ「分からない、現実とは思えない。兄さんの残したメモと関係があるとでも言うの。」


二人は恐る恐るではあったが、その建物に吸い込まれるように近付いていく。その度、足元から、ゾワリと寒気が這い上がってくる。

どれだけ普通に見える街並みでも、空の色でも、あれが存在する限り、ここはもう、私達の知っている世界じゃない。


ユイ(これ、このまま本当に入るの?)


その時だった。


男性「いらっしゃいませ。」


背後から、静かな声。


ユイ「ひゃっ!?」


飛び跳ね、慌てて振り向く。

そこに立っていたのは、黒いスーツを着た、異様に整った顔立ちの男だった。年齢は三十代前半に見える。笑みを浮かべているが、その目元だけは全く笑っていない。


男性「クロスラインレジデンスへようこそ。新たな住人様ですね。」

柔らかな口調。しかし、どこか言葉の節々に含みがある。

レイナは身構えるようにユイの前に立った。

レイナが一歩前に出る。目を細め、低い声で問いかけた。


レイナ「ここはどこ?あなたは誰なの?私たちは、元の場所に戻れるの?」


その声には、わずかに焦りと怒りが滲んでいた。

しかし、男は穏やかに微笑むだけだった。


男性「ご心配なく。ここはあなた達が縁を持った場所です。わたくしは、ただ管理をしている者にすぎません。」


レイナ「答えになってない。」


レイナがさらに詰め寄る。しかし、男は涼しい顔で話を続けた。


男性「元の場所、ですか。」


彼はふっと視線を空へと向ける。そこに広がるのは、どこまでも不自然な赤紫の空。


男性「元も今も世界をどう認識するかは、あなた方次第でしょう。いずれにせよ、進むしかありません。戻る道など、最初から存在しないのですから。」


その言葉に、ユイは身体を強張らせた。

胸の奥に、じんわりと黒い不安が広がっていく。


ユイ(戻れない…?もう?)


目の前の巨大な塔は、そんな希望をすべて吸い込むように、ただ静かに佇んでいた。

レイナも、拳をぎゅっと握りしめた。

でも、もう引き返せない。

そんな空気が、ふたりを無言で飲み込んでいく。

男は、さも当然のように契約書を差し出してきた。


男性「ご安心下さい。わたくしはこのレジデンスの管理人です。お二人を正式にご案内する為にお迎えに上がりました。」


そう言うと、管理人の男は懐から一枚の封筒を取り出した。

その表紙には、筆記体で《Cross Line Residence 契約書》と記されている。


管理人「こちらにサインを。簡単なものです。但し、全て自己責任で。」


ユイ「自己責任……?」


レイナはわずかに眉をひそめながら、受け取った書類に目を通す。


【契約内容】

第一条:居住の権利

(各居住者は指定された居住空間に滞在・生活する権利を有する。他者の居室への立ち入りは、占有者の許可がある場合を除き、これを禁ずる。※赤砂時間中を除く。)


第二条:管理砂時計時間帯(赤砂時間)に関する制限。

(赤砂時間中は、居住空間からの外出および境界領域〈屋上・ベランダ・建物外周部等〉への接近を厳禁とする。違反者には即時的かつ強制的な処置が適用される。)


第三条:フロア間移動およびトラブルの自己責任原則

(他フロアへの移動および居住者間のトラブルは、全て自己責任とする。管理者はこれに一切関与せず、責任も負わない。)


第四条:最低限の生活支援

(居住者の生命維持が必要と判断された場合、最低限の支援物資または代替通貨が支給される。支給の可否および内容は管理者の裁定による。)


第五条:規約の不可改変性

(本規約は、いかなる手段によっても変更・破棄することはできない。管理者を含む全ての存在において、例外は認められない。)


・各規約の違反時は、退去ではなくそれ相応の処置を行う。


レイナ「なんなの、これ。」


レイナの声が、低く震えた。

ユイも隣で、青ざめた顔で小声を漏らす。


ユイ「え、普通のマンションじゃないよね、これ。」


管理人は静かに微笑むだけだった。


管理人「問題ありませんよ。ルールを守る限り、素晴らしい暮らしが待っています。」


ユイとレイナは、互いに顔を見合わせる。


ユイ「え?ここに住めって事なの?無理だよね?」


レイナ「うん、私達はあのアパートにたまたま踏み入れてしまっただけ。早く戻らなきゃ。」


管理人「それは叶いません。あなた方はもう、招かれてしまった。引き返した所で元の場所に戻る術などはありませんよ。」


二人は息を呑む。


レイナ「こんな意味不明な状況でハイ、ハイと案内を受けるわけが…。」


途中言葉が詰まる。レイナは兄の所在の手掛かりを掴みたいという強い思いが先行する。今、引き返す理由もないと思った。そもそも戻る術も分からない。レイナは渋々だが承諾に意思が傾く。


レイナ「いざとなったら、こんなサインに拘束力なんてないと言っておくわ。」


レイナが静かにボールペンを取り、名前を書いた。

ユイ「レイナちゃん!?」


その様子を見て、ユイもぎこちなく続き、額に汗が走る。


ユイ(え、レイナちゃん、これ本当に良いの?)


管理人は満足そうに頷くと、小さな銀色の鍵を取り出した。


管理人「あなた方のお部屋は203号室、206号室です。」


その手に擦る鍵には、古びた刻印で《203》《206》と彫られていた。


管理人「では、ご案内を致します。」


管理人は、にこやかに一礼したかと思うとクロスラインレジデンスの重たい扉を、ゆっくりと押し開けた。

二人は疑念を抱きながらも言われるがまま、管理人に着いて行くしかなかった。ユイはふと後ろを振り返る。やはり、現実にはない赤紫の空、誰もいない街と公道が続いているだけだった。

館内に入るとそこは異様な静けさに包まれたロビーだった。ロビー中央には大きな砂時計が設置されている。天井は高く、壁は黒曜石のような光沢を放ち、照明は青白い光を投げかけている。無機質な彫刻が無言で立ち尽くしている。空気は冷たく、どこか現実離れした感覚を覚える。

