第3話 古びた証言の核心と断片

 次の日、土曜日。私は、極度の緊張を押し殺し、決意を持って管理人室へと向かった。


 団地の隅にひっそりと佇むその小さなプレハブ小屋は、団地の長い歴史と秘密が、濃厚に澱んでいる場所のように思えた。


 団地ができた頃から住み込みで働いている田村さんは、白髪交じりで、団地の築年数そのものを体現しているような老人だった。彼の目は、多くの出来事を見てきたせいか、どこか遠い過去を見つめているようで、深い諦観が滲んでいた。


 私は「学校の課題で、昔の団地の生活について調べている」と嘘をついた。そして、コンビニで買った温かい缶コーヒーを田村さんに差し出した。


「田村さん、この四号棟って、昔からあまり変わっていませんよね。特に、外付けの階段とか。」


 私は、声が上ずらないように努めながら、探りを入れた。


 田村さんは缶コーヒーを受け取り、一口飲んでから、窓の外の四号棟にぼんやりと視線を向けた。その動作一つ一つが、重く、ゆっくりとしている。


「四号棟か。あそこはな、昔からちょっと澱んでるんだ。日が当たりにくいせいか、住人が入れ替わっても、空気だけは変わらない。」


 私は、自身の感じていた「澱んだ空気」が、この団地の住民たちの間では、暗黙の了解だったことに戦慄した。それは、物理的な現象ではなく、この場所に根付いた精神的な重さなのだ。


「階段ね。まあ、事故はあったよ。古い団地だ。三十年も経てば、色々あるさ」


 田村さんは、そう言いながら、少し声を潜めた。


「特に四号棟で、階段の事故があったと、インターネットで見たんですが」


 私は、情報源を曖昧にごまかしながら、核心に迫った。


「……もう三十年近く前になるかね」


 田村さんは、組んだ両手に顎を乗せ、重い口を開いた。


「当時、五階に住んでた佐々木ささき恵美えみっていう高校生がいた。真面目で、控えめな子だったが。あの子がな、夜中に階段から落ちたんだ」


 噂と、私の脳裏に焼き付いた怪異の姿が、鮮明に重なり始める。私は、唾を飲み込んだ。


「警察は、事故処理した。夜中に階段で足を滑らせた、ってな。だがな、あの時の状況は、誰も事故だとは思ってなかったよ」


 田村さんは缶コーヒーを再び手に取り、私の目を見据えた。彼の目には、遠い過去の惨劇を再び目撃しているかのような、痛みが見て取れた。


「発見されたのは、四階と五階の間の踊り場。遺体の損傷が凄まじくてな。特に下半身。ただ落ちただけじゃ、あんな風にはならないと当時の消防隊員の一人が、口を滑らせたのを、こっそり聞いたんだ」


 私の全身から、血の気が引いていくのが分かった。下半身のないセーラー服の女。四階と五階の間の踊り場。彼女がこの目で見た恐怖の光景は、三十年前、この場所で起きた凄惨な事件の、最も生々しい瞬間を映し出していたのだ。


「恵美さんは、誰かに恨みでも買っていたんですか? それとも……、いじめとか」


 私は、震える声で尋ねた。


 田村さんは首を振った。


「いや。むしろ真面目ないい子だった。ただ、事故の直前、奇妙なことを言っていたと聞いた」


 田村さんは再び周囲を警戒し、さらに声を落として囁いた。


「恵美ちゃんは、団地の階段で、『自分の足が見えない』って、ずっと怯えていたらしい。『暗くなると、階段の踊り場に立っているのに、腰から下が無くなってしまう』って。誰にも信じてもらえなかったがな」


 私の背中に冷たい汗が流れた。佐々木恵美は、事件に遭う前から、既に自らの存在の否定という呪いに侵されていた。誰も信じてくれない。自分が確かにそこに立っているのに、誰も見てくれない。その絶望が、彼女の体を精神的に切り離し、そして……。


 田村さんの話は、恵美の転落死が、単なる事故ではなく、この団地の住人たちが作り出した集団的な悪意の帰結であり、秘密裏に処理された事件であることを明確に示していた。  


 私は、この過去の事件の真相、そしてあの怪異の正体を突き止めるためには、この団地の闇の核心に触れる必要がある。それは、恵美の死に関わり、今も五階に住み続けている、過去の共犯者に他ならない。

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