第24話 輝けるトロフィーと磨かれた心の鏡
パニックに陥った教頭と査察官が、蜘蛛の子を散らすように階段を駆け上がっていく。
後に残されたのは、半裸の俺と、狂信的な眼差しを向ける二人の生徒。そして、重苦しい静寂だけだった。
「……はぁ。また残業ですか」
俺はボキボキと首を鳴らし、重い足取りで地上への階段を登り始めた。
背後からは、やたらとキラキラした声がついてくる。
「御意! いざ、新たなる戦場(フェスティバル)へ!」
「先生の残業に、どこまでもお供しますぅ!」
(来なくていい。というか、残業は確定事項じゃない。断固として回避する)
地上へ戻ると、空気は一変していた。
地下の陰鬱な雰囲気とは真逆の、浮き足立った熱気が学園全体を包んでいる。中庭には色とりどりの幟がはためき、生徒たちが楽しげに飾り付けを行っていた。
年に一度の祭典、『学園対抗魔法試合』。バカ騒ぎの季節だ。
「ゼクス君! ちょうどよかった! 君も来なさい! 緊急対策会議だ!」
血相を変えた教頭が、有無を言わさず俺の腕を掴み、引きずっていく。
ああ、俺の平穏なモブライフが、また一つ音を立てて崩れていく。
◇
会議室は、戦場さながらの混乱に陥っていた。
「警備の騎士団を増員しろ! 正門と全校舎の入り口に結界を!」
「馬鹿者! 相手は四天王だぞ! 小手先の警備など、正面から破られるに決まっている!」
「では中止か!? 王族までご臨席されるこの一大イベントを、今更中止にできるわけがなかろう!」
怒号と悲鳴が飛び交い、誰もが責任のなすりつけ合いに終始している。
(……時間の無駄だ)
俺はこの喧騒から逃れる方法を必死に考えていた。
どうすれば、この面倒なイベント期間中、誰にも干渉されず、静かに過ごせるか。
目立たず、楽で、責任のない仕事……。
ふと、会議室の隅に立てかけられた掲示板が目に入った。
『学園対抗魔法試合・運営委員募集!』
俺はリストの一番下、小さな文字で書かれた募集要項に、目を釘付けにした。
『設備管理班:大会の裏方、縁の下の力持ち! 主な業務:会場設営、備品管理、清掃業務』
(……これだ)
「――では、ゼクス君」
不意に、査察官ハイベルクが俺に話を振ってきた。
「君には、その規格外の能力をもって、大会期間中の特別警戒任務についてもらう」
「お断りします」
俺は即答した。
「なっ……!?」
「私は、しがない窓際教師ですので。そんな大役、務まりません」
俺は掲示板を指さした。
「それよりも、こちらに立候補させていただきたい。設備管理班に、ぜひ私の力を」
「は……? せ、設備管理……?」
会議室にいた全員が、ポカンとした顔で俺を見る。
「君は正気か? それはただの雑用係だぞ!」
「いえ。私は、縁の下で学園を支えたいのです」
俺は、人生で初めてかもしれない殊勝な態度で頭を下げた。
これで特等席でサボりながら、ヴォルカの標的であるトロフィーを間近で監視できる。一石二鳥だ。
俺のあまりに真剣な申し出に、教頭も査察官も毒気を抜かれたようだった。
「……まあ、君がそう言うなら。好きにしたまえ」
ハイベルクが、吐き捨てるように言った。
よし、計画通りだ。
◇
数分後。俺は学園の地下最深部にある『特別保管庫』にいた。
分厚いミスリルの扉を開けると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。部屋の中央、ベルベットの台座の上に、それは鎮座していた。
今年の優勝トロフィー。建国記念に王家から下賜されたという、特大の『純魔結晶』で作られた芸術品だ。
「ほう……。これが、例の『鍵』ですか」
俺は歩み寄り、しげしげと観察した。
だが、俺が眉をひそめた理由は、その魔力的な価値ではない。
「……汚い」
俺はスキル『完全模倣』の解析眼を発動させた。
一般人の目には美しく輝いて見えるだろう。だが、俺の目には見えてしまった。
表面に無数に付着した、脂ぎった指紋。空気中の埃が静電気で吸着した、微細な汚れ。そして何より、カッティングの溝に溜まった、製造過程での研磨剤の残りカス。
「許せん……」