ユイは不安げに周囲を見渡しながら、レイナに囁く。


ユイ「なんか、ホテルのロビーみたいだけど、他に誰も居ないし、怖いね。それにあの砂時計…一体何の為に。」


レイナは無言で頷き、警戒心を露わにしている。

二人は案内されるままロビーを横断し、突き当たりを左に曲がるとエレベーターホールがみえた。

管理人がエレベーターの呼出ボタンを押す。

エレベーターの扉が開くと、内部は鏡張りで、無機質な金属の光が反射している。ボタンには数字の代わりに、奇妙な記号が刻まれている。管理人がその中の一つを押すと、エレベーターは静かに上昇を始める。


ユイ「このエレベーター、普通じゃないよね。ボタンの記号、なんだろう。」


レイナ「気をつけて。何が起こるか分からない。」


管理人は無言のまま、前方を見つめている。

エレベーターの扉が開くと、薄暗い廊下が続いている。壁には微かな光を放つラインが走り、足元を照らしている。空気は冷たく、静寂が支配している。

管理人が廊下を歩きながら口を開く。

やがて、管理人は三つ目の扉の前で立ち止まった。


管理人「こちらが、黒瀬レイナ様のお部屋、203号室でございます。」


扉には、彼女の名前が刻まれていた。


レイナ「どうして……私の名前が?」


管理人は答えず、そのまま突き進む。

続いて、管理人は別の扉の前で立ち止まる。


管理人「こちらが、風見ユイ様のお部屋、206号室でございます。」


ユイは戸惑いながらも、扉を見つめる。


ユイ「これが私の部屋?」


管理人は頷き、二人に鍵を手渡す。


管理人「それでは、良い時間をお過ごし下さいませ。」

そう言い残し、管理人は再びどこかへと姿を消してしまった。


ユイ「き、消えた!?」


レイナ「理解が追いつかない…。」


レイナとユイは、それぞれの扉の前で立ち尽くす。未知への不安と、様々な疑念が交錯する中、彼女達は恐る恐る、静かに扉のノブに手をかけた。

各部屋の中は一見普通の1DK、部屋の隅には綺麗なベッドが置かれていた。キッチンは対面式となっていて、冷蔵庫が設置されている。店にはコーヒーやお茶、水などが常備されている。そして、リビングの窓の外には相変わらず現実とは異なる街並みが広がっていた。

ユイは部屋の中を一通り見て回ると、すぐに203号室のレイナの部屋に向かった。

二人は周囲に誰もいないことを確認し、ユイは我慢していた感情を少しずつ吐き出す。


ユイ「レイナちゃん、私達って今さ、すっごくピンチな状況なんじゃ。意味が分からないよ。」


レイナ「私も正直混乱している。兄の足取りを追ってさっきのアパートに来た。アパートの扉を開けたら光が差し込んでこの世界にいて、この異様な建物に導かれた。それ以上のことは、まだ何も分からない。ユイはここまでの記憶に違いはない?」


ユイ「ないよ!やっぱり意味分かんない、本当にここはどこなの。」


レイナ「一回冷静になる必要があるね、難しいけど。」


部屋内には現実世界にあるような掛け時計が存在し、時刻は二十一時を回っていた。また、どういう訳か二人にはどっとした疲れが押し寄せていた。


ユイ「じゃあさ、一旦、ここに二人でいたほうがよくない!?だってさ、私の部屋もあるけど一人はちょっと怖いし!今夜だけでもさ、一緒にいたら。」


その時、管理人が音もなく現れる。


管理人「申し訳ありませんが夜間、部屋を跨いだ長時間の滞在は契約上、認められておりません。」


ユイ「ひっ!!ちょ、ちょっとぉ!?忍者ですか!?」


レイナも思わず振り返り、数歩を下がる。


管理人「この建物の構造は、個人の感情・記憶・属性”に応じて分離されています。住人の部屋は、それぞれの精神領域と直結しており、不適切な干渉は、境界の崩壊と精神的融合のリスクを伴います。」


ユイ「どゆこと…精神の融合って私たち、デジタルリンクしちゃうの!?」


管理人「それは最も避けなければならない事態です。」


レイナ「あなたの言う部屋はただの空間じゃないってこと?」


管理人「はい。あなた方には各自の部屋があり、そこに滞在することが、存在の維持と記録の前提条件です。ここでの生活に慣れていただく為、お二人はまず別々で行動をするように心掛けて下さい。それでは。」


管理人は煙のように静かに居なくなった。


ユイ「また消えた、てか嘘でしょ。レイナちゃんがいる203号室が落ち着くのに。」


レイナ「管理人の得体が知れない以上、逆らわない方が良い、かも。信じ難いけど、私達の身に異常事態が起きてるのだけは事実。ユイ、また明日になったらすぐ来て。昼間?なら大丈夫、でしょ。」


少し和らいだ声で言う。


ユイ「うん!ありがとう、レイナちゃん。」


ユイの表情は曇り、青ざめたままその言葉に従うことにした。重い足取りで、206号室へと向かう。


ユイ(やっぱり、いきなり一人は心細いって。)


そんなことを考えながら、廊下を歩いていると、不意に視界の端、ぼんやりとした窓の向こうに、小さな光を見つけた。


ユイ「ん?」


立ち止まって近づくと、それはまるでコンビニのような光景だった。

看板らしきものはぼやけていて読めないが、陳列棚の並びや、室内の白い蛍光灯の感じは、見慣れたコンビニそのものだ。


ユイ(え、待って、何でこんな異世界にコンビニ?)


小さな違和感と好奇心に突き動かされ、ユイは非常階段を下りて外に出る。

夜気は冷たく、街は紫に染まっているが、光るその店だけはぽつんと浮かんでいた。


ユイ「ちょっと覗くぐらいなら大丈夫だよね。」


ガチャリ。

ガラス戸を押してコンビニのような建物の中へ入るが、誰もいない。

棚には、見覚えのあるおにぎりや、カップ麺、飲み物がずらりと並んでいる。

けれど、よく見るとパッケージに描かれている文字は、ところどころ意味不明な記号や、崩れた文字に変わっていた。

ユイ「なんか…バグってない!?」


棚を見て、思わずユイは立ち止まった。 


ユイ(何これ、商品名ヤバくない?)


