キャッチライト
キャッチライト
作者 綿貫 ソウ
https://kakuyomu.jp/works/16818093087727338867
親に愛されず「自分は生きる価値がない」と信じていた尾崎真宙は自殺するが、残された恋人の蒼生と友人の翔太は深い喪失と罪悪感を抱えながらも、死んだ真宙の分まで日常を取り戻そうと必死に生きる、喪失の先の物語。
尾崎真宙が家族の不幸を背負いつつ、写真を通じ感情や生きている証を追い求める姿に目が潤んでしまった。尾崎と翔太、蒼生の複雑な関係が物語に深みを与えている。
描写はリアルかつ繊細で、若者の苦悩や家族の問題を丁寧に掘り下げ、現代社会の影も映し出している。
回想の重複でテンポが損なわれているが、青春の悩みや辛さを悲劇で終わらせず、希望と成長を示す構成が深い余韻を残す。青春小説として、高い完成度を誇る一作だ。
メイン主人公は、男子高校生の山田翔太。一人称、僕で書かれた文体。尾崎真宙は俺、藤原蒼生は私で書かれ、視点が章ごとで一人称の主人公が完全に切り替わるため読みやすい。短文と長文をリズミカルに混ぜ、感情の起伏があり、比喩が独特で印象に残り、セリフがリアルで高校生らしい。性的描写も自殺描写も容赦なく書くが、決して扇情ではなく「痛み」として描かれていて、純文学的な香りを残しつつもエンタメとして読みやすい。
二重構造型対比葛藤曲線に純文学的日常叙景型を重ね、尾崎真宙は女性神話、山田翔太は男性神話、藤原蒼生は女性神話の中心軌道に沿って書かれている。
三幕八場の構成となっている。
一幕一場 始まり
山田翔太は写真部に所属する、ごく普通の高校二年生である。写真が好きで、将来は写真家になりたいと夢見ている。しかし自分の才能に自信がなく、周囲とうまく馴染めないでいた。中学時代から片思いだった藤原蒼生に声をかけられず、ただ遠くから見つめるだけの臆病な少年だった。そんな彼の日常にクラスメイトの尾崎真宙が突然踏み込んでくる。尾崎は無表情で感情が読めないが翔太の写真を鋭く見抜き、「すげえな」とだけ言い放つ。二人は放課後に一緒に帰るようになり、写真と音楽の話でだけ通じ合う奇妙な友情が生まれる。翔太は尾崎の遠くを見る目にどこか惹かれ、尾崎と話しているときだけ、自分の写真に未来が見える気がしていた。
二場 目的
夏休み明け、尾崎が蒼生と付き合い始めたことを告げる。翔太は胸が締め付けられる思いを抱えながらも笑顔で祝福する。尾崎が蒼生の話をするときの僅かな表情の変化を見て、翔太は自分の役割を決める。二人の幸せな瞬間を写真に収め続けること。それが、蒼生を諦めた翔太にできる唯一の贖罪であり、尾崎との友情の証だった。レンズ越しに見る二人の笑顔は翔太にとってかけがえのない光景となる。
二幕三場 最初の課題
ある日、尾崎が突然姿を消した。数日後、翔太のスマホに遅延メールが届く。尾崎の遺書だった。母親に捨てられ、蒼生を傷つけた罪悪感に耐えきれず、連鎖を止めるために橋から飛び降りたと書かれていた。最後に「蒼生を見ていてくれ」と頼まれ、翔太は呆然と立ち尽くす。親友の苦しみに何一つ気づけなかった自分への怒りと、尾崎の死を止められなかった無力感が一気に襲いかかる。
四場 重い課題
蒼生は壊れていく。尾崎に襲われた夜のトラウマを誰にも言えず、笑顔の裏で涙を流している。翔太は蒼生の写真を撮れなくなる。レンズを向けるたびに尾崎の不在が突き刺さり、写真部でもカメラを握れなくなる。尾崎の願いを果たせていない。蒼生は日ごとに痩せ、ついに姿を消す。翔太は自分がまた何もできなかった現実を突きつけられる。
五場 転換点・状況の再整備
尾崎の遺書を読み返すうち、翔太は「蒼生が死にそうだったらあの橋へ行け」という一文に気づく。満月の夜、翔太は全力で走る。橋に着くと、欄干の外側に蒼生が立っていた。死ぬ覚悟を決めた蒼生に、翔太はすべてをぶつける。尾崎が蒼生を傷つけた理由、連鎖を止めたかった理由、そして中学時代から蒼生を好きだったこと。「僕が君を肯定する」と叫ぶ。風が吹き、蒼生が落ちそうになった瞬間、翔太は手を伸ばし、間一髪で引き戻す。後頭部を強く打ち、意識が遠のく。