俺の職人魂(という名の潔癖症)が、メラメラと燃え上がった。
王家の宝だか何だか知らないが、こんな手垢まみれの状態で飾られるなど、清掃のプロとして我慢ならない。
「やるか」
俺は上着を脱ぎ捨て、腕まくりをした。
ポケットから取り出したのは、スライムの消化液を、金属や結晶を溶かさないギリギリのpH濃度に調整した、俺特製の『超強力研磨ローション』だ。
「ふふふ……。分子レベルの平面(フラット)を出してやりますよ」
俺はローションをクロスに染み込ませ、トロフィーの表面を愛でるように磨き始めた。
キュッ、キュッ、キュッ。
一定のリズム。一定の圧力。俺は無心で磨き続けた。時間を忘れ、己を忘れ、ただ「汚れを落とす」という行為に没頭する。
――ガチャリ。
重厚な扉が開く音がした。
「失礼します、ゼクス先生。教頭から、先生の監視……いえ、お手伝いをするように言われまして」
「……お邪魔しますぅ」
レオナルドとリリィだ。
俺は無視して磨き続けた。今、手を止めるわけにはいかない。
「せ、先生……?」
背後で二人が息を呑む気配がした。
「……静かに」
俺は低く、地を這うような声で言った。
「今、佳境なんです。話しかけないでください」
俺の全身からは、湯気のような魔力(実際は、摩擦熱とスライム液の気化ガス)が立ち昇っている。
その鬼気迫る背中に、レオナルドとリリィは立ち尽くした。
「こ、これは……」
レオナルドの声が震える。
「なんという……集中力だ。先生の姿が、揺らいで見える……」
「ただの研磨作業ではありません……! 見てください、あの手の動きを! 完全に一定の周波数を保っていますぅ!」
リリィが眼鏡をカチャカチャさせながら叫ぶ。
「あれはただ汚れを落としているのではありません! クリスタルの表面構造そのものを再配列させ、魔力の伝導率を極限まで高めているんです! いわば、トロフィーを『超伝導体』に作り変えている……!」
「なっ……なんだって!?」
レオナルドが目を見開く。
「そうか……! 先生は、このトロフィーが敵に狙われていることを知っている。だからこそ、これを単なる飾りではなく、いざという時の『武器』として仕立て上げているというのか!」
(……いや、ただの手垢落としだ)
俺の心のツッコミは届かない。レオナルドの妄想は、さらに飛躍する。
「いや、違う……。それだけではない」
彼は一歩踏み出し、俺の背中を見つめた。その瞳には、涙すら浮かんでいる。
「あの背中を見ろ、リリィ君。……あれは、祈りだ」
「祈り、ですか?」
「そうだ。武人が刀を研ぐ時、それは単なるメンテナンスではない。己の魂と向き合う神聖な儀式なのだ。先生は今、このクリスタルという『鏡』を通して、ご自身の内なる深淵を磨いておられるのだ……!」
「す、すごいですぅ……! 汚れ一つない鏡面に、先生の『虚無』が映り込んでいるんですね!」
「ああ、美しい……。我々は今、伝説の瞬間に立ち会っているのかもしれない。『心の鏡磨き(マインド・ポリッシュ)』……。これこそが、真の強者が到達する精神統一の極致ッ!」
二人が感動に打ち震えている間に、俺は最後のひと拭きを終えた。
「……終わった」
クロスを離すと、そこには恐ろしい光景が現れた。
トロフィーは、もはや「透明」を超えていた。表面の凹凸が完全に消滅したことで、光の乱反射がゼロになり、周囲の景色を歪みなく透過・反射している。
「よし。指紋一つない」
俺が満足げに頷いた、その時。
ピカーッ!!
トロフィーが、部屋の照明を反射し、レーザーのような強烈な閃光を放った。
「うわぁっ! 目が、目がぁぁ!」
「きゃあああっ! 反射率100%超えですぅ! 物理法則が仕事してません!」
レオナルドとリリィが目を押さえてのたうち回る。
「……おや。少し磨きすぎましたか」
俺はサングラスを取り出して装着した。
これでは展示会場の照明を反射して、観客の網膜を焼きかねない。
まあ、俺の仕事はここまでだ。あとは知らん。
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