・【おいしいたぶんサンド】

→パッと見、普通のサンドイッチ。でもパッケージに【たぶん おそらく きっと!】と謎の保証が並んでいる。


・【飲めるかもしれない牛乳】

→牛乳パックに【もしかしたら飲めます】【体調にご注意を!】と小さな文字が書いてある。


・【カップ麺 味:ランダム】

→フタに味名が書かれていない。作るまでわからない仕様。しかも【当たりは超おいしい】とだけ小さく書いてある。


・【おにぎり 海苔:気分次第】

→海苔がついているもの、ついてないもの、ぐちゃっとしているものが混在。もはやガチャ。


・【エナジードリンク:気合増し増し】

→成分表示に【元気、無駄なテンション、意味不明なやる気】などが書かれている。


・【菓子パン:ドーナツ?アンパン?どっち?】

→包装は中が見えないブラックボックス仕様。外見は全部同じ。


ユイ「絶対まともに作る気ないでしょこれぇぇええ!!」


でも、ふとお腹が空いている事に気着く。

ユイ「よく分かんないけど買っちゃお。いけるかな。」

内心ガクブルしながら、【たぶんサンド】と【ランダムカップ麺】をカゴに入れる。

レジに向かうと、そこには機械だけが静かに置かれていた。

人影はどこにもない。

画面には『ピッとやってね』みたいな、妙にゆるい文字が浮かんでいる。


ユイ「セルフレジなの? え、これ、絶対、何かあるやつじゃん!」


震える指でリーダーに財布をかざすと、奇跡的に持っていたポイポイ電子決済アプリが認識され、機械がピロンと音を鳴らした。


ユイ「うっそ、異世界ポイポイ対応してるの!?」


軽く世界の謎を垣間見た気持ちになりつつ、袋を提げてコンビニを後にする。

空は朝か昼かも分からない紫色の空が先程と変わらず広がっていた。

そそくさとレジデンスに戻り、二階への階段を駆け上がる。部屋に戻る手前、ふと目に入ったのは、二階の共用部、ラウンジのような、くつろぎスペースがあることに気付く。

そこにはカウンターキッチンがあり、充実した調理器具が並ぶ。近くにはソファが並び、テーブルには雑誌や謎の本が無造作に置かれている。

ここだけは、どこか温かい空気が流れていた。


ユイ(こんな所があるんだ。少しだけ、座って食べようかな。)


そう思って袋を置こうとした、その時。


男「よう、そこの嬢ちゃん。新人さんか?」


声をかけてきたのは、がっしりした体格の中年の男だった。

彼はソファに腕を組んで座り、気さくな笑みを浮かべていた。その隣、脚を組んでふわっと微笑んでいたのは、赤髪に近い柔らかな色合いの髪を持つ女性だった。


男性「今日も迷える新人ちゃんが巻き込まれたなぁ。」 

女性「ここに来る人は大体、訳ありだからね。」


ユイ(誰?というか、コミュニケーション始まった!)


袋をぎゅっと抱きしめながら、ユイはびびりつつ、けれど少し安心したように二人に向かって小さく頭を下げた。

テーブルには空いた酒缶がいくつも転がっている。


ユイ「あ、あれ、絶対酔ってる。」


男性「新入りちゃん!遠慮すんなよ、こっち来い。」


女性「そーそー、歓迎会だって!ほらほら、乾杯!」


ユイ(いきなり過ぎて良く分からない!)


勢いよく差し出されたグラスには、きらきらと琥珀色の液体が波打っている。


ユイ「え、いや、あの、わたし未成年なので…。」


男性「まじか~!ピッチピチかよ!」


女性「それ超かわいいな~!よし、うちらもジュースで乾杯しよっか!」


といいつつ、二人はしれっと酒を煽る。


ユイ(絶対アルコール飲んでる!)


男性「挨拶が遅れたな。俺は仁科〈にしな〉カンタ。元サラリーマンだ。まあ、色々あってここに流れ着いてたってわけだ。」


低い声で笑うその男は、どこか達観したような目をしていた。

女性「アタシは一ノ瀬〈いちのせ〉アカネ!借金まみれの、人生どん詰まりおねーさんだよ〜。」


赤髪をかき上げながら、屈託なく笑う女性。空気が一瞬で明るくなるようなタイプだ。

ユイ「そ、そうなんですか…。(キャラ濃い。)」


ユイは引きつった笑顔を浮かべつつ、慌てて自己紹介を返す。

ユイ「あの、えっと、私は風見ユイです。よろしくお願いします。」


一ノ瀬「ユイちゃんね、よろしく〜。未成年って言うけど、歳いくつ?」


ユイ「え、あ、十八です。」


一ノ瀬「若っ!ここまで若い子、初めてじゃない?」


仁科「だな、ここに来るのは大体、社会に疲れ切った大人ばっかだったからな。」


ユイ(他にも住人がいるんだ、少し安心したかも。)


一ノ瀬「アタシら、もうかれこれ三年くらいになるんだよね。」


ユイ「三年!?」


仁科「俺は一ノ瀬よりちょっと先だから、三年半か? もうそのへん曖昧になってきたけどな。」


ユイ「ここに住んでる人達は、皆そんなに長く?」


少しの沈黙。

仁科が視線をテーブルに落としたまま、ぽつりと答える。

仁科「まぁ、人によるけど。去年までは。」


一ノ瀬「ちょっと!」


一ノ瀬が仁科の言葉を制する。


仁科「あ、あぁ。悪い、いきなり言う話じゃなかったな。」


ユイ(え、何?絶対、なんかあるやつだ。)


