第5話 悪意の残滓との壮絶な対決

ヒュッ……


 ヒュッ


 ズリッ……!


 廊下を這うような、コンクリートを何かが擦り、引きずる音が、私の正面から迫ってくる。その音は、もはや単なる怪異の気配ではない。三十年前にこの団地で集団的な悪意によって殺され、存在を否定され、肉体を切り刻まれた少女の、怒りと悲しみの具現化だった。


「来る… 来るよ! あの子は、私たち全員の悪意が作り出した怪物なんだ!」


  ハルの顔には、秘密が露呈することへの恐怖と、過去の罪の重さが込められていた。


 篠崎ハルは、顔を蒼白にして震えながら、私という存在をそこに放置し扉を閉めた。


 私の耳には、廊下の向こう端から向かってくる音が、リズムを刻まず、不規則に、しかし確実に、迫ってくる。それは、下半身を失いながらも、私を捕らえようと、執拗に床を掻きむしる怨念の音だった。


 私は自分の部屋に逃げ込むか恵美と対峙するか、瞬時に判断した。


 ただ逃げるだけでは、この団地の呪縛から逃れられないことを知っていた。恵美を殺したのは、突き落とした個人の罪だけでなく、その真実を三十年間隠蔽し、恵美の死を事故として押し潰し続けた団地の住人たちの集団的な悪意なのだ。この悪意の残滓を断ち切らなければ、彼女は永遠に階段の「風景の一部」にされてしまう。


 私は、覚悟を決めて恵美の方に向かって走り出した。


 廊下の床を力強く這い進んできた恵美が私に向かって手を伸ばした。その彼女を飛び越えて階段へ向かう。あと一歩のところで私の足元を捕らえられずに終わった恵美の手は空を切った。


 後ろで向きを変える気配を背中に感じながら、一気に数段飛ばしで駆け下りた。下半身のない女の這う速度は、階段を降りる私の勢いには追いつけなかった。


 私は、一階からそのまま敷地の地面へと飛び出した。


 怪異の支配する棟の影から逃れ、広い視野を確保できる道路側へと移動した私は、四号棟の外付け階段をまっすぐに見上げた。冷たい夜風が私の火照った顔を冷やす。


 そして、五階へ続く踊り場。


 私は、そこに立っている恵美の姿を、はっきりと捉えた。昨日までの幻影とは比べ物にならないほど、その姿は鮮明で、生々しい。下半身のないセーラー服の少女。白いブラウスには、乾燥した血液のような茶色い染みが広がり、彼女の凄惨な最期を物語っていた。


 彼女は、団地の外から見上げる私に向かって、微かに首を傾げた。それは、怒りというよりも、「なぜ、部外者のあなたが、私に干渉するのか」という、理解できない悲しみを湛えた問いかけのように見えた。


 私は、自分が今、恵美の怨念と、そしてそれを生み出した団地の悪意という、二つの巨大な力に挟まれていることを理解した。この階段の五階へ続く踊り場は、彼女が唯一存在を許された場所。団地の住人たちの悪意が、彼女の存在を否定し、このコンクリートに縛り付けているのだ。私は、静かに、しかし決然とした意志を込めて、唇だけでその決意を紡いだ。


「私が、あなたの秘密を、世界に引きずり出す!」


 私は、ポケットからスマホを取り出し、震える指先でカメラを起動した。五階へ続く踊り場が映るようにスマホを固定し、ライブ配信を開始した。


 私は、堰を切ったように、興奮した口調で話し始めた。佐々木恵美の名前。三十年前のいじめと告発の試み。五階の住人たちによる集団的な隠蔽、そして、篠崎ハルから聞いた「階段の鉄骨に何度も打ち付けられた」という、あまりにも凄惨な最期の真相。


 私は、団地の内部に閉じ込められていた悪意の根源を、団地の外、インターネットという無数の目がある世界へ、叫ぶように叩きつけた。


 その瞬間、五階の踊り場に立っていた恵美の姿が、激しく、熱で溶けるように歪んだ。  


 彼女の体は、強い光を浴びた影のように揺らめき、輪郭が溶解していく。それは、彼女を三十年間縛り付けていた「事故」という名の虚構が、真実の力によって崩壊していく光景だった。恵美の姿が消滅した場所には、団地の壁や階段に深く染み付いていた、住民たちの集団的な悪意の残滓が、巨大な黒い靄もやとなって凝縮した。


 その黒い靄は、団地全体を飲み込むような巨大な影となり、階段を滑り落ちて、私を押し潰そうと、猛烈な速度で迫ってきた。


 それは、恵美の怨念ではなく、彼女を殺し、三十年間この団地に澱み続けた悪意そのものが、秘密を暴露した私を「風景の一部」として永遠に吸収しようとする、最後の、そして最も強力な抵抗だった。


 私は、スマホを握りしめ、全身の力を込めて、その言葉の全てに真実を宿らせるかのように、静かに配信のマイクに向かって、その魂を込めた言葉を叩きつけた。


「もう誰も、あなたを忘れない! あれは、事件だったんだ!」


 私の心の中で、恐怖は消え去り、真実を求める意志が、燃え盛る炎となった。その純粋な覚悟の光が灯った瞬間、団地の壁を覆い尽くさんとしていた黒い靄の動きが、一瞬で停止し、そして、急速に霧散していった。まるで、太陽の光に晒された古い闇が消え去るように。


 団地の夜は、静寂に戻った。見上げると五階へ続く踊り場から、恵美の姿が、光をまとい空へ登っていく姿が見えた。あとにはただ、汚れたコンクリートの壁と、錆びた鉄の手すりが、静かに存在するだけだった。


 私は配信を終え、その場に崩れ落ちた。全身の力が抜け、彼女はただ、夜空を見上げていた。


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