六場 最大の課題
意識を失っている間、翔太は雪の公園で尾崎と再会。二人で走り競争をし、尾崎は「蒼生を頼んだ」と笑って翔太を光の世界へ押し出す。目覚めた翔太は現実に戻る。尾崎はもういないが、彼の願いは確かに翔太の手で叶えられた。尾崎の死は翔太を動かし、蒼生を生かした。
三幕七場 最後の課題・ドンデン返し
翔太が目覚めると蒼生の膝枕の上だった。満天の星空の下、蒼生は泣きながら生きることを選ぶ。翔太は蒼生に対して長年抱えていた「好き」という気持ちを告白笑って「今度水族館でも行かない?」と誘う。蒼生も笑った。彼女を死の淵から救い出し、尾崎の死を超えた前を向く希望を共有する。蒼生も自分の苦しみを抱えながら、生きる決意を固める。尾崎が死んだ場所で、二人の関係は友情を越え、「共に生きる」約束に変わる。尾崎の死が無駄ではなかった瞬間だった。
八場 結末・エピローグ
卒業式後、写真部の活動や後輩の若森との交流が描かれ、翔太は再び写真家としての情熱を取り戻す。翔太と蒼生は尾崎の墓参りに行く。翔太は写真の専門学校へ、蒼生は心理学部へ進む道を決める。墓前で尾崎が残した携帯が鳴り、最後のメールが届く。鼻毛が出ている翔太の写真と共に「写真は自由だ 写真家 山田翔太」と書かれていた。尾崎らしい、最高に子どもっぽい遺言。帰り道、二人は肩を並べて歩く。満月が静かに見守る中、翔太はもうカメラを置かないと決める。尾崎がいたこと、蒼生と過ごした時間をこれからも撮り続ける。尾崎真宙は死んだが、彼が残した光は確かに翔太と蒼生の中に生き続ける。
「尾崎真宙は県境の橋から落ちて死んだ」から始まる謎と、主人公たちに起こる様々な出来事の謎がどう関係し、どのような結末に向かっていくのか非常に興味が湧く。
ニュース速報のような遠景「尾崎真宙は県境の橋から落ちて死んだ」からはじまり、「転落事故、と警察が判断したのは、尾崎に死ぬ理由がなかったことと、彼の死体からアルコールが検出されたことが決め手らしい。つまり尾崎は飲酒をして、酩酊状態で橋を歩き、誤って転落したということだった。遠景の補足説明。語り手はまだ自分ごととして受け止めていない」遠景が続き、「事件性もないらしく、尾崎が死んだ次の日には葬式が行われた」近景に急接近して長いダッシュを挟んでプロローグである導入が終わって本編が開始。
いきなり山田翔太の視界に切り替わり「ドリルを抜くと、鉄板に丸い空洞ができた」以降ずっと、近景+セリフ+心情が続き、山田翔太の一人称視点の本編へ繋がっていく。
感情は一切語られず、ダッシ以降は日常へ移る構成なので、死の衝撃を遠くから見せたまま、感情を凍結させた状態で日常に放り込む。
だからこそ実習室のシーン「穴が空く」描写が異様に響く。作品全体の感情抑制のルールを一瞬で決める計算された書き出し。
作品前半には、翔太に共感しやすくなる「かわいそうさ」「人間味」「誰もが望む資質」が、かなり意識的に散りばめられている。
・かわいそうに思えること」
翔太は「本当は写真家になりたいのに、工業高校で就職コースに乗っている」「卒業制作や進路を前にして、自分は本当に就職する気があるのか分からない」と悩んでいる。具体的には、製図で線を何度も消して「こんなはずじゃなかった」と紙をぐしゃぐしゃにしてしまう場面が、人生の行き詰まりを象徴している。
実習でドリルの径を間違え、「これじゃネジ入れたとき隙間できちゃう」と指摘されるなど要領の悪さ、不器用さが繰り返し描かれている。さらに教科書をよく忘れてジュースを奢らされる契約で損をしており、バイトもしておらず「百五十円すら重い」経済的な弱さも示されている。
写真が生きがいだったのに、尾崎の死をきっかけに「その日から、僕は写真を撮らなくなった」と語られる。家では、長年使った一眼レフや受賞盾をクローゼットにしまい、「読まない本や子どもの頃のオモチャを処分したときのような空虚なスッキリ感」でごまかしている描写が、喪失感と諦めを感じさせている。
放課後、ただスマホで中身のない動画を見続け、充電が切れた真っ暗な画面に映る自分の顔を見て「少しだけ泣いた」とあります。
