第2話 影を連れて来た少女
四日後。火曜日の昼下がり。
自宅のリビング。ソファに寝転んでうたた寝していた結衣のスマホが、突然「ブブッ」と震える。
結衣「ふぁっ!!」
自分でもびっくりするような奇声を上げて跳ね起きる。髪が少し乱れ、布団の跡が頬に残ったまま慌ててスマホを掴んだ。
結衣「きた!?」
心臓が一気に高鳴る。画面を覗き込むと、そこには【クマゾウ】の文字が大きく表示されていた。
結衣「ついにきた!って、遅すぎるって〜!」
待ち望んでいた名前を目にした瞬間、口元が自然と緩む。画面をタップすると、そこには短く簡潔な文が一行だけ表示されていた。
【今日、集合できたりする?】
結衣「いきなり〜!でも……。」
ぼやきつつも、顔は嬉しさでいっぱいだった。指が勝手に動き、すぐに返信を打ち込む。
【もちろん!いつでも行けるよ!】
その後のやり取りも驚くほど淡白で、余計な装飾は一切ない。けれど、それがかえって彼女らしい気がして、結衣は小さく笑う。
やり取りは数回の短文で終わり、あっという間に一時間後に駅前集合、という約束が決まった。
時計を確認し、結衣は飛び起きる。
結衣「やばっ、準備しなきゃ!」
胸の高鳴りを抑えきれず、部屋の中を慌ただしく駆け回り始めた。
大急ぎで着替えを済ませ、髪を軽く整えて外へ飛び出す。
二日間、家にこもってぬくぬくと過ごしていた時間はここで強制終了。玄関を出た瞬間、冬の空気が頬を突き刺すように冷たくて、思わず肩をすくめる。
空は雲ひとつなく澄み渡り、あまりにも青すぎて、先週の出来事がまるで作り物の記憶のように感じられた。
あの裏路地で私を助けてくれた子。
ポニーテールをなびかせ、黒いジャケットに身を包んで、不良たちを前に一歩も怯まなかった。言葉は少ないのに、立っているだけで周囲を支配するような存在感を放っていた。
黒瀬玲那(くろせ・れいな)
私を救ってくれた恩人で、漫画の登場人物みたいにかっこよかった。
結衣(でも、ただ助けられたってだけじゃない。あのシーンがあまりにも衝撃的で、現実感がなくて。何故かずっと頭から離れないんだよなぁ。)
そんなことを思い返しながら歩いているうちに、あっという間に駅に到着した。
昼下がりの駅前は、先週の夜とは打って変わって人の波で賑わっている。
買い物袋を下げた主婦、友達同士で笑い合う学生、スーツ姿の会社員。人が多すぎて、一人ひとりを確認するのに手間取ってしまう。
結衣(あれ、まだ来てないのかな?)