一ノ瀬「この場所、ちょっとワケあり物件でね。良いことばかりじゃないの。ま、アタシらと仲良くなったら、いずれ話すよ。」


一ノ瀬はそう言って、気まずさを笑いでごまかすように肩をすくめた。


ユイ「は、はい……。あの、すみません。ここで少し、買ってきたご飯食べてもいいですか? お腹空きすぎて、もうヘロヘロで。」


一ノ瀬「ありゃ!ごめんね〜、アタシらすぐ自分の話ばっかしちゃうから!」


ユイ「い、いえ!全然気にしないでください!」


仁科「懐かしいなぁ。俺もここ来た時、なぜか腹が減って仕方なくてな。必死に飯探し回ったっけ。」


一ノ瀬「パニくって管理人さんに泣きついたんだもんねー?目の前にコンビニあるのに!」


仁科「うるせぇ、あの時は状況が分かんなかったんだよ!勝手にこんな所に飛ばした誰かさんが悪い!」


ユイはその会話を横目で見ながらお茶を一気飲みした。


一ノ瀬「良い飲みっぷり!ジュースもどうぞ。」


グラスに入ったオレンジジュースらしきものを差し出す。

ユイ「ありがとうございます、いただきます。あの、もう一人友達と来てて。その子も次紹介しても良いですか?」


一ノ瀬「え、もう一人いんの?何だぁ、早く言ってよー!」


仁科「ここも、今より賑やかになると良いな。」


仁科はそう言いながら、ふと窓の外へ視線をやった。

その横顔には、どこか懐かしさと、少しの寂しさが混ざっていた。

ユイはそれぞれが何かしらの事情があってこの二人もここに居る。そんな気がした。


その頃、203号室。

レイナは、静かにベランダへ出ていた。

冷たい空気が肌を撫でる。紫がかった空に、いくつかの星が瞬いている。

隣から、ふと人の気配がした。

視線を向けると、202号室のベランダに、一人の女性が立っていた。白いパーカーを羽織り、髪を結い上げた無表情な女性。


レイナ「こんばんは。」


一瞬、女性の肩がビクッと跳ねた。

こちらを向いたその目には、強い警戒心が宿っていた。


女性「あなた、今日来た人よね。声、かけないでくれる?」


レイナ「何か知ってるなら、教えてくれませんか。ここがどういう場所なのか。」


女性は浅いため息を吐きながらも口を開く。


女性「知らない方がいい事もあるわ。少なくとも、上に行く階段を登った人は、戻って来なかった。」


言い終わると、女性は無言で部屋に戻り、カーテンを閉めた。

目の前から、気配ごと消えるように。

レイナは黙って、空を仰いだ。

異様な紫の空に、小さく眉を寄せる。

レイナは居ても立っても居られず、尚も気になり、マンションのロビーまで足を運ぶことにした。

階段を静かに降りる自分の足音は反響し、見えない誰かに常に監視されているような感覚。

ロビーは、先程とは違う不気味なほどの静けさを纏っていた。

その時。

スッと、音もなく管理人が現れる。


管理人「夜の散歩ですか。若い女性が不用心ですよ。」


レイナ「あなたに聞きたい。いい加減、ここはどこ?私達は帰れるの?」


管理人は表情一つ変えず、静かに答える。


管理人「この建物は、さまざまな縁を持った者が集う場所です。あなた方が居た世界とは異なる次元に存在しています。」


レイナ「異なる次元?そんな話、信じろっていうの?」

管理人「信じるかどうかではありません。今ここにいるという事実だけが全てです。」


更に問いかけようとしたレイナを、管理人はやんわりと制した。


管理人「そのうち、あなた自身が理解するでしょう。今はまだ、時期ではありません。」


そして、次の瞬間には、まるで霧が晴れるようにその姿を消していた。


レイナ「また、消えた。」


ふと、ロビーの階段から足音がする。

先程の202号室から顔を覗かせていた白いパーカーの女性だった。

ハンドバッグを持ちながらそそくさと外へ向かおうとしている。


レイナ「待って!」


即座に声を掛ける。

白いパーカーの女性は、しばらく無言で立ち止まったあと、静かに踵を返す。

そしてロビーの隅にある古びたベンチに、音も立てず腰を下ろした。

レイナも迷いながら距離を測り、彼女から一歩分離れた位置に座る。


女性「また会ってしまったわね。」


女性は小さく溜息をつきながら視線を下へと向ける。


レイナ「はい…すみません。いても立ってもいられなくて。」

女性「ここはね…生きてるのか死んでるのかも、よく分からない世界よ。」


低いけれど、かすれた声。

吐き出すような、掠れた独白。


レイナ「どうか、知ってる事を教えてくれませんか、あの管理人は何も答えてくれなくて。あなたはどうやってこの世界に来たのですか?」


女性「私はね、目が覚めたら、この世界に居たの。周りは現実とそっくりなのに。あなたも見たでしょう?赤紫がかった、不気味な空とこの不気味な建物の外観。」


レイナ「はい、今だに信じられません。あなたは、現実世界での記憶はありますか?」


女性「あるわよ。でもこっちで過ごすうちに、少しずつぼやけてきた気がする。何を失ったのか、どうしてここに居るのか、理由があったように気もしたけど深くは思い出せなくて、モヤモヤとした気持ちがずっと居座ってる。」


レイナ「私は、ここに来た理由があります、兄を探してたんです。」


女性は少しだけ顔を上げ、レイナを見る。

レイナ「兄が残したメモを辿って、とあるアパートの203号室に入った。そしたら、ここに飛ばされたんです。」


女性「それ、誘導だったのかもね。」


少し間が空く。


女性「一応名前、訊いてもいい?」


レイナはほんのわずかに驚いてから、頷く。 


レイナ「黒瀬レイナです。あなたは?」


女性は小さく微笑みかけるが、すぐに表情を伏せる。

女性「白石〈しらいし〉サラよ。」


小さな、だけど確かに交わされた名乗りだった。 


レイナ「よろしくお願いします、白石さん。」


白石「無理しないで。ここでよろしくなんて、意味ないかもしれないから。最初に言っておくけど、このマンション、上に行く毎に普通じゃない住人がいるの。人間ではない、何か。」


レイナ「人間ではない?」


白石「平たく言うと化け物よ。彼らは人間を怖がってるのか、憎んでるのか分からない。でも共通してるのは、化け物共すらも、自分達のいるフロアよりも上階に行く事を恐れている。」


レイナ「上階ですか?」


声をひそめ、震えを含ませながら白石は言葉は続ける。


白石「それとね、私達人間の部屋は二階でしょ?人間で三階に行った人達は誰も、戻ってこなかったわ。」


ロビーにまた、冷たい沈黙が降りた。

レイナはそっと兄の姿を思い浮かべる。


レイナ(兄さんも、この階段を。)