「やることがない」「なにがしたいんだろう」と時間だけが過ぎていく描写が、虚しさと自尊心の低さを強調。イケメンで頭がよく、人望もある尾崎と自分をくらべ「人生ガチャ」を反芻しながら、自分は外れなのではと考え続ける。そうした比較の中で、尾崎の死を前にしても自分の小ささばかりが気になってしまう姿は痛々しくも可哀想に見える。
・人間味があふれること
神田にドリルを指摘されると素直に「ありがとう」と言い、教科書を見せてもらう代わりにジュースを奢る、くだらないけれどリアルな約束をしているところに高校生らしさがある。自販機で「昨日おごったから今日はおごれ」「いや昨日はお前が忘れたからだろ」とくだらない言い合いをしながら、最終的には喉の渇きに負けて買ってしまう流れも人臭い。
作業着を脱いだときの「むっとした汗の匂い」「工業高校の教室はくさい」という描写や制汗シートを回し合う場面は、綺麗事ではない生活の生々しさがある。自転車で四十分かけて帰り、シャツが体に張りつくほど汗だくになるところも、感じやすいしんどさ。
久しぶりに登校してきた蒼生に声をかけられず、「声をかけるべきだったか」「でも義務はない」「ただのクラスメイトだ」と心の中で言い訳を重ねる姿が描かれます。また写真部の「お疲れ様会」の日程を全て✕にしておきながら、「本当は予定なんてなかった」と認めるところも、逃げ腰を理解しているが変えられない人間臭さがある。
蒼生に「最近体調とか、大丈夫?」とぎこちない言葉しかかけず、自分でも不自然だと分かっている。それでも「このまま放っておくことはできない」と感じてしまうところに、弱さと優しさをもった人間味がある。
尾崎の葬式で、皆の涙を見ながら「芸能人の葬式みたいだ」「一か月もすれば忘れる」と冷笑的に考えてしまう場面は、きれいごとだけではない感情を正直に描き、同時に自分も尾崎のことを深く知らなかったと認めることで、「他人ごとにしてしまう自分」への自覚もあってリアルに感じる。
・誰もが望むような資質
写真部では部長として、最後のコンテストで結果が出なくても、部会にはきちんと参加し、後輩に「がんばれよ」と声をかけている。勝手に撮った尾崎の写真で賞をとった経緯を本人にちゃんと説明し謝罪しているところから「ズルさ」より「誠実さ」が勝っている。
蒼生が涙を見せたとき「僕が尾崎が死んだ理由を探すよ」と、自分から動くことを宣言。罪悪感からだが、「一番苦しんでいる彼女を放っておけない」優しさがなければ出てこない言葉だ。
写真では、入学式から何年も撮り続け、全国大会で銀賞を取るほどの腕前。また、尾崎の死が「事故か自殺か」分からない中、「本当にそうなのか?」と考え続け、蒼生と一緒に公園や水族館を巡り、断片的な違和感を手がかりにする姿は、諦めの早い性格とは逆に、本気を出せばできる人という印象を与えている。
尾崎の葬式で、周囲の悲しみ方が「芸能人とファン」のようだと分析しつつ、「一番悲しいはずの蒼生が泣いていないが、ここにいる誰よりも悲しんでいるように見えた」と感じ取っている。実習室や教室、水族館や公園の空気、匂い、光の描写が細かいのは、彼自身が人や景色をよく見ているからで、観察眼は写真家としての資質である。
こうした描写から、完璧でないからこそ身近で応援したくなる主人公として共感し読み進めていく。
本作の良さは多い。キャラクターが十代の可愛らしさが表現されている。尾崎真宙の照れ隠しの「ださいよな」という言葉、山田の鼻毛が写った写真、蒼生の見せる涙顔など、感情豊かで等身大の人間味が表れている。こうした細かい個性描写が親しみを生み、共感を深めている。
泣けるシーンが連続で次が気になる展開で、例えば尾崎の苦悩や家族との葛藤、蒼生の自殺未遂といった衝撃的で感情揺さぶる場面が続き、次をすぐ読みたいと興味を保つ構成になっている。
性的描写や自殺描写の容赦ない過酷な現実を描きつつ、読後に「救われた」と感じる感情の解放と希望を絶妙に調和させている。この絶妙なバランスが物語全体の重みと魅力を増している。