そう思った中、トントン、と肩を叩かれた。
結衣「え?」
振り返った瞬間、頬に人差し指がちょこんと触れる。
玲那「見つけた。」
玲那だった。わざとらしくもない自然な仕草で、古典的ないたずらを仕掛けてきた。
結衣「うわ〜!何となく負けた感じ!」
思わず笑ってしまう。二度目の再会なのに、まるで昔からの知り合いみたいに和やかな空気が流れていた。
玲那の服装はあの日と大きく変わらず、黒のジャケット姿のまま。違うのは首元に巻かれたマフラーくらいだった。昼間に見ると、その落ち着いた雰囲気が一層際立って見えた。
結衣「もう、連絡待ってました!でも誘ってくれてありがとう。ほんとに待ってました!」
まるで恋人を待ちわびていたかのように目を輝かせる結衣に、玲那は小さく「うん」と頷く。
玲那「急だったね。ごめん。あと、あの時ちゃんと話できなかったから。少し歩きながら話せる?」
結衣「もちろん〜!」
二人は並んで歩き出す。目指すのは駅近くの小さな公園だった。
結衣「ねぇねぇ!玲那ちゃんって何歳?」
玲那「十九歳だよ。」
「十九歳!やっぱりお姉さんだった。私は十八歳で、一個下。高校受験の歳なんだ。」
玲那「そうなんだ。もしかして誘うのマズかった?」
結衣「いやいや!ちゃんと普段勉強してるから大丈夫だよ!」(あっ、ちょっと痛いところ突かれたかも。)
結衣は内心ヒヤリとしたが、何とか笑って誤魔化した。
玲那「良かった。もし帰らなきゃいけない時間があれば遠慮なく言って。」
結衣「うん、ありがとう!あ、そうだ。玲那ちゃんは先輩だけど敬語じゃなくても良い?もうタメ口っぽくなってるけど。」
玲那「うん、気にしない。大丈夫。」
結衣「やった!私、お姉ちゃん欲しかったんだよね!」
玲那「お姉ちゃんは禁止ね。」
結衣「そっちはダメだったかぁ〜。」
軽口を叩き合いながら歩く時間が心地よい。
結衣の中で、玲那との距離がどんどん縮まっていくのがわかった。
結衣「玲那ちゃんは大学生?」
玲那「そうだよ。隣の駅にある三ツ橋大学」
結衣「えっ、三ツ橋ってあの国立の三ツ橋!?」
玲那「そう、近いでしょ。」
結衣「いや、近い以前に凄すぎ!しかも十九歳ってことはストレートで入ったんだ…頭良っ。」
玲那「ありがとう。でも、うちは家系的に国立しか選択肢なかったっていうのもある。大学行かなかったら働くしかなかった。」
結衣「いやいや、眩しすぎるって!」
結衣は思わず顔を覆って、玲那をちらりと見上げる。
結衣(やっぱり、かっこいい人だなぁ。)
胸の奥で小さく呟いていた。
二人は他愛もない身の上話を続けながら、公園のベンチへと辿り着いた。
その途中も、冬の空気は澄んでいて、吐く息が白く浮かび上がるたびに会話の合間に静けさが差し込んだ。
玲那「結衣、ここで待ってて。すぐ戻るから。」
結衣「あ、うん!」
そう言うと玲那は軽やかな足取りで、公園の奥へと消えてしまった。
その背中を目で追いながら、結衣はポツリと呟く。
結衣(なんか、不思議な感じ。学校以外で人と仲良くなるなんて、初めてだよ。特別な時間みたいに思える。)
周囲では、芝生の上を駆け回る子どもたちの笑い声、犬を連れて談笑する大人たち、楽器の音やダンスのステップの響きが入り混じっていた。普段なら気にも留めない光景が、今は妙に鮮やかに感じられる。
玲那「お待たせ。」
気付けば隣に立っていた。結衣は驚いたように振り返る。
結衣「あ、玲那ちゃん!おかえり!」
玲那の手には、冷えたペットボトルが二本握られていた。
玲那「結衣は、お茶とミルクティー、どっちが好き?」
