第4話 閉ざされた過去と共犯者の動揺
田村さんの証言で、私の心の中にあった漠然とした恐怖は、三十年前に起きた凄惨な事件という明確な実体を得た。しかし、田村さんの口からは、これ以上の核心的な情報は引き出せなかった。彼は、長年団地の管理に携わる中で、知りすぎた故の諦めと、これ以上関わりたくないという強い拒否感を漂わせていた。
私は、団地の内部にいる「過去の生き証人」、つまり恵美の事件の真相を知り、そしてそれを隠蔽し続けている当時の住人を探すことに決めた。手がかりは、「当時佐々木恵美と同じ五階に住んでいた古株の住人」という情報だけだ。
四号棟の五階には四世帯ある。階段側から、最近引っ越してきたばかりの若い夫婦の部屋、その隣が私の部屋。さらに隣は空室、残る一軒、廊下の一番奥に位置するその部屋の玄関プレートには、長年の風雨で薄れた文字で「篠崎」と書かれていた。この部屋だけが、団地の歴史と共に時を刻んできた古株のようだった。
土曜日の夜、午後七時。団地の廊下は、蛍光灯の青白い光が寂しく空間を照らしているだけで、住人たちの生活音はほとんど聞こえない。団地の夜は、いつもこんなにも静かで、重苦しい。
私は、極度の緊張で手が震えるのを感じながら、篠崎家のドアチャイムを押した。
しばらくしてドアが開き、疲れ果てたような表情の、白髪交じりの高齢女性が顔を出した。八十歳前後の篠崎ハル。その目には、常に何かにおびえているかのような、深い警戒心と、長い人生で何かを隠し通してきた者の陰りが宿っていた。
「あの、篠崎さん。二つ隣に住む私といいます。学校の課題で、昔の団地の生活について少しお伺いしたいことが……」
私は、平静を装うのに必死だった。
「うちには何も話すことはないよ。悪いけど、今は忙しいから」
ハルさんはすぐにドアを閉めようとする。その拒絶の姿勢は、まるで秘密の壁を築いているかのようだった。
「待ってください!」
私は反射的に、ドアを閉めようとするハルさんの手に触れた。
「佐々木恵美さんのことを、ご存知ないでしょうか? 三〇年前に、この階段で事故にあった……」
私が「佐々木恵美」の名前を、そして公的に隠蔽された事件のキーワードである「事故」という言葉を口にした瞬間、ハルさんの顔色が、文字通り、一瞬で紙のように白く変わった。その瞳は驚愕と恐怖で大きく見開かれ、その反応は田村さんの比ではなかった。
「あんた……、 その名前をどこで……」
ハルさんは震える声で呟き、周囲の廊下を激しく見回した。誰かに聞かれることを、彼女は心の底から恐れているようだった。そして、次の瞬間、私の腕を乱暴に掴み、力を込めて玄関へと引き入れた。
奥に見える古い畳と、埃っぽい家具。そして、カビと線香、そして何か古い匂いが混ざり合った、団地特有の、重い匂いが鼻をついた。ハルさんは、すぐにドアに鍵をかけ、私を部屋の奥まで通すことを恐れ、玄関で自室に背を向けるように立ち、向かい合う格好で話し始めた。
「誰にも、誰にも聞かれてないだろうね!? あのことは、この棟で、五階の住人たちで、封印された話なんだから……」
ハルさんは、私の質問に答えるというよりも、三十年間胸に閉じ込めていた秘密が、制御不能な形で溢れ出すのを恐れているようだった。
そして、ハルさんは震えながら、当時の五階の人間関係の、あまりに陰湿な暗部を語り始めた。団地の自治会やPTAを巡る、主婦たちの激しい派閥争い。恵美の母親がその争いで孤立し、真面目で内気な恵美が、無理をして母親を守ろうとしていたこと。
「恵美ちゃんはね、派閥の中心人物だった奥さんの、とても悪質な不正を、偶然知ってしまった。それを、彼女は勇気を振り絞って、自治会で告発しようとしたんだ」
「告発……」
私は、その勇気ある行動と、その後の悲劇の関連性に、息を呑んだ。
「そう。でも、五階の住人は、皆がその奥さんと利害関係で繋がっていた。誰も恵美ちゃんの証言を信じなかった。それどころか、彼女たち五階の住人全員が、恵美ちゃんを『精神的に病んでいる』『嘘つきだ』という噂を流して、集団で潰しにかかったんだよ」
私は、全身の血が逆流するような感覚を覚えた。あの下半身のない怪異は、単なる霊ではない。それは、集団的な悪意によって、存在そのものを否定され、現実世界から切り離された少女の、怒りと絶望が形となって現れた姿だったのだ。
「恵美さんが『自分の足が見えない』って怯え出したのも、その頃だ。彼女は、生きながらにして、存在を消されようとしていた。その絶望が、彼女の体を精神的に切り離し、あの階段の澱んだ空気に取り込まれていったんだ……」
ハルさんは、顔を覆い、しゃくりあげるようにすすり泣いた。
「そして、あの夜。私は聞いてしまった。階段の踊り場で、誰かが激しく争う声を。そして、ドスンッ! という、重たいものが落ちる、鈍い音を……」
ハルさんは顔を上げ、恐怖と罪悪感と、そして私への警戒心が入り混じった目で私を見た。
「警察には、事故だと報告した。五階の住人全員で、そう言い張ることにした。真実がバレたら、私たち全員が、殺人幇助か、共犯に問われる。私たちの平穏な生活と、団地の評判を守るために、私たちは恵美ちゃんの死を、『階段の事故』として、集団で押し潰したんだ」
そして、ハルさんは、震えながら、しかし明確な声で、最も恐ろしい核心を告げた。
「あの下半身の損傷はね、ただ落ちただけじゃないよ。争っているうちに、誰かが階段の鉄骨に、恵美ちゃんを何度も強く打ち付けた。何度も、何度も。止めに入る人間は、誰一人いなかった。それが、五階の住人全員が共有している、団地の、恐ろしい秘密なんだよ。」
私は、体中の血が冷え切るのを感じた。あの踊り場に立つ女は、人間の悪意によって存在を否定された佐々木恵美の怨念そのものだった。
「……ありがとうございました」
私はハルに背を向けると、これ以上この澱んだ空気に留まる必要はないと判断した。
ドアノブに手をかけた瞬間、ハルさんの手が私の腕を掴んだ。その手は、まるで氷のように冷たく、震えていた。
「あんた、知ったからには、もう終わりだよ… …。あの女は、秘密を知った人間を許さない。あんたも、この階段の、風景の一部にされてしまうんだ!」
その言葉が呪いのように私の耳に響いた。ハルさんの手をそっと解き扉を開け、突然の訪問を再度詫びようと彼女の方に振り向いた。その時、私の左手側、廊下の突き当りの階段から、冷たいコンクリートの怪談を上がってくる何かが力強く擦る音が、確実に近づいてくるのが聞こえた。
ヒュッ……
ヒュッ……
ズリッ……
ズリッ……
それは、下半身のない体が、階段という構造物に阻まれながらも、私を捕らえようと、執拗に体を引きずって這い登ってくる音だった。
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