第3話 ケンタウル祭
汽車は野原を越えて進む。車窓から遠くに大きな火のようなものが見える。近くの町で祭りでもやっているのだろうか。それともサソリの火か?人々のざわつく声や祭囃子の笛の音が聞こえたような気がした。「あれは、ケンタウル祭でもやっているのか?」隣の席の男がまたしゃべるが、相変わらず汽車は音もなく進む。
たしかにあの親の子がオレである理由(必然性)蓋然性はないし、オレの親がアレである必然性も感じられない。相性もよくない。はっきりいって誰でもよかったのではないだろうか?この世界のそこいらじゅうに、やおよろず(800万)ほどいるらしい神々のうちの無責任な誰かが適当に選んであてがったと思う。
魂的な因果で前世的なところでは贅沢していたから、今回はオレに苦労させたいがために、貧乏な家に生まれさせたなどという、お為ごかしを何度か聞いたこともあるが、前世(があったとして)でオレが苦労していたor苦労していなかったことによるメリットやデメリットについて、今のこの世で「ああ前世で苦労しといてよかったなあ」なんて思ったこともないし、なんの実感もないわけだから、前世もひっくるめての「今までの魂の苦労量のバランス調整している論」には賛同しかねる。
そもそも、今、この世で苦労していることが、来世にどんな影響を及ぼそうと、今、この世で苦労していることが、前世とどんな因縁があろうと、今、この世で苦労して人生のレールの上を進んでいるオレには実感としては何もないんだから、現実に眼前に裕福な家庭に生まれて、そこに生まれたというだけで何不自由のない生活を送れている、始めからいい切符を持って人生列車のグリーン車に乗っているようなやつらと比較して、貧乏なくせにパチンコ狂いのネグレクト親の家庭に生まれて、始めから普通の切符も持たずに、キセルして列車に乗っているようなオレを含めたものたちは、他人をうらんだりねたんだりひがんだりうらやんだりやっかんだりするのは、この際仕方のないことなのではないだろうか?
現にぼくら川の「こちら側」の人間は川の「あちら側」に住んでいる貴族たちとは諍いが絶えなかった。「夏休みに家族でキャンプに行った」「冬休みはディズニーランドへ行った」などというテレビの中でしか見たことがないような『幸せな家庭のテンプレート』みたいなエピソードを聞くたびに虫唾が走った。
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