結衣「え?悪いよ!私もちゃんとお金持ってきてるから。」
玲那「いいの。そう言うと思って、両方買ってきたから。」
その落ち着いた声音に、結衣は小さく息を呑む。
結衣「うう…ありがとう!じゃあ、お茶いただきます。」
玲那「うん。」
玲那はペットボトルを差し出し、結衣は両手でそれを受け取る。暖かさがじんわり掌に広がり、二人は同時にキャップをひねって口をつけた。短い沈黙が、かえって心地よく感じられる。
結衣「玲那ちゃん、この前の話の続きだよね。この街の地理のこと?」
玲那「うん、そうなんだ。」
玲那の表情がわずかに引き締まる。
玲那「私が隣駅に住み始めたのは、進学以外にもう一つ理由があるんだ。」
結衣「そうなんだ。どんな理由なの?」
玲那は一拍置いてから、はっきりと言った。
玲那「七年前から、居なくなってしまった兄を探してる。」
結衣「七年前って、それって……行方不明?」
思わず声が小さくなり、不安が表情ににじむ。
玲那「うん。兄は大学に進学してから独り暮らしをしてたはずなのに、ある日突然ぱったり連絡が途絶えてしまった。警察に捜索願も出したけど何も出てこなかった。」
その横顔は淡々としているのに、どこか胸の奥に重いものを抱えているように見えた。
結衣「ごめん。何だか私、玲那ちゃんに辛い事を聞いちゃってる?」
玲那「ん?全然気にしないで。むしろ私がお願いしちゃってるわけだし。」
結衣「ありがとう…。」
玲那「もう、寂しいとかはないんだ。ただ、あれだけ面倒見の良い兄が急に居なくなる程の事なら、知らなきゃいけないって思ったの。」
結衣「玲那ちゃんのお兄さんの手掛かりは今も…。」
玲那「うん、今も警察には捜索願は出したまま。でも、正直もう進展はないだろうと思ってる。」
視線は遠くの空へ向かい、冬の冷たい光に照らされて瞳がかすかに揺れる。
玲那「だけど最近になって、実家の大掃除で偶然これを見つけたんだ。」
結衣「え?」
そう言って、玲那は折り畳まれたメモ用紙を差し出した。結衣は慎重に受け取り、視線を落とす。そこには小さな文字で住所らしきものと、一文が記されていた。
【東京都○○区△△三丁目5-12 203号室 鍵は部屋の中にある。】
玲那「203号室って書いてある。でも、兄が最後に住んでいたのは三駅隣の街のマンション。号室も全く違っていて。実際、今もそこが最後の登記上の住所になってる。だから、もうよく分からなくて。」
玲那の声は静かで、それでもどこか頼るものを持たない孤独さが滲んでいた。
結衣「そのメモの住所。確かにここからそう遠くはないように思えるけど、玲那ちゃん、そこにはもう行ったの?」
玲那「うん。実は、もう何度も足を運んでるんだ。」
短い返事に、結衣は息を呑む。
結衣「何かあった?」
問いかけに、玲那はしばし結衣の瞳を見つめる。その目はどこか哀しげで、次の瞬間、視線を伏せて口を開いた。
玲那「あるにはあった。でもそこは広い敷地の中に高層マンションが一つ建っているだけだったの。気になったから思い切ってコンシェルジュに尋ねてみたけど203号室なんて存在しませんって言われた。そもそも203は通常二階を指すと思うけど、二階は住居じゃなくて、共用部分でエレベーターホールと待合室しか無いんだって。」
冬の冷たい風がふっと吹き、玲那のポニーテールが揺れる。彼女の言葉の一つ一つが、結衣の胸に重く沈んでいった。
玲那「このメモの住所が間違ってるとは思えない。だけど、私一人じゃこれ以上どうしたらいいのか…わからなくて。だから、何か思いつくことがあればって。結衣、あなたを頼ってみたの。」
唐突な打ち明け話に、結衣は一瞬返す言葉を失った。
