第27話 伝説の修行と粘液の盗聴網

学園対抗魔法試合の開会式を明日に控え、アークライト魔法学園はもはや狂乱のるつぼと化していた。

 校舎の至る所で、他校の生徒との小競り合いや、偵察合戦が繰り広げられている。


 そんな喧騒から隔絶された、西校舎の長い廊下。

 俺は、灰色の作業つなぎという完璧な保護色に身を包み、モップの柄に顎を乗せて休憩していた。このまま壁と同化して、祭りが終わるまでやり過ごしたい。


「……ゼクス先生ッ!!」


 背後から、熱量が高すぎる声が突き刺さった。

 振り返るまでもない。学園首席、レオナルド・フォン・ローゼンバーグだ。

 彼の背後には、今日も今日とて瓶底眼鏡のリリィが、記録係のように小走りでついてきている。


「どうか! どうか私に、必殺技(奥義)をご教授くださいッ!!」


 レオナルドは俺の目の前まで来ると、勢いよくスライディング土下座を決めた。

 俺が丹精込めてワックスがけした床が、彼の制服との摩擦でキュキュッと悲鳴を上げる。


(……汚れるだろ、やめろ)


 俺は眉間に皺を寄せた。


「お断りします。私はただの設備管理班の平社員。君たちエリートに教えることなど何もありません」


「ご謙遜を! 先生が『沈黙の書庫』で見せた、あの音すら置き去りにする動き……! あれこそ私が目指すべき頂(いただき)! 明日の試合、黒蓮学園や強豪校を相手に、今の私の魔法だけでは……」


 彼は顔を上げ、切羽詰まった表情で俺を見つめた。

 その瞳には、純粋な焦りと、強さへの渇望が燃えている。


(……面倒くさい)


 俺の心の中は、その一言で埋め尽くされていた。

 明日は俺も忙しいのだ。トロフィーの監視に、会場のゴミ拾い、そして魔王軍工作員の「駆除」。

 こんな熱血漢の相手をしている暇はない。


 どうやって追い払うか。

 俺は視線を彷徨わせ、手元にあったバケツと雑巾、そして窓拭き用のスクイージー(水切りワイパー)を見た。


(……そうだ。こいつらに仕事を押し付けて、俺はその間に別の作業をすればいい)


 名案だ。俺は口元を緩めないよう気をつけながら、重々しく口を開いた。


「……レオナルド君。君は、魔法という小手先の力に頼りすぎていますね」


「は……?」


「魔法とは、所詮は道具。それを扱う肉体と精神が未熟であれば、真の力は発揮できません」


 俺はバケツから濡れた雑巾を取り出し、彼の足元にボチャリと落とした。


「……この廊下を、端から端まで雑巾がけしなさい」


「ぞ、雑巾がけ……ですか?」


「ええ。ただし、膝をついてはいけません。足の指だけで身体を支え、重心を低く保ったまま、一直線に駆け抜けるのです」


 俺はさらに、スクイージーを彼に投げ渡した。


「それが終わったら、廊下の窓ガラスを一枚残らず拭きなさい。手首のスナップを効かせ、円を描くように。曇り一つ残してはいけません」


「こ、これは……」


 レオナルドが、雑巾とワイパーを交互に見つめ、呆然としている。

 しめた。これで「バカにするな」と怒って帰ってくれれば――


「……なるほど!!」


 レオナルドが、カッと目を見開いた。


「一直線の『雑巾がけ』で体幹と瞬発力を鍛え、円運動の『窓拭き』で魔力循環の流動性を学ぶ……! 単純動作の中に、全ての武術と魔法の基礎(ベース)が詰め込まれているのですねッ!?」


(……いや、ただの掃除だ)


「ありがとうございます、師よ! この『伝説の修行』、死ぬ気でやり遂げます!」


 レオナルドは上着を脱ぎ捨てると、猛獣のような雄叫びを上げて雑巾を床に叩きつけた。


「うおおおおッ!! 我が魂の研鑽ッ!!」


 ダダダダダダッ!!


