第18話 修羅の領域
計算が狂った。
その事実を認めるのに、義経は一瞬の躊躇もしなかった。
眼下では、信じがたい光景が繰り広げられていた。
重い鎧をまとったジャダランの精鋭たちが、獣のような唸り声を上げながら、泥濘(ぬかる)む急斜面を這い上がってくる。彼らは矢を何本も体に受けながら、それでも止まらない。痛みよりも、主君ジャムカの命令と、自らの誇りを優先させる狂戦士の集団だった。
「ひぃっ! く、来るな! 化け物め!」
最も手薄な「翼」に配置されていた元タタル兵たちが、恐怖に駆られて弓を捨て、逃げ出した。だが、追いつかれ、背後から斬り伏せられる。
一度崩れた防衛線は、脆かった。恐怖は伝染し、他の丘でも動揺が広がっていく。
「ク、クロウ殿! 第一、第三の丘が突破されました! このままでは各個撃破されます!」
ボオルチュが悲鳴を上げる。彼の手も震えていた。圧倒的な「個」の暴力が、理詰めの戦術をねじ伏せようとしていた。
義経は、その光景を冷徹な目で見つめていた。
焦りはない。あるのは、状況を再計算する冷たい思考だけだ。
(罠は破られた。ならば――)
義経は、静かに腰の湾曲刀を引き抜いた。
「ボオルチュ。全軍に伝令を出せ。『持ち場を捨て、本隊に合流せよ』と」
「はっ!? で、ですが、それでは包囲が解けてしまいます!」
「構わん。これ以上、分散して戦えばすり潰されるだけだ。生き残った者だけで密集陣形を組み直す」
義経は、愛馬の首をポンと叩いた。
「それと、もう一つ」
彼の声の調子が、一段低くなった。
「私について来い。死にたくなければな」
義経は馬腹を蹴った。
彼が向かったのは、安全な後方ではない。
ジャダランの兵たちが蟻のように群がり、味方が虐殺されている、最前線の谷底だった。
「なっ……!? しょ、将軍!?」
ボオルチュたちは度肝を抜かれたが、慌てて後を追った。
義経は、馬上で自ら弓を引き、斜面を登ってくる敵兵を次々と射落としながら、急勾配を一気に駆け下りた。
鵯越の逆落とし。かつて日本の戦史に残る伝説的な機動を、この異国の地で再現したのだ。
ドォォォン!
義経の馬が、谷底の敵集団のド真ん中に着地した。
泥飛沫(しぶき)が上がり、数人のジャダラン兵が馬の体当たりを受けて吹き飛ぶ。
「な、何だ!? 敵将が降りてきたぞ!」
「囲め! 殺せぇッ!」
獲物が自ら飛び込んできたことに、ジャダラン兵たちが色めき立ち、殺到する。
だが、その瞬間。
彼らは見た。
馬上の男の瞳を。
そこには、恐怖も、興奮も、怒りすらなかった。
あるのは、底なしの虚無と、人間を肉塊に変えるための冷徹な計算だけ。
ヒュンッ。
義経の太刀が閃いた。
日本の刀とは違う、反りの深い湾曲刀。だが、その扱いは、京の都で数多の剣豪たちと渡り合った達人のそれだった。
先頭の男の首が飛び、二人目の男の胴が両断され、三人目の男の兜が頭蓋骨ごと叩き割られた。
三つの動作が、ほぼ同時に行われたように見えた。
「あ……?」
四人目の男が、目前の惨状を理解できずに立ち尽くす。
義経は、返す刀でその男の喉を突き刺した。
速い。そして、無駄がない。
ジャダランの騎士たちの戦い方が、力任せの大木を薙ぎ倒すような斧の一撃だとすれば、義経の剣技は、急所のみを正確に切り裂くカミソリだった。
「キェェェェッ!」
義経の口から、鋭い気合がほとばしる。
修羅の領域に入った彼は、もはや人間ではなかった。血に飢えた蒼き狼そのものだった。
彼が馬を進めるたびに、血飛沫が舞い上がり、敵兵の断末魔が響く。
たった一騎の乱入が、谷底の混沌をさらに加速させた。
「の、退けッ! こいつはヤバイ!」
「近寄るな! 斬られるぞ!」
先ほどまで獲物を狩る目をしていたジャダラン兵たちが、恐怖に顔を引きつらせて後退り始める。
彼らは「強い戦士」は知っていたが、「殺戮の専門家」は見たことがなかった。
その隙に、丘の上から撤退してきたボオルチュたちの手勢が、義経の周囲に集まり始めた。
生き残った兵は、三百騎ほどに減っていた。だが、彼らの目は違っていた。
彼らは見たのだ。自分たちの将軍が、単騎で敵の只中に飛び込み、修羅の如き強さで戦況をこじ開ける姿を。
恐怖は、熱狂的な崇拝へと変わった。
「密集方陣(ほうじん)を組め!」
返り血で真っ赤に染まった義経が、低い声で命じた。
「ここが死線だ。一歩も引くな。来る敵は全て斬り捨てろ」
三百の「蒼き狼」たちが、義経を中心に、ハリネズミのように刀と槍を外に向けて密集する。
彼らは、もはや数に怯えてはいなかった。
その中心で、義経はゆっくりと息を吐き、刀についた血糊を振るい落とした。
彼の視線は、谷の向こう側、丘の上で指揮を執る黄金の鎧の男――ジャムカを捉えていた。
(さあ、どうする。私の罠は破った。だが、私の牙はまだ折れていないぞ)
泥沼の消耗戦が、始まろうとしていた。
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