白石は立ち上がる。


白石「忠告はした、後悔しないように行動することね。」


そう呟くと、白いパーカーの女性、白石サラはゆっくり背を向け、無言でロビーを後にして外に出てしまった。

レイナはその背中を見送り、静かに立ち上がる。

急な疲労感、眠気が襲う。

レイナは自分の部屋に戻る事にした。


一方、二階ラウンジは賑やかさが生まれていた。

ユイはジュースの入ったグラスを片手に、仁科と一ノ瀬のテーブルで談笑していた。

テーブルの上には缶ビールと、どこか見慣れないラベルの瓶。


ユイ「ぷはぁ〜、なんかジュースしか飲んでないのにふわふわするぅ!」


何故が顔が赤らんでいるような気すらもしていた。


仁科「はは、雰囲気酔いってやつかもな。まあ、気楽にいこうぜ。」


一ノ瀬はグラスを軽く揺らしながら話す。


一ノ瀬「この世界、あんたみたいな子が来るには向いてないわよ〜。でも、まあここにいるってことは、何かしら事情があるんでしょ。」


ユイは頬を押さえながら、ややふにゃっと笑いながら答える。

ユイ「いや〜、さっき話したお友達の人探しでアパートに来ただけなんですけど、気づいたら異世界でした!」


仁科「友達の付き添いで異世界とか、なかなかパンチ効いてるな。」


一ノ瀬はちびちび飲みながら質問する。


一ノ瀬「それで、ユイちゃん部屋、何号室?」


ユイ「えっと、206です!」


仁科「このフロアの仲間として気張って行こうぜ。」


ユイ「このフロア、って?」


首を傾げる。

仁科「ここ、クロスラインレジデンスって呼ばれてる建物だけどな。言っちまうと人間が住んでるのは二階だけだ。」


一ノ瀬「一階は無人。三階以上は何かが居る。でも、人間じゃない。私達も、それ以上は詳しく知らない。」


ユイ「え、怖っ…じゃあ、三階は行かない方が良いってことですか?」


仁科「絶対に行くな。」


真顔で言い切る。


一ノ瀬「冗談抜きで、ね。三階以上は生きて帰れる保証、ないから。」


ラウンジの空気が一瞬だけ、重く沈む。 


ユイ「うわぁ、なんか急にホラーゲーム感…!」


慌てて話題を変えようとする。


ユイ「あと、他の住人さんってどんな人達なんですか?」


仁科「ああ、201号室には神代っていう元大学生が住んでる。まあ、暗い。」


一ノ瀬「202号室の白石も、根暗。まともに話したことないわ。なんか、辛気くさいオーラ出してるし。」


仁科「別に無理して仲良くしなくていいぞ。俺達だけで十分やってけるしな。」


二人はどこか、無理に明るさを装っていた。

ユイ「そっかぁ、なんか、ここ見た目通りというか色々普通じゃないんですね。」


ジュースをちびちび飲みながら答える。

一ノ瀬「普通だったら、きっとこんな所に連れて来られないでしょ?」


仁科「まあ、そうだな。」


ユイは、ふっと視線を落とす。

胸の奥に、微かな不安が広がっていく。


ユイ(でも、レイナちゃんもいる。頑張らなきゃ…。)