 彼は人間離れした速度で、廊下の彼方へと雑巾がけで消えていった。

 その姿勢は、地面スレスレ。まるで這うような低空高速移動だ。


「す、すごいですぅ……!」


 残されたリリィが、眼鏡を光らせて解説を始めた。


「先生はレオ君の骨格と筋繊維の配置を、一目見ただけで完璧に見抜いたのです! あの『雑巾がけフォーム』……重心移動を無意識化する『無想の構え』そのものです! あれをマスターすれば、予備動作なしでトップスピードに乗る『縮地』が可能になりますぅ!」


「……窓拭きは?」


「円運動による遠心力で、体内の魔力回路(オド・サーキット)を強制的に拡張させる荒療治ですね!? 防御魔法の展開速度が理論値の三倍になります! ああ……なんという慧眼! 合理的すぎますぅ!」


(……勝手に解釈してくれるのは助かるが、少し怖くなってきたな)


 俺はため息をつき、彼らが掃除(修行)に夢中になっている隙に、本来の目的へと取り掛かった。


「さて……」


 俺は、持参した業務用ワックスの缶を開けた。

 中身はただの樹脂ワックスではない。ポケットから取り出した小瓶の中身――俺の体液(スライム粘液)を微量に混入させた、特製の『伝導性ワックス』だ。


 俺はモップを浸し、廊下の床に塗り広げていく。

 レオナルドが磨き上げた床の上に、さらに俺がワックスを上塗りする。二重のコーティングだ。


(この学園は広すぎる。俺一人ですべてを監視するのは不可能だ)


 だから、建物そのものを俺の「耳」にする。


 スライムの粘液は、特定の魔力波長に共振する性質を持つ。これを床や壁に薄く塗布することで、校舎内で発生する足音や会話の振動を拾い、俺の本体へと伝達する巨大な『集音膜』となるのだ。


 名付けて、『粘液盗聴網(スライム・ネットワーク)』。


 俺は無心でモップを動かした。

 表向きは「明日のための徹底的な清掃」だが、実際は校内全域への監視システムの敷設作業だ。


 数時間後。

 夕闇が迫る頃には、旧校舎から大会会場へと続く渡り廊下まで、すべてがピカピカに輝いていた。


「はぁ、はぁ……! お、終わりました……師よ!」


 汗だくになったレオナルドが戻ってきた。

 その表情は、憑き物が落ちたように晴れやかで、全身から湯気のような魔力が立ち昇っている。

 雑巾がけのしすぎで、太ももの筋肉がパンパンに膨れ上がっていた。


「どうです……? 何か、掴めましたか……?」


「……ええ」


 俺は、塗りたてのワックス床に耳を澄ませるふりをした。

 床を通して、遠く離れた来賓用控室の会話が、微かな振動として脳内に直接フィードバックされてくる。


『――準備は整ったか?』

『ああ。明日の決勝、奴らが最も油断した瞬間に……』

『“鍵”は必ず確保しろ……』


 低い男の声。

 そして、特徴的なヒールの音。

 間違いない。昼間に俺のゴミ分別を邪魔した、あの工作員たちと、その女ボスだ。


「掴めましたよ」


 俺はニヤリと笑った。


「害虫たちの、巣穴の場所をね」


「なっ……!?」


 レオナルドが感涙にむせぶ。


「やはり……! この清掃を通じて、先生は敵の気配察知(サーチ)の極意まで示してくださっていたのですね! 私も感じます……床を通して、大地の脈動が聞こえるようです!」


「い、いえ、それは物理的な振動伝達……」


 リリィがツッコミを入れようとしたが、レオナルドの熱気にかき消された。


「ありがとうございます! この御恩、明日の勝利でお返しします!」


 レオナルドは深々と一礼すると、筋肉痛の足を引きずりながらも、確かな足取りで去っていった。

 その後ろ姿は、来る前よりも一回り大きく見えた。


(……まあ、床は綺麗になったし、戦力アップになったのなら儲けものか)


 俺はモップをバケツに戻し、夕焼けに染まる校舎を見上げた。

 ワックスに混ざった俺の分身たちが、校内のあらゆる場所で耳を澄ませている。


 さあ、かかってこい、元同僚ども。

 俺の庭(学園)を汚す奴は、たとえ四天王だろうと、分別してゴミ箱行きだ。


 明日は忙しい一日になりそうだった。

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