尾崎が卒業研究で作った「過去からのメールを受け取れる携帯電話」という装置が物語に新たな深みを加え、時間の流れを超えた感情の繋がりや救済の象徴として機能しているのが秀逸だった。
死後のシリアスな展開にもかかわらず、最後に山田の鼻毛が写った写真を送ることで、死んだ尾崎が笑わせるという「究極の読後感」を生んでいる。悲劇の中に人間味とユーモアが同居しているのが魅力だった。
比喩や描写もよく描かれている。写真の「キャッチライト」(被写体の瞳に映る光)が心の輝きと重なり、登場人物の内面の明るさや感情の交流を象徴的に表現している。単なる光の反射以上の意味を持ち、登場人物の感情変化やつながりを強調している。
雪が静かに降り積もる公園で、「僕と彼の間に一つの壁を作る」描写は、二人の心の距離や孤独感を直接的に訴えかける。「雪が邪魔で、全ての形を見ることができない」ことで表情の読み取りが難しくなり、感情のもつれや複雑さを表している。
心情描写において、「声が震えそうになった」「胸が太い針で刺されているように痛んだ」「涙が充血した瞳を伝い落ちていく」など、身体感覚を使って感情の痛みや悲しみをリアルに伝えている。
会話の中で照れやすれ違い、不安などがしっかり描かれ、無言の間合いや声の震えが感情を補完し、一文のセリフ以上の意味を持たせている。
風や光の自然描写とも連動しており、「冷たい風が頬をなでる」「満月の光が淡く照らす」など、登場人物の心理状態や物語のムードを自然描写に投影している。
日常の細やかな情景のなかに心情や人間関係の深い闇や輝きを映し出すことで、読者の感情移入と物語への没入を強めている。
比喩や自然描写、身体感覚を用いた丁寧な心理表現が、独特の世界観と感動的な終盤の救済感を作り上げているのだ。
尾崎真宙は、短い文と長い文が極端に交互につかわれている。
文体の変化が「感情の温度」を直接表している。
真宙が完全に死にたがっている時は、「死ぬ」「そう決めた」「終わり」など文が極端に短くなる。感情が暴走する時は長文が止まらない。「俺」「ださいよな」など、自分を卑下する語尾が目立つ。
蒼生と付き合って希望が見えた時は、「雲の隙間からさしこむ太陽のように暖かかった」など突然長文になり、比喩が詩的になる。
性的衝動で暴走したときは文が途中で改行されまくり、意図的なリズム破壊がされていて、読み手が息苦しくなる。
翔太が必死に蒼生を止めるときは「……」と「短い叫び」が連続し、息継ぎができない臨場感が見られる。
山田翔太は、真宙よりやや丁寧で客観的。自分の無力さを冷静に分析する癖がある。「僕」「……」が多く、ためらいや空白を文で表現する。
最終話では、山田翔太+蒼生の心情は間接的に混じっている。卒業後の翔太は少し大人びて、過去を振り返る余裕が出てくる。蒼生の感情は直接一人称にはならないが、翔太の視点を通して「蒼生がこう感じているはずだ」と描写されている。
挿入される手紙やメールでは、死んだはずの真宙が再び「俺」で語る衝撃がある。文体は生前より素直で、まるで子どもが手紙を書いているような軽さ(特に鼻毛写真メール)。
褒めるべきは、一人称が切り替わるタイミングがいいところ。
書籍化される多くの作品は、読みやすさを考慮に入れて三人称で書かれることが多い。一人称で複数視点で書くと、切り替えることで共感が外れて集中が途切れてしまい、読み進めにくくなってしまうことがある。だから三人称一元視点で書くことを勧めている。
とにかく、章ごとで主人公を変えつつ、読みやすくする必要がある。
本作は比較的上手くできているため、集中が途切れるストレスもなく、読み進めていけた。
たとえば、真宙の自殺のあとで「僕」翔太視点に飛ぶ。読み手は一瞬混乱が生じるが、死のリアルを体感させる仕掛けともなっている。
最後のメールでまた「俺」真宙視点に戻り、死んだはずの人間が再登場することでカタルシスを生んでいる。
セリフと地の文のギャップも上手く、真宙の地の文では「俺は生きる価値がない」としながら、セリフでは「……別に」「まあね」と絶対に本音を言わない。
翔太の地の文では「僕は無力だ」としながら「写真は自由だよ!」とセリフだけは熱い。