そっと手に力を込める。

同時に疲れのせいかどっと身体が重くなる。

ユイはポケットに入れてある206号室の鍵を確認し、ゆっくりと腰を持ち上げた。


一ノ瀬「あら?もう帰っちゃうのー?」


仁科「初日だからな、慣れには時間が必要か。」


ユイ「すみません、急に眠気と疲れがきてしまって…。部屋に戻って一度休みたいと思います。」


仁科と一ノ瀬へ軽く挨拶をしてその場を後にする。

自部屋の206号室に入室する。思考よりも先に身体をベッドに埋めていた。

間も無くして重い瞼を閉じた。


どこからか、かすかな鳥のさえずりが聞こえていた。

けれどその音も、どこか人工的で本物の朝とは、何かが違う気がした。

ユイは布団の中でごそごそと体を起こす。

まだ頭がぼんやりとしたまま、窓の方へと目をやった。


ユイ「おはよー…んん?」


カーテンを開ける。差し込んだ光は、朝の白でも昼の青でもない。

空は、昨日と同じどこか毒々しく、幻想的な赤紫色だった。


ユイ「うわっ、朝っていうより、夕方じゃない?え、時間バグってない??」


慌てて枕元のスマホを手に取る。

表示された時間は二十三時四十八分。


ユイ「えっ、何それ!?寝たの、多分、夜の二十二時過ぎとかだよ!? 体感、八時間は寝たよ? しかも夢なしでぐっすり!」


額に手を当て、目をしばたたかせる。


ユイ「まって、時差?時空歪んでる?うわ〜これは体内時計バグるやつ〜!」


一気に目が覚めてきた。

ジャケットを羽織って、スリッパのまま廊下に出る。

足音だけが静かなマンションの廊下に反響する。

ユイ「とりあえず、レイナちゃんとこ行こ……。」

数歩歩いて、203号室の前で立ち、扉をノックをする。

トントンッ。

少し間をおいて、扉が静かに開く。


レイナ「ユイ?」


ユイ「おはよう……って言っていいのか、わかんないけど!」


ホッとしたような表情を浮かべ答える。

レイナは昨日と変わらぬポーカーフェイスだが、目の下には少し疲れの色が見えた。


レイナ「空の色、変わらないね。時間も進みやっぱりもおかしい。」


ユイ「やっぱり、レイナちゃんも気づいてた?ていうか、寝た?」


レイナ「少し。でも、夢は見なかった。代わりに、ずっと耳の奥が静かすぎて、逆にうるさいぐらいだった。」


ユイ「うわ〜わかるそれ。音がなさすぎて逆に響くやつ!」


レイナ「朝なのか、夜なのかも分からない世界。普通の感覚じゃ、すぐに壊れそう。」


ユイ「うん、二人で今は順応していこう…?」


苦笑いを浮かべながら無理して答える。

レイナは窓に目をやる。

紫の空が、そこにずっと変わらずそこにある。 


レイナ「そうだね、少し外に出てみようか。」


二人は気分転換の為、外へ出ることにした。

レジデンスの外は、少し肌寒く、淡く赤紫がかった空が広がるものの街並みは一見、現実の都市とよく似ている。でも、それはよくできた模倣品のような不気味さを孕んでいた。


ユイ「うーん、なんか、昨日とまったく同じ空だよね。太陽もどこ?」


レイナ「やっぱり、時間の流れが違う。時計は現実よりもゆっくり進んでるけど、空も風も匂いも、ずっと変わらない。」


ユイ「うわぁ~、もう体内時計バグるバグる。毎日がずっと夕方とか、メンタル死ぬんだけど。」


ふと、レイナの歩く足取りが乱れる。

片膝がカクンと折れそうになり、ユイが慌てて支えた。

ユイ「えっ、ちょ、レイナちゃん!大丈夫!?」  


レイナ「ごめん、ちょっと力が…。」


ユイ「顔、真っ青じゃん!もしかしてさ。」


レイナ「昨日のマスドから、何も飲んでも食べてもない。」


ユイ「えぇぇーっ! 何してんの!?それはもう非常事態だよレイナちゃんっ!」


驚きとともに、ユイは強引にレイナの手を引っ張る。

ユイ「もう、ダメ!今すぐごはん行こう!拒否権はないよ!」


レイナ「ちょ、ちょっと待って!引っ張らないで…!」 

ユイ「だめ、お姉さん、栄養足りてないと口きかせないんだからっ!」


そう言って路地を曲がると、やがて建物の隙間にぽつんと明かりが灯った飲食店が見えた。

看板の文字は歪んでいて読めないが、見た目は明らかにファミレスのような造り。 


ユイ「よし、発見!この世界にもファミレス的なやつあったー!」


自動ドアが無音で開くと、店内には客の姿はどこにもなかった。

店内に入った途端に角のソファ席を見つけて、急いで腰をかける。

静まり返った空間に、カツ……カツ……と一定のリズムで足音が響いてきた。

近づいてきたのは、無機質なマネキンのような人形。

ぎこちない笑顔のような表情が固定されている。 


ユイ「え?うそ。何あれ?店員?」


マネキンロボット「イラッシャイマセ。ゴチュウモンドウゾ。」


ユイ「こわっ!ホラーだよっ!?センスを疑うよ、もう!いや、私だったらもっとこう、ふわっとしたゆるキャラに、って私、誰に文句言ってんだろう。」


その横で、レイナは席に倒れ込むように座り、テーブルに手を突いてぐったりしている。


ユイ「まずはメニューだね…。」


壁際のパネルに表示された料理は、見た目は

それっぽいけれど、文字がぐにゃぐにゃで読めない。


ユイ「読めない。フォント崩壊してるって。」


レイナ「これ…。」


写真を指差す。


ユイ「レイナちゃんは和風たらこ風かな?私はこれにしよー。」


ハンバーグらしきものを指差す。

注文は画面をタップするだけで完了。

料理と水の入ったコップは、数分後、まるでワープしたかのようにテーブルに現れた。


ユイ「うぉっ、出てくるの早っ!」


レイナはまず水を一気に飲み干し、パスタを前に、目を輝かせたかと思うと一瞬で食べ始めた。

まるで食べるという行為に飢えていたように、夢中でフォークを動かしていく。


ユイ「ちょ、レイナちゃん食べるの速い!全身にパスタ吸収してる!?」


レイナ「ごめん、止まらない……。」


ユイは自分のハンバーグを食べながら、ちょっとだけ安心したように息を吐いた。


ユイ「異世界だと私が健康管理しなきゃね。」


レイナ「昨日は、この世界のことが分からないまま、軽はずみに口にするのが怖かったの。正直まだ、少し怖いけど。」


ユイ「じゃあさ、二人で少しずつ試していこう。私が先に毒味してあげるから。」


にこりと笑いながら答える。


レイナ「それ、逆に心配だけどね。」

少し笑みを浮かべる。


ユイ「ひどーい!今めっちゃ真剣だったのに!」


二人の笑い声が、ひっそりとしたファミレスの空間に、少しだけ温かく響いた。

そんな会話のなか、

カツン、カツン、と。

店内の奥、影になったテーブルの向こうから、誰かがこちらへ歩いてくる音がした。


ユイ「ん? 誰か来る?」


レイナもフォークを止め、そっと顔を上げる。

音の主は、こちらのテーブルに向かって、まっすぐに歩いてきていた。

肌の色は異様なほどに白く、笑っているようで笑っていない、不気味な顔。

黒髪はやや乱れ、無精髭が伸びている。服は清潔だが、その目だけが異様に乾いていた。

男は立ち止まると、テーブルの端に両手をついてこちらを見下ろした。


男性「あんた達、レジデンス二階に新しく来た住人だよね?」


ユイとレイナは一瞬視線を交わし、警戒をにじませる。


レイナ「そう、ですけど、あなたは?」


男は数秒間、ぴくぴくと肩を揺らした後、唐突に吹き出した。


神代「ひひ……ひはは……ははははっ!」


けれどその笑いには、喜びも、愉快さもなかった。

まるで壊れかけた機械のような、不安定な響き。


男性「いやいや、失礼しました。僕もそこに住んでるんですよ。201号室の神代かみしろリク、末永く、よろしくお願いしますねぇ。」


レイナは、神代の手の甲に薄く浮かぶ光の輪郭に気づいたが、それが何かは分からなかった。

ただ、直感だけが告げていた。この男は、まともじゃない。

神代は挨拶を終えると、口元だけで笑いながらすっと踵を返し、また奥の席へと戻っていった。

その背中に、異様な静けさが残る。


ユイ「何で笑ったの?怖いてあの人。なんかこうちょっと、影が濃すぎるっていうか。」


レイナ「あれが人間なら、だけどね。」


二人の食欲は、ほんの少しだけ失われていた。


クロスライン某居室にて。

部屋の灯りは暗く、カーテンは隙間なく閉じられている。

机の上には工具と金属片、小さな回路、密封された液体のボトル。それらを前に、暗闇の中、無言で手を動かしていた。

手袋の上から、わずかに汗が滲んでいる。だが、手の震えはない。

ネジを回す。導線を繋ぐ。細かい部品を、まるでそれが芸術作品であるかのように丁寧に仕上げていく。

仕上げた装置は、手のひらに収まるほどの小さな筐体。だが内部には、極めて微細な圧力感知装置と圧縮性の薬剤が組み込まれていた。

自作の起爆装置には、その者の思念が込められている。

静かに、確実に、対象を排除するための純度の高い憎しみ。

それは光に照らされると、うっすらと輪郭が浮かぶような、紫がかった重さをまとっていた。

その装置を、小さな布に包み、無造作に鞄の奥に滑り込ませた。

何も語らない。顔の感情も変わらない。ただ、机の上の空になったボトルを片手で払い落とす。

カシャッ。

乾いた音が室内に響いた後、その者は鞄を肩にかけ、無言で部屋を出る。

すぐにエレベーターには乗らず、階段を選んだ。音を立てずに、誰にも気づかれぬように。

足音すらも仕掛けの一部に思えるほど、その存在は淡く、冷たい。

カメラが引いていくように、その姿は暗い廊下の奥に消えていった。


クロスラインレジデンス二階ラウンジ。

ユイとレイナは食事を終えて、クロスラインレジデンスに戻ってきた。誰もいない二階ラウンジのソファで少しくつろぐ。

ここで二人はお互いの昨夜の住人達との出会いを伝え合った。


レイナ「そうだったの、二人の住人がここにも居たのね。」


ユイ「うん、凄く良い人達だったよ!ただお酒を沢山飲む人達だったから私は途中離脱しちゃったけどね。レイナちゃんの会った住人さんはどんな人だったの?」


レイナ「あまり人とは積極的に関わりたくないって感じだったかな。色々聞いてみようと思ったんだけど重要なところをはぐらかされてるって感じで。ただ、このレジデンスには人間以外の存在もいるって、だから三階以上には絶対に進まない方が良いと聞いたんだけど。」 


