第1話 出会い①
この世界には、太古より竜と呼ばれる生き物が存在している。
人々や荷物を運ぶ手段、都市や城の門番、あるいは家族の一員として。長きにわたり人間と竜はよきパートナーだった。
その中でも、世界の守護者として頂点に君臨しているのが神竜王ヒルデブラントだ。彼は世界の誕生とともに生まれ、彼が死ぬと世界も滅んでしまう、と伝わっていた。
人々が住む領域は内地と呼ばれ、ヒルデブラントがおわす聖都ラグナル及び周辺の七つの国で構成されている。
一方、七つの王国の外側は外界と呼ばれていた。古くからの伝承によると、外界は邪竜アースムンドの領域であり、かつてヒルデブラントは死闘の末にこれを封印したが、完全には滅ぼすことができなかったという。
そのため、外界は今でも人が住める環境ではない。生き物の生気を奪う死の瘴気『ケガレ』が蔓延しているのだ。ヒルデブラントは聖地と七つの王国を覆う結界を張り、人々を外界の脅威から守っていた。
この神竜王ヒルデブラントこそ、リンの許嫁だ――
◇◇◇
「リン!!」
「ぐはっ!?」
部屋の扉を開けるなり、目にも止まらぬ勢いで青年が飛び出してきた。抱き着かれたリンは、一瞬息を詰まらせる。
「……ちょっと、苦しいじゃない。離れてよ」
「そんな! 半日ぶりの再会だというのに、冷たくないかい!? 最近のリンは反抗期真っ只中で、僕は悲しい……少し前まで、自分から抱っこをせがんでくるほど甘えん坊だったというのに……」
「いつの時代の話!?」
青年はさめざめと泣くふりをした。暑苦しいので離れてほしいのだが、無理やり引きはがそうとすると、さらに彼は面倒くさくなる。リンはおとなしくされるがままになった。
この子どもっぽい青年こそが、世界を守護する神竜王ヒルデブラント(人間形態)だ。
見た目は二十代前半くらいだが、実際には何千年もの長い時を生きているらしい。当然のことながら竜形態も存在するが、リンに会う時は人間の姿をしていることが多かった。
リンはこっそりヒルデブラントの横顔を眺める。
毛先が虹色にきらめく純白の髪。雪原を思わせる白銀の瞳。磨かれた玉よりも光る肌。
神竜王という呼び名にふさわしく、彼は全身から輝きを放っている。
もちろん、特別なのは輝きだけではない。顔立ちも芸術品のように整っていた。
どの角度から見ても思わずため息が出てしまうほどに美しい、至高の美貌。ただ残念なことに、ヒルデブラントの眩さに耐えられない、という理由から、常人では彼の素顔を直視することは困難だった。
一方のリン――オルトリンデ・シュタイナーは、平民出身の少女だ。
切れ長の瞳が印象的な、やや大人びた顔立ち。手入れの行き届いた金色の髪は、毛先が気合を入れてくるくると巻かれている。少し気が強そうにも見えるが、フリルやレースといったかわいらしい服装がよく似合う。特徴といえばこれくらい。
美少女だが、飛び抜けているわけではない、ごく普通の十六歳である。
では、なぜリンがヒルデブラントの婚約者に選ばれたのかというと、彼女が『神竜の巫女』と呼ばれる存在だからだ。
『神竜の巫女』は神竜王を補佐する存在であり、彼と同様にケガレを浄化したり結界を修復する力があるという。遥か昔からその出現が預言されてきたが、リンが生まれるまでは一度も現れたことがないらしい。
正直、リンとしては自分が特別だという自覚は薄い。
だが『神竜の巫女』であるおかげで、リンはヒルデブラントを直視しても平気でいられる。彼と間近で会話することができるという点には感謝していた。
「うん? どうしたの」
リンの視線に気がつくと、ヒルデブラントは嬉しそうに顔をのぞき込んでくる。彼の表情は、赤子へ話しかける親のような慈愛に満ちていた。