このギャップが「高校生らしい不器用さ」を増幅させているのだ。
章ごとに主人公がかわるのを上手く使いこなした作品をあまり出会っていなかっただけに驚かされた。
読み手は三人の登場人物を順番に頭の中に憑依させられ、最後に死んだ真宙にまた憑依される。読後、圧倒される理由だ。
五感描写は、全体的にバランスよく用いられているだけでなく組み合わすことで臨場感を生み出し、特に「視覚+触覚+聴覚」で感情の起伏を表現されている。
視覚は、「早朝の大通りを、車がゆっくりと流れていく」「三年ぶりに見る祖母は、魔女のようだった。中央によったしわのなかで高い鼻だけが、異様な存在感を放っている」「夕日に染まる祖母の顔」「満月のおかげで、道に迷うことはなかった」「月明かりに照らされた、蒼生の真っ白な顔」「瞳にキャッチライトが入る瞬間」「雪の公園を背景にした鼻毛写真」「墓前に立てかけた遊園地の写真」
聴覚は、「イヤホンで洋楽を聴きながら」「平日、通勤する車のクラクションが鳴っていた」「森がざわざわ揺れる音」「下を通る川の水が岩にぶつかる水音」「スマホの着信音が部屋の穏やかさを壊すように唐突に鳴った」「折りたたみ携帯の『わっ』という懐かしい着信音」「シャッター音」「掛け時計の秒針の音」
嗅覚は、「畳の匂いのする部屋」「木々の匂いがまじった、落ち着く線香のようなにおい」「開けたアルバムからかび臭いにおい」「緑の森の匂いが鼻についた」「線香の白い煙が明るい陽射しと混ざって空に登っていく」
触覚は、「入れてくれた緑茶は濃くて苦かった(味覚と併用)」「蒼生の体温が雲の隙間からさしこむ太陽のように暖かかった」「欄干の冷たさ」「膝枕の柔らかさ」「後頭部をぶつけた強烈な痛み」「風が強く吹いて、蒼生の身体が後ろに押される感触」「雪の積もる走りにくい地面」
味覚は、「入れてくれた緑茶は濃くて苦かった」「酒を買って歩きながら飲む」「毎日たまごかけご飯かカップ麺になりそう」
また、「遠景→中景→近景→皮膚感覚」の順で描写が入るので、読み手の視界や意識が自然に場面へ入っていける。たとえば「大通り(遠景)→ベランダ(中景)→イヤホンの音と車の流れ(近景)→「自殺未遂したこの場所で」(皮膚感覚・心情)」という具合に。
感情が極端に揺れる(絶望、性的衝動、死の瞬間)では「視覚+触覚+聴覚+嗅覚」がほぼ同時に描写され、読み手の身体が実際に「震える」「冷たくなる」「吐き気がする」感覚を覚える。
描写は単なる飾りではなく、すべてが主人公の「穴」「連鎖」「生きるか死ぬか」のテーマと直結している。(蒼生の体温=「穴を埋める唯一の方法」、欄干の冷たさ=「死の世界と生の世界の境界」、着信音=「死んだはずの真宙がまだ生きている証拠」)
きれいな描写でとどまらず、自分ごととして追体験できる臨場感が有り、読後、なかなか現実に戻れず後を引く。
尾崎真宙の弱みは、自己肯定感が完全にゼロなこと。「自分が愛される価値がない」と信じきっている。他人を傷つけることを極端に恐れ、結果的に蒼生を傷つけてしまう。感情を言葉にできない。だから遅延メールという手段に頼る。
山田翔太の弱みは、自己肯定感の低さにより、行動に躊躇し無力感に苛まれること。他者を救いたい気持ちはあるが、結果的に自分を犠牲にしてしまう。過去と現実の間で自身の立ち位置を見失い易い。
数行の中におなじ言葉がくり返し使われて重複っぽく感じるところがある。「そして、という、ような、ように、みたい、ただ、何か」などの水増し表現やこそあど言葉などの指示代名詞は、ここぞというところ以外は削るか別の言葉に置き換えるかすると読みやすくなる。
構造や余韻、読後感がいい。さらに回想の多さや情報の重複を直すだけで、読みやすさが高まると考える。
尾崎真宙や山田翔太、蒼生たちの心情は複雑で繊細だ。彼らの感情や過去のトラウマ、家族関係をくり返し示すことで読み手に彼らの内面を深く理解させ、共感を促すため、ある程度の回想は不可欠。家庭環境の問題や孤独、夢の挫折、死の恐怖など、作品全体を貫くテーマを複数の回想で段階的に織り交ぜることで、尾崎の過去や死の真相を断片的に示し、徐々に全貌へと近づいていくので、回想を削ってしまえば物語の構造を壊しかねない。それでも、回想の削減や整理が必要なところがある。