ユイ「あ、それ私も聞いた。すっごく危険って話。」


二人はお互いの目に映る不安を隠しきれなかった。


レイナ「ここは知らない事が多すぎる。急にこんな世界にテレポートされてる自体が今でも信じられない。ここが兄さんと関係しているのか分からないけど、ユイをここに連れてきてしまった以上、絶対元の世界に戻れるように考えるから。」


ユイ「レイナちゃん、私は大丈夫だよ。頭は良くないけど、色々注意もしてるし、全然諦めてなんてないから。」 


慣れないウインクを挟んだ。

暫くして結論も出ない雑談時間が流れる。


ユイ「よ〜し!今日の夜?くらいはちゃんとしたごはん作るぞ〜!」


ラウンジのソファから勢いよく立ち上がったユイは、レイナに振り向く。

ユイ「レイナちゃん、今夜は私が腕ふるうから!」


レイナ「何かあったの?またご飯?」


ユイ「いや、こう色々あったし、元気出したくて。たまには誰かの為にってのもいいかなって!」


不安な気を紛らわす方法が料理しか思い浮かばなかった。


ユイ「レイナちゃんはここで休んでて!昨日のコンビニみたいな所ですぐ何か作れる食材買ってくるから!」


レイナは少し驚いたようにユイを見るが、ふっと口角をゆるめてうなずいた。


レイナ「いや、私も行くよ。」


二人は建物を出て歩き出すと、あの異世界特有の赤紫の空がじんわりと広がっている。

アスファルトの道路、街灯、住宅の並び、確かに見慣れた日本の風景。

でも、人影はどこにもない。


ユイ「夜じゃないのに、こんなに静かってさすがに落ち着かないよ。」


レイナ「静かすぎる。音が消えてるみたい。」


しばらく歩いて、昨日も訪れた例の無人コンビニが見えてくる。

ガラス越しの店内には、整然と商品が並び、奥に立つ無機質なロボットが一体。まったく動かないのに、なぜかこちらを見ているような感覚。


ユイ「見た目はやっぱ怖いなあ。でも、便利さには勝てない!」


レイナ「あれ、ずっと動かないのに、なぜか目が合うような気がする。」


ドアが自動で開く。中に入ったユイはカゴを持ち、店内をぐるぐる回る。


ユイ「えーと、野菜炒めセット、スープの素、あと白ごはんは炊くとして〜。」


レイナ「なんでこんな世界に、現実そっくりの食材が揃ってるの。逆に不自然。」


異世界なのに、ほぼ現実と同じ商品ラインナップにツッコミを入れながらも手際よく買い物。

レジ前へ。無人のセルフレジ台に商品をかざす。

ピピッ、ピピッ。

支払い画面が表示されると、ユイがポケットからポイポイを取り出す。

かざすと、軽やかな効果音とともに【支払い完了】の表示。


ユイ「やっぱりほんとに使えるんだ、ポイポイ。マジで誰がこの世界のインフラ整えたの?」


レイナ「もしかして誰かが意図的に、現実を模倣して作ってる?」


小さくつぶやきながらレジ袋を手に店を後にする。店を出ると、店内の光が背中を追いかけてくるような、不思議な感覚に思わず肩をすくめる。


ユイ「うぅ、この世界、怖いような便利なような複雑すぎる!」


レイナ「便利さの裏にある違和感をちゃんと見ておくべきかもね。」


ユイが手提げ袋を両手で抱えながら、ふわっとした足取りでラウンジに入ってくる。


ユイ「よっし、ここが今夜のキッチンスタジアムであります!」


レイナ「やけに気合い入ってるね。」


ユイ「そりゃそうでしょ!せっかくレイナちゃんと一緒に居るんだもん、ちゃんとしたもの振る舞わないと!」


くるっと振り返り答える。

二人は簡素なキッチン付きテーブルに荷物を置き、手早く準備に取りかかる.