「いや、別に何も。ただ見ていただけ」
「そうなんだ。……ふふふ」
なぜかにやけるヒルデブラント。そのような仕草すら麗しい。
「え、今笑う要素あった? なんか怖いんだけど」
「ひどくない!? 僕はただ、こういう何気ないひとときが幸せだね、って言いたかっただけなのに……」
ヒルデブラントは両手で顔を覆うと、再び泣き真似をする。
「うぅ。昔はもっとこう、『神竜様だいすきー!』って感じだったのに……」
「だから何年前の話よ。わたしはもう小さな子どもじゃないのよ」
「ふぅん……なるほど、リンは大人なんだ。じゃあ今すぐ結婚する?」
「嫌」
「なんで!? やだー、リンが反抗期ー!」
いつも漫才のようなやり取りをしているせいでたまに信じられなくなるが、これでも彼は本当に、世界を守護する神竜王なのだ。
◇◇◇
初めてヒルデブラントに会ったのは、リンが六歳の時である。
聖都ラグナルを取り囲む七つの王国のうち、一番最後にできた第七王国。その辺境の、結界のそばにある小さな街がリンの故郷だった。
リンの両親は神官だ。
神官は、神竜王への祈りを捧げることによって加護を得る、『祈りの力』――ヒルデブラント本人は「勝手に僕の力を使われて不本意なんだけど」と言っているが――を行使できる。『祈りの力』の行使には信仰心だけでなく生まれ持った才能も必要であり、神官は選ばれし者のみが就くことのできる職業だった。
両親は熱心に神竜王を信仰していたが、娘のリンは、あくまでもおとぎ話の中の存在だと考えていた。とはいえ、リンは年齢の割に賢い子どもだったため、空気を読んで黙っていたが。
そのような環境の中、リンは慎ましくも平穏な暮らしを送っていた。しかし――
『ねえ、聞いた? 街の外にある結界に穴が空いちゃったらしいのよ』
『じゃあやっぱりあれは見間違いじゃなかったのね。え、大丈夫なのそれ?』
『聖都の方じゃ神竜様が臥せっていると聞いたけど、そのせいかしら。もしケガレが街に入ってきたら……』
リンが六歳の誕生日を迎えてから数週間後。街にただならぬ雰囲気が漂い始めた。
その頃、街の大人たちは頻繁に集まっており、時には朝から深夜まで話し合いを続けていることもあった。子どもたちが近づくと笑ってごまかそうとするが、彼らの顔は明かにひきつっていた。
これは後から知った話だが、ヒルデブラントはこの時、邪竜を信仰する者たちに毒を盛られ意識を失っていたそうだ。彼の力が弱まったせいで、結界の一部に穴が空いてしまったという。
やがて、家財道具を抱えて街から逃げ出す者たちが現れた。その一方で、国から派遣されてきた騎士団や神官たちが続々と街へ入ってくる。残った住民は外出が禁止され、家に押し込められた。
大人たちは何も教えてくれない。だがリンは、子どもながらに何か大変なことが起きていると気づいていた。
そんな日々が一週間ほど続いた頃。
リンの両親の元に、今すぐ街の神殿まで来てほしい、という知らせが届いた。結界周辺の警備にあたっていた騎士がケガレの影響で倒れてしまった、とのことだった。リンは留守番を言いつけられたが、なんだか胸騒ぎがしたため、こっそり両親の後をつけていった。
『おい、しっかりしろ!』
『駄目です、治癒術が効きません! やはり神竜様の回復を待つしか方法は……』
『そんな悠長なことを言っている場合ではない! 聖都の連中は何をしているんだ!?』
ドタバタと動き回る足音。飛び交う怒号。神殿の中は緊迫した空気が流れていた。
ケガレに侵されたという騎士は、なぜか儀式の間に運び込まれていた。物言わぬ神竜王の石像が人間たちを見下ろしている。
「……!!」
