第19話 泥濘の消耗戦
丘の上から戦況を見下ろしていたジャムカは、ギリギリと奥歯を噛みしめた。
「……あの男、化け物か」
彼の自慢の精鋭たちが、谷底に密集したわずか三百ほどの敵集団を攻めあぐねていた。
蟻が獲物に群がるように四方八方から襲いかかっているにもかかわらず、義経率いる「蒼き狼」の群れは、驚くべき頑強さで持ちこたえているのだ。
彼らは、草原では見たこともない奇妙な陣形を組んでいた。
馬を降り、盾を隙間なく並べて壁を作り、その間から長槍を突き出す。まるで、泥の中にうずくまった巨大な鉄の亀だ。
ジャダランの騎士たちは、個人の武勇を競うあまり、連携が取れていない。我先にと突っ込んでは、槍の襖(ふすま)に阻まれ、突き殺される。運良く壁を突破した者も、内側で待ち構える義経の兵たちに集団でなぶり殺しにされた。
「ええい、じれったい! 何をしている! 数で押し潰せと言っているのだ!」
ジャムカの怒号が飛ぶ。
だが、谷底は先刻の戦いで死体と泥にまみれ、足場が最悪だった。後続の部隊が押し寄せれば押し寄せるほど、現場は混乱し、身動きが取れなくなっていく。
その泥沼の中心で、義経は冷徹な指揮者として君臨していた。
「右翼、槍が低い! もっと構えろ!」
「左翼、敵が怯んだぞ! 一斉に突き出せ!」
彼の声は枯れることなく、的確な指示を飛ばし続ける。
返り血で赤鬼のようになった彼の姿は、味方には無限の勇気を、敵には底知れぬ恐怖を与えていた。
ボオルチュは、盾を構えながら、隣で指揮を執る義経の横顔を盗み見た。
(この人は……楽しんでいるのか?)
極限の消耗戦。一歩間違えれば全滅する状況下で、義経の瞳は昏(くら)い情熱を帯びて輝いていた。それは、かつて京の都で、死と隣り合わせの日々を送っていた頃の感覚が呼び覚まされたが故の輝きだった。
「クロウ! 貴様の首は俺がもらったぁ!」
その時、敵陣の中から一際巨大な男が飛び出してきた。
ジャダラン軍きっての猛将、身長が七尺(約2メートル)はあろうかという巨漢だ。彼は巨大な戦斧を振り回し、味方の盾を砕きながら強引に突破口を開いた。
「ひいっ!」
義経軍の兵士が悲鳴を上げて後退り、陣形に亀裂が入る。
巨漢はニヤリと笑い、真っ直ぐに義経を目指した。
だが、義経は動じなかった。
彼は静かに刀の切っ先を下げ、自然体で男を待ち受けた。
「死ねぇッ!」
巨漢が戦斧を振り下ろす。空気を切り裂く轟音。まともに喰らえば、兜ごと頭が砕け散る威力だ。
刹那。
義経の体が、陽炎(かげろう)のように揺らいだ。
ドォォン!
戦斧が空しく地面の泥を叩く。
次の瞬間には、義経は巨漢の懐に入り込んでいた。
「遅い」
冷たい囁きとともに、義経の湾曲刀が、鎧の隙間である脇の下から心臓へと突き入れられた。
「が……ぁ……?」
巨漢は、何が起きたのか理解できないまま、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。
義経は、男が倒れる前に刀を引き抜き、次の敵へと向き直った。
まるで、道端の石ころを退けたかのような、何の感慨もない動作だった。
ジャダラン軍の猛攻が、一瞬止まった。
彼らの誰もが知る最強の戦士が、子供扱いされたのだ。
「……見たか」
義経は、周囲の兵士たちに低い声で語りかけた。
「個の力など、この程度だ。恐れるに足らん」
彼の言葉は、兵士たちの心に絶対的な自信を植え付けた。
「俺たちの将軍は無敵だ」「俺たちは負けない」
「押し返せぇッ!」
ボオルチュの号令で、三百の兵が一斉に雄叫びを上げ、槍を突き出して前進した。
疲労と恐怖で足が止まっていたジャダラン兵たちが、たまらず後退を始める。
日が傾き、夕闇が戦場を包み込み始めていた。
泥と血の臭いが充満する谷底で、両軍の意地と意地がぶつかり合う消耗戦は、決定的な決着がつかないまま、終わりの時を迎えようとしていた。
丘の上で、ジャムカは苦渋の決断を下した。
「……退け」
「は? しかし、ジャムカ様! あと少しで……」
「見えんのか! 兵は疲弊しきっている。これ以上続けても、いたずらに死体を増やすだけだ!」
ジャムカは、血を吐くような思いで撤退命令を出した。
彼のプライドはズタズタだった。圧倒的な兵力差がありながら、あの小賢しい異邦人を仕留めきれなかったのだ。
撤退の法螺貝(ほらがい)が鳴り響く。
ジャダラン兵たちは、安堵の表情で潮が引くように谷から去っていった。
谷底には、おびただしい数の死体と、泥人形のようになった義経軍の三百人が残された。
勝利の歓声はなかった。全員が、泥の中にへたり込んだ。生きていることが信じられない、といった様子だった。
その中でただ一人、義経だけが立ったまま、去りゆくジャムカの軍勢を見つめていた。
彼の体も限界に近かった。だが、その精神は研ぎ澄まされていた。
(勝ってはいない。だが、負けてもいない)
この引き分けは、戦略的には大きな意味を持つ。
「ジャダランの不敗神話」が崩れたのだ。
それは、草原の他の部族たちに、大きな衝撃を与えるだろう。
義経は、泥にまみれた手で、懐の短刀を確かめた。
「……次は、こうはいかんだろうな」
彼は知っていた。ジャムカは必ず、今日の屈辱を晴らしに来る。次はもっと周到に、もっと大規模な力で。
だが、義経の口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
それでいい。相手が強ければ強いほど、それを喰らった時の力は大きくなる。
蒼き狼の、長く険しい覇道が、血塗られた一歩を踏み出した瞬間だった。
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