結衣「えっと……。」
言葉を探して戸惑う結衣を見て、玲那は苦笑いのように小さく首を振る。
玲那「ごめん。急にこんなこと言われても困るよね。でも、結衣になら聞いてもらいたいって思った。だから、あなたと友達になれたことが、私には凄く大事なんだ。」
その真っ直ぐな気持ちに胸を打たれ、結衣は思わず目をぎゅっと瞑ると、自分の頬を両手でパンパンと叩いた。そして勢いよく立ち上がる。
結衣「玲那ちゃん、私決めた!」
玲那「決めた?なにを?」
結衣は胸を張って宣言する。
結衣「そのメモの場所、私が一緒に探してあげる!」
玲那は驚いたように目を瞬かせる。
玲那「でも、さっきも言ったけど、あそこには何も。」
結衣「それでも、二人で探せば新しい発見があるかもしれない!それに私は玲那ちゃんに助けられたんだよ?その恩返しも兼ねて……ね!」
そう言って、慣れないウインクをしてみせる。しかし上手く決まらず、むしろぎこちなくて間抜けな表情になってしまった。
玲那「ふふっ。」
思わず吹き出す玲那に、結衣はぷくっと頬を膨らませる。
結衣「ちょっと!なんで笑うの玲那ちゃん!」
玲那「ごめん、でもなんかこういうの友達って感じで、嬉しくなった。」
その言葉に、結衣の顔がぱっと明るくなる。
結衣「そうだよ!友達の為なら、出来ること全部やるんだから!」
力強くそう言って、結衣はにこっと笑った。その笑顔は、冬の冷たい空気をほんの少しだけ和らげるように、玲那の心を温めていた。
二人はそれぞれスマホを取り出し、メモの住所を地図アプリに入力して位置登録をした。
玲那「ここから歩くと二十分くらいになりそう。大丈夫?」
結衣「余裕余裕!じゃ、早速行こっか!」
結衣は意気込みを見せて立ち上がり、つられて玲奈も立ち上がり、そのまま目的地に身体を向けた。
結衣「でも、やっぱり待って!」
玲那「ん?」
結衣は得意げにスマホ画面を玲那の前に差し出す。そこにはポイポイアプリのクーポン画面が表示されていた。
結衣「見て!今ね、この近くのマスド(マスタードーナツの略)が半額セールやってるの!せっかくだし、ちょっと寄っていかない?」
子犬みたいに目をキラキラさせる結衣に、玲那は一瞬きょとんとした後、わずかに肩を落とす。
玲那「そ、そうだね…。歩く前に腹ごしらえしておいた方がいいかも。」
玲那はまだ、このマイペースさに慣れきれていないようだった。
結局、二人は駅近くの店舗に入り、窓側のカウンター席に並んで腰を下ろしていた。テーブルの上には、色とりどりのドーナツと湯気の立つドリンク。冬の街並みを背に、ほんのり温かい空間が広がっている。
結衣「いやぁ、今日までだったんだよ、このセール。間に合って良かった〜!」
玲那「ふふ、そうなんだ。私、このお店来るの初めて。でも確かに美味しいね。」
玲那がひと口かじると、ほんの小さな笑みが漏れる。結衣はその様子を見て満足そうに頷いた。
結衣「でしょでしょ!この店舗はフードメニューもあるから、ランチもできるんだよ。私、学校帰りとかたまに寄っちゃうんだ。」
玲那「なるほど。結衣はグルメなんだね。そういえば、最初に会った時も何か食べてなかった?」
結衣「あ、覚えてた?あれね、SNSでちょい話題になってた中華まん!」
玲那「中華まん…。」
玲那はドーナツを持った手を止め、少し遠くを見るように眉を寄せた。
結衣「ん?どうしたの?もしかして、中華まんの方が良かった!?笑」
玲那「いや、そういうことじゃなくて、ごめん。なんか、大事なことを思い出しそうになったんだけど。駄目だ、掴めない。」