物陰から様子を窺っていたリンは、床に寝かされている騎士の姿を見て、思わず悲鳴を上げそうになった。慌てて口を押さえる。
騎士は黒い靄のようなものに全身を覆われていた。呼吸が荒く、とても苦しそうだ。神官たちが『祈りの力』の一つ・治癒術をかけているが、まったく効き目がない。
それどころか、時間がたつとともに靄がだんだん濃くなっていき、騎士の呼吸は弱まっていく。まるで靄が騎士の生気を吸い取って成長しているかのようだ。
「あ」
――あの人、挨拶の時に笑いかけてくれた……。
リンは騎士の顔に見覚えがあった。つい数日前に街へと派遣されてきた、若い騎士である。皆が緊張感に包まれた険しい表情をしている中、一人だけ笑顔を見せてくれたので印象に残っていたのだ。
つい数日前まで元気だった人間の命が、今まさに失われようとしている――リンは何もできない自分に焦燥感を抱く。助けを求めるように両親の姿を探すと、彼らは神竜王の像へと祈りを捧げているところだった。
「……は?」
――今、そんなことしている場合か?
怒りのあまり頭が沸騰しそうになる。
ここにいない神竜王とやらにすがるよりも、今自分たちにできることを探す方が効率的ではないか、とリンは思う。たとえば、治癒術ならリンだって少しは使える。皆でかければもう少し効果が出るはずだ。
ここは自分がなんとかするしかない――強い使命感を胸に、リンは物陰から飛び出した。
「オルトリンデ!? お前、どうしてここに」
困惑した様子の両親を無視し、リンは倒れている騎士の元へと駆け寄る。彼の手を握ると確かな体温を感じた。大丈夫、まだ生きている。
リンは騎士に向けて手をかざす。ぎゅっと目をつぶり、神竜王ヒルデブラントに祈った。
――どうかこの人を助けてください……!!
その瞬間、リンの手の平から強い光が放たれた。
「……っ」
痛みとともに瞼を閉じたリンは、違和感を覚える。いつもはここまで眩しくないのだ。
うっすら目を開けると、騎士の全身が光に包まれていた。
あたたかで清浄な、金色の輝き。それがリンの手の平から発生している。
これは覚えたての治癒術なんかではない。うまく説明できないが、何かもっと、大きな力――
「……う、うーん……」
うめき声が聞こえてきて、リンの注意はそちらに移る。
「こ、ここは……あれ、僕はいったい何を……?」
ケガレに侵されていた騎士の意識が戻っていた。ぼんやりとした表情でリンを見上げている。体を覆っていた黒い靄は、いつの間にか完全に消え去っていた。
「あの、大丈夫? 体動かせる?」
「あ……うん、なんとか」
リンの助けを借りつつ、騎士はゆっくりと体を起こした。
「よかった、治ったのね! これでもう大丈夫よね――」
晴れやかな気分で振り返ったリンは、周囲の反応を見て困惑する。
騎士団も、神官たちも、両親も。その場にいた皆が、信じられないものを見るような目でリンを凝視していた。
「えっ……え? どうしたの、みんな」
特に、神官たちの様子がおかしい。彼らは互いに顔を見合わせたかと思うと、抱き合って喜んだり、感激のあまり涙ぐんだりしている。しまいには、跪いてリンに祈りを捧げる者まで現れた。
「お父様、お母様。あの、わたし、何か変なことしたかしら……?」
神官たちの異常な雰囲気に恐怖を感じたリンは、助けを求めるように両親の元へ駆け寄った。だが、リンに向けられた両親のまなざしにも、娘を誇らしく思う気持ちと同時に、畏怖の念も混じっていた。
「オルトリンデ」
父親がリンの肩へ手を置く。
「もしかすると、お前は特別な存在なのかもしれない。もう私たちの手が届かなくなってしまうほどの、ね」
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