第6話 そして、夜が明ける

 翌朝。


 私は、団地の植え込みにもたれかかるようにして、いつの間にか眠り込んでいた。団地の棟の間に朝日が強く差し込み始めている。全身の関節が軋むような痛みを感じながら、私はゆっくりと体を起こした。


 彼女が昨夜行ったライブ配信は、深夜のSNSで爆発的な拡散を見せていた。


 匿名の噂や都市伝説として処理されてきた佐々木恵美の事件が、団地住民による具体的な証言と、私自身の恐怖体験を伴って公開されたことで、「T団地三十年前の未解決事件の真相」という見出しが、次々とニュースサイトのトップを飾ることとなった。


 私の告発は、団地の内部に深く澱んでいた悪意を、公の光の下に引きずり出したのだ。


 数日後、警察が四号棟へ再捜査に入った。三十年前の佐々木恵美の転落死は、正式に事件として再調査されることになったのだ。当時の住人たちへの事情聴取が始まり、団地の長きにわたる秘密が、静かに崩壊していく。




 私の家族は、娘がネットで騒がれる中心人物となってしまったことに耐えられず、すぐにこの団地を離れることを決めた。そして今日が、この階段を上る最後の日だ。


 私は四号棟の階段を上った。


 太陽の光は、昨日までと変わらず、ところどころ苔の生えた階段に差し込んでいる。階段は古びており、油断すれば滑りそうなほど汚れている。しかし、昨日までのあの重苦しく、人を窒息させるような「澱んだ空気」は、もはや感じられなかった。階段は、ただの古い建築物に戻っていた。


 私は知っている。この階段の踊り場は、もう誰かの魂を縛り付ける場所ではない。


 私が四階と五階の間の踊り場に差し掛かった時、私は立ち止まった。下半身のない少女の姿は、二度と人の目に映ることはないだろう。自分の部屋に戻り、最後の荷物を持った私は、再び踊り場へ向かう。


 私は、自分の足元、コンクリートと錆びた鉄骨の隙間に、朝日を浴びてひっそりと咲いている小さな、赤い花を見つけた。


 それは、団地の悪意とコンクリートの冷たさに抗うかのように、か弱く、しかし力強く、そこに咲いていた。


 それは、三十年間、存在を否定され、切り刻まれた少女の魂が、真実によってようやく解放され、この世界に根付かせた、かすかな命の痕跡のように見えた。


 私は、その花に別れを告げるように、目を細めた。そして、階段を足取り軽やかに降りて行った。私の役目は、終わったのだ。


 私は深く息を吸い込み、そして、団地と、そこに残した全ての過去に背を向け、一歩を踏み出した。


 アスファルトを踏みしめる足裏には、確かな生の実感が伝わっていた。






(C),2025 都桜ゆう(Yuu Sakura).

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踊り場の女 都桜ゆう @yuu-sakura

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