玲那の横顔には、一瞬だけ影が落ちていた。
結衣「中華まんで!?笑」
玲那「うーん、なのかな。」
結衣「もう〜玲那ちゃんも十分グルメンだよ!」
結衣は親指をぐっと立てて笑顔を向ける。その軽さに救われたのか、玲那は少しだけ照れたように口元を緩めた。
玲那「はは…。(でも、きっとそういうことじゃない気がするんだ。)」
ドーナツを食べ終え、ドリンクの最後の一口をそろって飲み干す。結衣は満足げに伸びをすると、元気よく立ち上がった。
結衣「遅くなっちゃったね、そろそろ行こう!」
玲那「うん。」
二人はカップをトレーに戻し、並んで歩き出した。店の外はすでに冬の夕暮れが迫っていて、空気は冷たいのに、どこか胸の奥は温かかった。
二人はドーナツ店を後にし、地図アプリが示す目的地へと歩き出した。
午後の日差しは少しずつ傾き、街の影を長く引き伸ばしている。
人通りの少ない通りを並んで歩きながら、他愛もない会話がぽつぽつと続く。
笑い声が途切れるたび、靴音と風の音が静かな住宅街に響いた。
やがて、大きな交差点を曲がり、狭い路地を右へ左へと抜けていく。
結衣はふと、冷たい風に頬を撫でられて肩をすくめた。
結衣「寒くなってきたね。」
両手を肩にクロスさせ、ぴょんぴょんと小さく跳ねながら歩く。
玲那は笑みをこぼしつつ、首をすくめて返した。
玲那「そうだね。でも、もうすぐだよ。」
その言葉のとおり、歩き進めた先に視界を遮るほどの高層マンションが姿を現した。
敷地の中には整然とした並木と、ガラス張りのエントランスが輝いている。
まるでこの一角だけ、時間が新しく塗り替えられたかのようだった。
結衣「うわぁ、確かにすごい高そうなマンション!」
結衣は目を見開き、思わず見上げる。
結衣「こんな住宅街にあったなんて、全然知らなかったよ。いつからあったかな?」
腕を組んで少し考えるも、記憶の奥に引っかかるものはない。
玲那が小さく息をついた。
玲那「さっき言った通り、このマンションには二階の居室は存在しないみたい。もしかしたら、このマンションが建つ前に、何か別の建物があったのかもしれない。だとしたら、もう手がかりは何もないけど。」
結衣は口を尖らせ、視線をマンションの外縁に滑らせた。
結衣「うーん。うっすらとだけど、ここって昔は空き地で、雑木林とか生い茂ってた場所だったかも?」
玲那が顔を向ける。
玲那「そうなの?」
結衣「わからない。でも、なんか目立つ建物はなかったような……ん?」
結衣の足が止まり、目が一点を捉えた。
マンションの斜め正面。
その向こう、建物の裏手側に、かすかに木々の葉先が覗いている。
結衣「ほら!あの後ろの方、まだ昔のままだよ!」
興奮気味に指をさす結衣。
玲那も目を凝らす。
玲那「確かに。木々は見えるけど、あの裏手に何かあるってこと?このマンションの敷地内ではないのかな。」
結衣「敷地内はさすがに無理そう。裏に回るには、外からぐるっと回らなきゃいけないかも。」
視線を交わす二人。
その一瞬に、探偵ごっこのような小さな冒険心が宿る。
頷き合うと、二人はマンションの裏へ回るため、住宅街を大きく一周することにした。
歩くこと約十分。
夕暮れが近づき、街がオレンジ色に染まりはじめた頃。
ようやく、狭い道の奥にひっそりと伸びる路地へと辿り着く。
そこは草木が無造作に伸び放題で、錆びついたフェンスが無言で立ちはだかっていた。
人の手が久しく入っていない空気。
風が吹くたび、フェンスがギィ…と寂しく鳴く。
玲那「これって、一体なんの土地なの?」
結衣「見て見て!ここ!」
結衣がフェンスの切れ目に貼られた、古びた木の板を指さした。
そこには、墨がかすれながらも確かに文字が刻まれている。
玲那が息を呑んだ。
玲那「これって……。」
【黒須荘】
筆で書かれた古いその文字は、どこか不気味なほど静かに彼女たちを見返していた。
結衣「玲那ちゃん、やっぱりここアパートか何かだったんだよ。」
木々の隙間をのぞき込みながら言う。
玲那「こんな場所があるなんて、全然気が付かなかった。」
結衣「木で見えないけど、中には入る道が続いてる。」
風が一度止まり、辺りに微かな土と錆の匂いが漂った。
二人の胸に、わずかな緊張が走る。
玲那はしばらく、錆びたフェンスの向こうを無言で見つめていた。
枯れ草の隙間から覗く暗がりは、どこか彼女を誘うようでもあり、拒むようでもあった。
その目に、迷いと決意が交錯する。
やがて、玲那は小さく息を吸い込み、結衣へと振り返った。
玲那「この中に入って確かめてみる。」
その声は小さいが、確かな意志を帯びていた。
玲那「勝手に敷地に入るのは良くないのは分かってる。でも、兄がここに居るかもしれないなら尋ねてみたい。」
彼女の手はフェンスを掴み、少し震えていた。
玲那「結衣は、ここで待ってて。」
その言葉に、結衣はぷくっと頬を膨らませた。
結衣「玲那ちゃん、ここまで来たら一緒に行くって〜!もう私達、友達じゃん!」
玲那は一瞬だけ迷うような表情を浮かべた。
しかし、すぐにその曇りは晴れる。
玲那「うん、そうだった。ありがとう。」
そう言って柔らかく笑う。
その笑顔には、これまでの孤独を少しだけ溶かすような温かさが宿っていた。
玲那「入ろう。」
結衣「うん。」
二人の足が、恐る恐る前へと踏み出す。
フェンスの切れ目をくぐると、空気の温度が一段下がった気がした。
中はうっすらと石畳のような地面が続いているが、
長い年月の汚れと落ち葉が積もり、道なのかどうかも曖昧だ。
結衣が手で草木をかき分け、玲那がその後を静かに続く。
足元で砂利を踏む音が、やけに大きく耳に残った。
まるでこの静けさ自体が、ふたりの侵入を拒んでいるように感じられる。
少し進むと、右手の暗がりの中から、建物の輪郭が浮かび上がった。
二階建ての、小さなアパート。
壁面には薄い苔がこびりついているが、建物そのものは思ったほど古く見えない。
むしろ、奇妙に新しい印象すらあった。
結衣「意外。もっとこう、いかにも木造って感じの古い建物を想像してたけど。」
結衣が目を丸くして言う。
玲那「うん、私もそう思ってた。建物はそこまで古くないのに周囲が荒れすぎてる。なんでだろう。」
玲那は眉をひそめ、視線を巡らせる。
すると、一階脇のスペースに電力メーターがずらりと並んでいるのが見えた。
彼女はそっと足を向け、電力メーターの針を確かめる。
玲那(動いてるのは、101号室だけ。203号室は止まってる、か。)
無意識に息を詰める。
背後で覗き込んだ結衣も、小声で状況を悟ったように目を見開いた。
玲那は決意を固め、静かに言う。
玲那「ここまで来たから、ちゃんと訪問して確かめる。」
結衣は真剣な顔で頷いた。
ふたりは顔を見合わせ、外階段へと視線を向ける。
薄暗い金属の階段は錆びついており、手すりに触れれば崩れそうなほどだ。
その瞬間。
ピシャッ。
乾いた音が、空気を裂いた。
101号室の空いていたであろう窓が急に閉まり、思わず声を上げてしまう。
結衣「ひゃわっ!!」
結衣は思わず跳ね上がり、両手で口を押さえた。
体を小刻みに揺らしながら、目をぎゅっと閉じる。
玲那も驚いて一瞬身を引くが、すぐに冷静さを取り戻す。
玲那(しっ、静かに!)