ユイ「レイナちゃん、野菜切ってくれる?私はスープとご飯系いくから!」


レイナ「了解。包丁とまな板、あった。」


レイナが手際よく野菜を刻みながら、ふと手が止まる。

レイナ「なんか、変…。」


ユイ「えっ?味付けの話?うち、目分量しか信用してないからなぁ。」


レイナ「いや、違う、空気がさっきと違う気がする。微かだけど何かの痕がある。」


ユイは一瞬だけ驚いたように目を丸くするが、すぐににこっと笑って答える。


ユイ「気のせいじゃない?でも、レイナちゃんが感じるなら、うーん、やっぱ武道の勘とか?レイナちゃん剣道やってたもんね。」


レイナ「何て説明したら良いか分からないんだけど…こんな感覚初めてで。でも一応、警戒しておいて。」


そこへ、ラウンジの扉がゆっくり開く。

仁科と一ノ瀬が、笑いながら入ってくる。手には酒の瓶とつまみの袋。


仁科「おっ、今日はにぎやかだな。夕飯会か?」


ユイ「あ、仁科さん、一ノ瀬さん!こんにちわ!」 


ユイがレイナのそばに回り込んで紹介モードに入る。


ユイ「こちら、昨日一緒に来た黒瀬レイナちゃん。私の命の恩人っていうか、クールな相棒っていうか!」


レイナ「よろしくお願いします。黒瀬レイナです。」


少し表情が強張る。


仁科「あぁ、噂のもう一人の新入りちゃんだな。俺は仁科カンタ。元サラリーマンだけど、今は飲み担当ってことで。」


一ノ瀬「私は一ノ瀬アカネ。ここの、まあ宴会部長ってとこかしら。」


ユイ「で、このお二人、面白くて、すぐ酔っ払いがち!」


一ノ瀬「もう、すぐ酔っ払いがちって何よ~。ま、気楽によろしくしてね。同じ辺境に辿り着いた仲。変に気ぃ張らなくて大丈夫だから。」


レイナ「はい、ありがとうございます。」


そんなやり取りの最中、一ノ瀬は二人がキッチンスペースでの調理に気が付く。 


一ノ瀬「あらぁ、女子が並んで料理してるとか、眼福じゃん。なんか手伝おっか?」


ユイ「あ、仁科さん、一ノ瀬さん!ちょうどご飯できるところだったんです!良かったら一緒にどうですか?」


仁科「もちろん!酒はちゃんと持ってきたぞ。ユイちゃんは適応が早いなぁ。」 


一ノ瀬「私は肉担当ね〜。で、なんでレイナちゃんそんなに真剣な顔してんの?」


レイナ「ユイ、まだ分からないけど。でも、さっきの違和感は消えてない。」


ふと周囲に目を配る。


ユイ「そ、そうなの…?でも、もうすぐ食べれるよ!」

そのとき、レイナの視線がある一点に吸い寄せられる。

レイナ「ソファ形が、少しだけ歪んでる?」


一ノ瀬「よーし、座るか〜。早速、酒一本いっちゃう?」 


一ノ瀬が何気なくソファへ腰を下ろそうとする。


レイナ「待って!」


ピンと張り詰めた声で叫ぶ。


全員が振り返り、レイナは一ノ瀬に駆け寄る。


レイナ「そこに座らないで!」


次の瞬間、レイナは半ば飛びかかるように一ノ瀬を押しのけ、ソファの横へ転がる。


一ノ瀬「ちょっ、何っ!」


ドンッッ!!!!!

轟音と共に、ソファの座面から炎と衝撃が弾けた。

爆発による風圧が部屋中を駆け抜け、テーブルごと料理が吹き飛ぶ。

ラウンジの照明が一瞬明滅し、カーテンが大きく舞う。ラウンジの中央、ソファが大きく跳ね上がり、黒煙とガラステーブルの破片が飛び散った。

ユイ、レイナ、仁科、一ノ瀬、全員が思わず身体を仰け反らせ、数歩分後方に流される。風圧に押されて、仁科とユイはよろめきながら後ろへ転がる。 


一ノ瀬「ああっ!」


一ノ瀬が短く叫んで床に倒れこむ。彼女の脇腹には破片が当たり、ジャケットが裂けていた。さらに、爆風で燃え上がったソファの布地が彼女の左腕に引火していた。


ユイ「火が! やばいって!!」


ユイが素早く駆け寄る。自分の上着を脱ぎ、炎に覆いかぶせて叩き消す。仁科もすぐに反応し、隅にあったブランケットを取り、二人で炎を押さえ込んだ。炎はじわじわと黒煙に変わり、焦げ臭さが空間を満たしていく。


仁科「大丈夫かっ!」


一ノ瀬が痛みに顔をしかめながら、腕を抑えている。ジャケットの下のシャツが焦げ、左腕の皮膚が赤く腫れていた。


ユイ「火傷してる!」


ユイは手早く水のペットボトルを持ってきて、冷やしながらタオルを探す。レイナもすぐに駆け寄り、近くの薬箱から包帯を取り出す。


ユイ「ごめん、一ノ瀬さん、少し我慢して。」


ユイが優しく声をかけながら、手早く一ノ瀬の腕に包帯を巻いていく。

一ノ瀬はわずかに笑いながら、息をつく。


一ノ瀬「まさか料理食べる前に、私が焼かれるとはね……ツイてないわ。」


ユイ「笑ってる場合じゃないですってば!」


思わずツッコミながら、ふっと顔をほころばせた。


レイナ「これは仕掛けられてた。誰かが、意図的に。」

一ノ瀬の火傷の手当てが落ち着いた頃、仁科が額の汗をぬぐいながらソファの残骸を見つめる。


ユイ「一体誰が、こんなことを。」


ユイもまだ震える指先をそっと組み合わせながら、息を吐いた。


ユイ「さっき、レイナちゃんが止めなかったら私も、一ノ瀬さんも……。」


レイナは黙ったまま立ち上がり、ラウンジの一角、入口の方へと目をやる。

その時、誰かの影が、共用廊下の端を横切った。

一瞬のことだった。

暗がりに浮かぶ細い影。けれど、それは確かにラウンジから逃げるように動いていた。

レイナの目が鋭くなる。


レイナ「いた。」


踵を返し、音もなく走り出す。


ユイ「レイナちゃん!? どこ行くの!」


ユイの声も振り切って、レイナは非常階段の方へと駆け抜ける。

ギシギシと鳴る鉄階段。駆け上がる気配はない。だが、誰かが確かに逃げた気配がある。

階段の踊り場、静まり返った空気の中。

レイナは立ち止まり、耳を澄ます。

その先カチャ、と扉が閉まる音。微かに聞こえる鍵のかかるような機械音。


レイナ(やっぱり、誰かが仕掛けた。ソファに仕掛けた爆薬を見計らって起爆させた。)


ゆっくりと階段を降りて戻りながら、レイナは廊下の扉を一つずつ見渡す。


レイナ「入ったのは、201か202。つまり、神代さんか、あの女性、白石さん。」


そして203号室の前で立ち止まり、深く息を吸う。


レイナ「ユイに伝えなきゃ。」


ラウンジには、まだ火薬のにおいと煙の名残が漂っている。

テーブルの上では、砕けたガラスの破片が光を反射していた。

誰もが言葉を失い、ただ黙って、互いの顔と足元を見比べていた。

そんな沈黙の中、レイナが静かに戻ってくる。

その顔には怒りも焦りもない。ただ、冷たい決意だけが宿っていた。


レイナ「これは偶然じゃない。誰かが、私たちを殺そうとした。」


ユイは、息をのんで立ち上がる。

かつて感じたことのないような恐怖と、心の奥底から湧きあがる疑問。


ユイ「私達を?どうして、誰がこんな事…。」


天井から降る微かな振動と、異世界の空に揺れる赤紫の光。

交錯する不信と、芽生え始めた信頼。

疑念の中、彼女たちはまだ知らない。

この夜が、全ての始まりという事を。

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