第5話 逃亡の始まり
返事があったことに驚いたのだろうか。ドアを叩く音が唐突に止んだ。
サロは二階に身を隠したまま、階下の様子に耳を澄ませる。内鍵を外す音がしたあと、呼び鈴よりはマシな、それでもかなり歪んだ音が続いた。
「ごめんなさいね、このドアの立て付けが悪くて」
「貴女はこの家の方ですか?」
「いいえ、この家の管理をしています。偶に此処に来ては空気を取り込む仕事を」
言葉選びが相変わらずおかしいが、相手は特に気にしていないようだった。
「此処に男が逃げ込みませんでしたか」
「逃げる男は見ていません。何かありましたか」
「見ていないなら結構です」
「見たらお伝えすれば良いのでしょうか」
「いや! 相手は大変危険な人物です。兎に角怪しい人間を見ても近寄らないように」
好き勝手なことを言う、とサロは音を立てずに舌打ちした。
もし目の前に相手がいたら、今度はこの家に落ちている埃を全部掴んで口の中に詰めてやっても良いくらいだった。実際はそんなことは出来やしないとわかっているが。
「わかりました、ありがとうございます」
「お嬢さんも気をつけて下さい。それでは」
最後辺りの声の調子は随分と甘ったるい響きになっていた。恐らくはミラの美しい顔に鼻の下でも伸ばしていたのだろう。それぐらいは声だけ聞いていても容易に想像出来た。
ドアを締める不快な音がまた聞こえて、暫く経ってからミラが戻ってきた。
「行きました」
「手慣れたもんだな」
「よくわかりませんが、以前にもこういうことをした覚えがあります」
「以前って?」
「この家がまだ新しかった頃です。正確な年月までは不明となります。それよりも、今のうちにお逃げ下さい。改築などをしていなければ裏口があるはずです」
ミラは「さぁ」とサロを促す。
「お前は」
「貴方に言われたとおり此処にいようと思います」
「だよなぁ、俺がそう言ったもんな」
サロは髪をかき混ぜ、そして大きな溜息をついた。今日は半年分の溜息を消費しそうな予感がした。
「念のために聞くけど、走ったり跳んだりは出来るのか?」
「関節部の可動域の範囲であれば」
「そうか。……前言撤回。一緒に来い」
ミラは首を左右に小さく揺らしたあと、素直に頷いた。
「我が主の命に従います」
「だからそれやめろ」
理由はわからないが、この人形は自分の命令に従うようだし、人間相手に芝居を出来る程度の知能と技術は持ち合わせているようだった。これから先、役に立つかも知れない。別に誰かに問いただされたわけでもないのに、サロは自分自身に言い訳するように考えた。人形を置いていくのに罪悪感を覚えただとか、先ほどの行動に恩義を感じただとか、そういうことを認めるにはサロは少々若かった。
「流石にテーブルクロスをずっと被っているわけにもいかないな。何かないか」
「お部屋に何かあるかもしれません。お待ちください」
ミラが自分が長いこと居た部屋に入ると、少しの間だけ何かを探していたようだったが、やがてレースで出来たベールと長手袋を身につけて戻ってきた。
「いかがでしょうか」
「なんかこの辺じゃ見かけないファッションだけど、この際目を瞑るか」
少なくとも指先や首の付け根の不自然さは誤魔化せていた。
「俺が使える服も探したいところだけど、あまり長居も出来ないし諦めるよ」
「スカートならありました」
「お気持ちだけで結構です」
一人と一体は一階に下りて裏口へと回った。裏口の扉は中の鍵を捻るだけで簡単に空いたが、裏庭はと言うと雑草が生い茂った酷い有様だった。犬か猫の溜まり場にでもなっているのか、動物臭い嫌なにおいがする。
サロが左手で口と鼻を覆うと、何故かミラも同じような格好を取った。それを見てサロは眉を寄せる。
「嗅覚あるのか?」
「いいえ、ありません」
「じゃあ要らないだろ」
「こうすべきなのかと思いまして」
やはり連れてこないほうが良かっただろうか。サロはこれから先のことを考えて少し後悔したが、それでも裏庭へ踏み出した。小さい庭はすぐに終わり、路地に続く柵に到達する。家々の間に自然と出来上がった細い路地には誰の姿もなかった。
「これからどうしますか?」
「人目につかないところに移動するか、あるいは人目の多いところに紛れ込むか。この近くにある飲み屋街がいいかもな。昼間は人が少ないし、夜は人が大勢集まる」
路地を抜けて大通りに出る。行き交う人々はサロたちに特に注意を払わなかった。皆それぞれの用事のために足を動かし、目的の場所を目指している。
「ここは職人通りですか?」
「それはわかるんだな」
「地図は記憶しています。ですが記憶と乖離があります。あのような建物はありませんでした」
歩きながらミラが指さしたのは時計台だった。真っ白な煉瓦を積み上げて作られた円柱型の建築物。その頂点となる場所には大きな時計が掲げられている。
「あの時計台が出来たのは四十年以上前だ。ってことはそれより前に作られたのか?」
「わかりません。私の記憶はあまりに曖昧に仕上がっています」
「まぁ別にどうでもいいか」
通りを進みながら油断なく左右に目を配り、目立たぬように歩を進める。どこに治安局の連中がいるかわかったものではない。こういう時に役に立たない能力であることを少し恨んだ。何にかはわからない。世界樹か、それとも無作為に種を選んで植えた助産師たちか。しかし同時に、結局自分の能力というのはその程度の代物で異端などとは程遠いことを再認識し、自分が置かれた境遇への理不尽さだとか怒りの感情のほうが勝った。
「そこを右だ」
「はい」
通りを横断しようとした時だった。飲み屋街の方向から新緑色の制服を身につけた男女がやってくるのが目に入った。まずい、と思ったが既に遅かった。相手方もサロに気付き、揃ってこちらへ走り出す。女の方が長い警棒を腰から抜き取るのが見えた。
だがそこに大きな警笛の音が響き渡った。人々はその音に気がついて、別段慌てるでもなく通りの左右にそれぞれ身を寄せる。サロの左手側から、独特の大きな音を立てて一台の蒸気動力車が現れた。前方に二対の小さな車輪、後方に四対の大きな車輪をつけた金属製の黒い動力車は、その動力源である蒸気を車の先端にある円筒から吐き出している。動力車の後ろには木で作られたコンテナがいくつも繋がっていて、動力車に素直に牽引されていた。運送会社は通りで起ころうとしていることなど知らぬ存ぜぬで悠々とサロの前を通っていく。
「今のうちだ。逃げるぞ」
サロは即座にそう言って、コンテナが続く方に走り出そうとした。しかしその瞬間、誰かに左腕を思い切り掴まれて強引に引き寄せられた。
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