小さく口の前に指を立て、結衣の口元に手を添える。
二人の距離が、息が触れるほど近づく。
しんと沈黙が流れた。
どこかで風が、壊れかけた窓を揺らして鳴る。
そして二人は、そっと視線を交わした。
その目の奥には、不安と好奇心が混じった光が宿っていた。
ふたりは再び、外階段の上方を見上げた。
鉄の手すりは赤茶けた錆に覆われ、踏み出すたびにギシリと軋む。
昼下がりのはずなのに、周囲はまるで夕暮れ前のような暗さに沈んでいた。
鳥の声ひとつしない。風も止まり、木々の葉が音もなく垂れ下がっている。
世界そのものが息を潜めて、彼女たちの行動を見守っているようだった。
結衣「もう、これってさ。出てきてもおかしくないくらいの雰囲気あるよね。」
結衣は肩をすくめ、冗談めかして言うが、声はわずかに震えていた。
玲那は前を向いたまま、少しだけ振り返る。
玲那「何が出るのか、って話だけどね。」
淡々と返しながらも、彼女自身も喉が渇いていた。
唾を飲み込む音が、やけに大きく響く。
そして、数十段の階段を上り切ると、そこには【203号室】のプレートが貼られた扉が、ひっそりと立っていた。
結衣「ここだね…。」
結衣の声が、少し掠れる。
玲那は扉をまじまじと観察した。
新しくも古くもない、不思議な質感のドア。
金属の取っ手は微かに曇り、長く人の手が触れていないように見えた。
玲那「インターホン無いんだ。ぱっと見、築年数からすればあっても良さそうなのに。」
玲那はそう呟くと、ためらうことなく扉をノックした。
トン、トン、トン。
その音は、廊下の奥へ吸い込まれていくようだった。
反応は、ない。
結衣「やっぱり、そうだよね。」
分かっていた。だが、それでも落胆は隠せなかった。
これが、唯一の手掛かり。
この扉の先に、兄がいたかもしれない。
結衣「玲那ちゃん……。」
結衣が声を掛ける。
その時だった。
ガチャ。
空気を裂くように、金属の回転音が響いた。まぎれもない。扉のシリンダーが、ひとりでに動いた音。
玲那の目が見開かれる。
玲那「これ、何?誰かいるの?」
結衣は反射的に玲那の腕にしがみついた。彼女の指先が冷たく震えているのが、玲那にも伝わる。
玲那は息を整え、再び扉をノックした。
玲那「どなたか……いらっしゃいますか?」
返答は、ない。
しかし確かに、鍵は動いた。玲那の表情が、決意と恐怖の狭間で揺れる。ポケットから、折りたたまれたあのメモを取り出した。
兄の筆跡が震えるように刻まれた一文が目に入る。
『203号室 鍵は部屋の中にある』
玲那「どういう意味なのか、ずっと分からなかった。」
玲那の声は掠れていた。
玲那「ここまで来たら確かめたい。」
結衣が何か言おうとする前に、玲那の手がドアノブへと伸びる。
冷たい金属が、指先に触れた瞬間。
風が吹いた。
まるで部屋の中から、外へ空気が押し出されたように。
ふたりの髪が一斉に揺れる。
結衣「何!?」
結衣が小さく叫ぶ。
玲那は歯を食いしばり、結衣の手を掴んだ。
扉の隙間から、淡い光が漏れ出す。
室内は、普通のアパートの一室のように見えた。
だが、その中央。
玲那「兄さんの、鞄?」
そこにあったのは、確かに見覚えのあるものだった。兄がいつも肩にかけていた、黒い革のバッグ。埃も汚れもなく、まるで今まで誰かが使っていたかのように整っている。
玲那「兄さん!いるの!?」
玲那が叫んだ、その瞬間。
世界が、裂けた。
紫色の光が、視界いっぱいに広がる。
闇を切り裂く閃光が、二人を包み込む。
どこからともなく、金属を擦るような高音が響き、耳の奥を刺した。
結衣「きゃっ!」
玲那「なにこれ!?」
結衣は目を閉じ、玲那の腕にしがみつく。玲那も必死に立っていようとするが、足元がふらつく。音が、色が、空気が、何もかもが溶けて混ざり合う。空間がねじれ、視界の輪郭が消えていく。
玲那「一体、なんなの!?」
結衣「怖すぎるってー!!」
彼女たちはただ、光の中に呑み込まれていく。
声を出すことも、動くこともできないまま。
そして、紫の閃光が弾けたその瞬間。
世界が音を失った。
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