情報や感情がほぼ同じ内容でくり返され、物語の流れを妨げる冗長なところ、特に第三十七話~第四十二話や第四十四話~第四十八話の家庭問題関連の重複は整理するといいのでは。また、心理描写のくり返しが過剰で、集中を散らすところは描写を短縮、象徴的表現や視点変換で置換することでテンポを改善できると考える。
当たり前だけれども、物語の核心や人物理解に不可欠なら残し、同じ内容や説明でしかない箇所は、ストーリーの流れを阻害するので削るか簡略化することで、深みを保ちながら読後の満足度を高めることができると想像する。
読後、タイトルを見直す。
重みが胸に迫ってくる。
光の描写は作品を通じて何度もくり返され、「キャッチライト=瞳に映る光」が生命感や希望、生きる意味の比喩として重層的に用いられていた。
改めて見ると、「尾崎は死んだのに山田と蒼生の瞳に光を灯し続けている」と気づき目が潤んでくる。作品を一言で言い表されたタイトルだと感じた。
最も読者の関心を引く三大要素「才能」「家庭の連鎖」「芸術で救う」を描きながら、芸術で救われる話ではなく、芸術が生と死をつなぐ伝達手段として描かれているところが珍しい。
最終話は完全な再生エンディングで、死は終わりではなく光の継承というメッセージで希望を残す赦す青春小説だった。
尾崎は天才ではなく被害者であり聖者的存在。蒼生は被害者の恋人であり加害者の救済者。翔太は傍観者であり語り手であり贖罪者といった具合に、本作のキャラクターは、それぞれの立場が常に変化し、読み手を揺さぶる構造になっているのもよかった。
三人の物語は、青春小説の枠に留まらず、痛みを誠実に描いている。彼らを誰も簡単に救えず、最終的には光を信じて歩いていくしかない結論は作者の体験に裏打ちされた真実で書かれているようで、「誠実であることは時に人を壊す」姿をまっすぐ描いている。
最近の青春ものは「繊細な若者の心」「家族のゆがみ」「死の匂い」を扱うものが多いが、本作品は一過性の心の病とは異なる、人が存在する証とは何かを問うている。一年後、五年後、十年後に読んでも陳腐化しない作品に思える。
泣けるような、よくある「売れる青春小説」ではなく、「書かずにいられなかった作品で、登場人物からは感動ではなく共存、彼らの生き方の誠実さを理解し、読者自身の今後の生き方を試す指針ともなるだろう。
いい出来だが、文章が多層的で哲学的な内容や構造も複雑なため、読み手の中には「わかりにくい」と感じやすいと思える。重複を減らし、平易な言葉や表現にし、重要なテーマは日常の出来事や会話の中で自然に描き、登場人物の名前や関係は早めに簡潔に紹介して混乱を防ぎ、重たい事柄は会話や行動を通じて描くなど工夫すると読みやすくなるのではと考える。
出来の良さから早々に残していた。
だが、本作は二〇二四年公開作品で二〇二五年に修正更新となっていた点が引っかかった。運営に確認、問題ないとわかる。でなければ選外にしていた。
本作はポプラ社小説新人賞のようなエンタメ要素もある一般文芸系新人賞や、文藝賞のような純文学、心理描写重視の新人賞などのレーベルに適している。
純文学的要素を有しつつも、読み応えあるエンタメとしての現代文学であり、若者の苦悩や家族の問題を丁寧に掘り下げ、現代社会の陰影も映し出しながら、三者の複雑な関係が物語に深みを与え、暗いテーマを単なる悲劇で終わらせず、未来への希望と前向きな成長を示す点が優れ、感動的で読み応えある良作だと思った。
回想はテーマと登場人物の心理を丁寧に描く上で効果的だけれども、重複や頻度の高さで読み疲れてしまう。その辺りの整理とバランスを取れたら、より深みのある作品となるだろう。
カクヨム甲子園では『花火と神社と団扇と』が良かったと感想を書いたことを思い出す。高校生の頃から、いい作品を書かれる片鱗があった。だから最初読んだとき、良いものに出会えたと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます