第22話 査察官の不条理と深淵への志願者

『沈黙の書庫』の最深部に、重苦しい静寂が戻っていた。


 俺の手の中には、物理的に接着して封印した『音響の魔書(グリモワール・エコー)』がある。俺は粘液でベトベトになった手を拭うと、ため息をつきながら、階段を駆け下りてきた招かれざる客たちの方を向いた。


「……ゼクス君」


 氷点下の声と共に現れたのは、王都の査察官ハイベルクと、教頭だった。

 ハイベルクは銀縁の眼鏡を押し上げ、冷徹な視線で俺と――俺の足元で平伏している二人の生徒を見下ろしている。


「封印結界の強制解除警報(アラート)が鳴り響いたと思えば……。君がここで何をしていたのか、合理的な説明をしてもらおうか」


 教頭が、ヒステリックに喚き散らす。


「貴様! 謹慎中の分際で、生徒を連れて立ち入り禁止区域に侵入するとはどういうつもりだ!? しかも、その薄汚い格好はなんだ! 上半身裸で、ワイシャツを腰に巻くなど、教育者として恥ずかしくないのか!」


(……おっしゃる通りで。服を着る暇もなかったんですよ)


 俺は心の中で毒づきながら、表面上は無表情を貫く。

 さっきまで俺の上半身はスライム化して部屋全体に広がっていたのだ。今は人間の姿に戻ったが、脱ぎ捨てたワイシャツはボタンが弾け飛んで着られなくなっている。


「掃除のついでに、忘れ物を見つけましてね」


 俺は手に持っていた魔導書を、無造作にハイベルクへと放り投げた。


「なっ……!?」


 ハイベルクが慌てて受け取る。


「こ、これは……『音響の魔書』!? 伝説の厄災級指定図書ではないか!」


「ヴォルカが残していった『宿題』です。そいつが騒音を撒き散らしていたので、少し黙らせておきました」


 俺が淡々と告げると、ハイベルクと教頭は顔を見合わせ、次の瞬間、鼻で笑った。


「……はっ。君が? 黙らせた?」


 ハイベルクが侮蔑の色を隠そうともせずに言う。


「冗談も休み休み言いたまえ。この魔書は、過去に一個師団の魔法使いを廃人にした記録がある代物だ。君のような、魔力数値が一般市民以下の窓際教師に、どうこうできる相手ではない」


「そ、そうですとも!」


 教頭が我が意を得たりとばかりに追従する。


「きっと、長い封印のせいで魔力が枯渇し、自然消滅する寸前だったのでしょう。それを君が、たまたま拾い上げただけだ。運がいいだけの男め」


「レオナルド君とリリィ君がいるのも、君が生徒を盾にして自分だけ助かろうとした結果ではないのかね? まったく、どこまで腐った根性だ」


 彼らは、自分たちの理解の範疇(マニュアル)にない事象を、徹底的に認めようとしない。

 俺が単独で古代の怪物を制圧したなどという報告書は、彼らの管理能力の欠如を露呈させる不都合な真実でしかないからだ。だから、「偶然」か「捏造」として処理する。それが役人のやり方だ。


(……まあ、それでいい)


 俺にとっては好都合だ。手柄などいらない。目立てば目立つほど、正体がバレるリスクが高まる。

 俺は肩をすくめた。


「ええ、そうかもしれませんね。運がよかっただけです。では、私はこれで失礼し――」


「――待ちたまえ」


 俺がその場を去ろうとした、その時。


 凛とした、しかし怒りを孕んだ低い声が響いた。


「誰が、『運がよかっただけ』だと言った?」


 声の主は、俺の足元で跪いていたレオナルドだった。

 彼はゆっくりと立ち上がると、教頭と査察官を、射殺さんばかりの鋭い眼光で睨みつけた。


「レ、レオナルド君……?」


 教頭がたじろぐ。学園の至宝であり、大公爵家の嫡男である彼には、教師といえども強く出られない。


「君は騙されているんだ。その男はただの無能な――」


「言葉を慎めッ!!」


 レオナルドの怒号が、書庫の空気をビリビリと震わせた。


「貴様らは何も見ていない! 何も感じていない! この御方が……ゼクス先生が、たった今、何をしたのかを!」


 彼は両手を広げ、演劇の主人公のように熱弁を振るい始めた。


「僕は見たぞ! 我が家の秘伝魔法さえも無力化する『音』の怪物に対し、先生が一切の魔力を行使せず、ただ静かに立ち向かう様を!」


「レオナルド君、落ち着きなさい。君は恐怖で錯乱して――」


「錯乱などしていない! 先生は、魔法という理屈を超越したのだ! 肉体を『虚無』へと変質させ、物理法則そのものを書き換えることで、音という概念をこの空間から抹殺したのだッ!」


(……いや、吸音材になっただけなんだが)


 俺の心のツッコミなど聞こえるはずもなく、レオナルドの暴走は加速する。


「魔法に頼り切った我々は、井の中の蛙だった! 真の強さとは、魔力の多寡ではない。己の肉体と精神を極限まで研ぎ澄まし、世界の理(ことわり)すらも物理的にねじ伏せる……そう、あの『沈黙』のような在り方なのだ!」


 レオナルドは振り返り、再び俺の前に跪いた。

 その瞳には、かつての傲慢さは微塵もない。あるのは、絶対的な強者に対する畏怖と、狂信的なまでの崇拝のみ。


「ゼクス先生。……いいえ、我が師よ」


 彼は額を床(俺がワックスがけしたピカピカの床)にこすりつけた。


「今まで貴方の『深淵』を見誤っていました。貴方こそが、魔法という欺瞞に満ちた世界に警鐘を鳴らす、真の『沈黙の支配者(サイレント・ルーラー)』……! どうか、この愚かな私に、その『真の強さ』の一端でもご教授くださいッ!」


 シン……と場が静まり返る。

 教頭と査察官は、口をパクパクさせて言葉を失っている。あのプライドの塊のようなレオナルドが、窓際教師に土下座して弟子入りを志願しているのだ。天変地異でも起きたかのような顔だ。


 俺は、こめかみを指で押さえた。


(……面倒くさいことになった)


 公爵家の嫡男を弟子にする? 冗談じゃない。そんなことをすれば、俺の平穏な「モブ教師生活」は完全に崩壊する。貴族の派閥争いに巻き込まれ、注目を浴び、魔王軍のスパイ活動どころではなくなるだろう。


 俺は冷徹に見下ろした。


「お断りです」


「なっ……!?」


 レオナルドが顔を上げる。


「な、なぜですか!? どんな厳しい修行にも耐えます! 靴下のまま剣山の上を歩けと言われれば歩きますし、校舎の壁を舌で舐めて掃除しろと言われれば従います!」


(衛生観念がおかしいだろ、お前は)


「単純な理由です。面倒くさい」


 俺はバッサリと切り捨てた。


「私はただの、定時退勤を愛するしがない教師です。君のような熱血漢の相手をしている暇はありません。それに――」


 俺はチラリと、彼の背後にいるもう一人の厄介な存在に目を向けた。


「せ、先生ぇぇぇっ!!」


 リリィが、眼鏡をズレさせたまま、這うようにして俺の足にすがりついてきた。


「今の……今の『生体吸音』の理論、もっと詳しく教えてくださいぃ! あれは表皮細胞の多孔質化による音響インピーダンスの整合ですよね!? 魔力を使わずに物理構造だけでエネルギーを相殺するなんて、魔法史を覆す大発見ですぅ!」


「君は君で、触らないでください。粘液がつきますよ」


「つ、つけてください! むしろ先生の細胞サンプルを採取させてください! 私の論文の共同研究者になってくださいぃぃ!」


 右足に公爵家の嫡男、左足にマッドサイエンティスト予備軍。

 俺の両足は、完全に物理的な「重荷」によって封鎖されていた。


「……はぁ」


 俺は天井を仰ぎ、本日一番深いため息をついた。

 査察官と教頭の視線が痛い。「こいつ、一体何者なんだ?」という疑念と困惑が入り混じった目だ。


「……とにかく」


 俺は強引に足を振りほどき(二人が「ああっ! 深淵が遠ざかる!」と悲鳴を上げたが無視して)、査察官に向き直った。


「私の処遇や評価などどうでもいい。ですが、その本の中身だけは、今すぐ確認した方がいいですよ」


「……何?」


 ハイベルクが眉をひそめ、手元の魔導書を見る。

 俺が速乾性粘液で封じたページは、すでに乾いて剥がれ落ちそうになっていた。


「ヴォルカが学園を襲った理由。そして、奴らが次に何をしようとしているのか。……その答えが、そこに書いてあります」


「……ふん。単なるハッタリだろうが、確認は義務だからな」


 ハイベルクは忌々しげに言いながら、魔導書の表紙を開いた。

 そこには、俺がスライムの密偵を使って見つけ出した『ページ』が挟まれていた。


「これは……地図か?」


 ハイベルクの目が、紙面を走るにつれて見開かれていく。


「……アークライト魔法学園の……地下構造図? いや、これは……『霊脈(レイライン)』の分布図か? それに、この魔法陣の設計図は……」


 横から覗き込んだリリィが、ハッとして叫んだ。


「そ、それは……『大魔力転送陣』の設計図ですぅ!」


「転送陣だと?」


「はい……! しかも、ただの転送陣じゃありません。地下の霊脈から魔力を直接吸い上げ、遠隔地へ送信するための……超巨大な『パイプライン』の術式です!」


 リリィの解説に、その場の空気が凍りついた。


「ま、まさか……」


 教頭が顔面蒼白になる。


「ヴォルカの狙いは、学園の破壊ではなかったというのか……? この学園の地下に眠る膨大な魔力を……魔王城へ送るための……」


「そう。学園そのものを『電池』にする気だったんですよ」


 俺が言葉を継ぐと、全員が戦慄した表情で俺を見た。


「すでに地下水脈には、転送陣の基盤(ベース)となる術式が刻まれていました。私が掃除(クリーニング)のついでに洗い流しておきましたが、奴らはまだ諦めていない」


 俺は、設計図の末尾にある、赤いインクで書かれた一文を指差した。


『転送陣の起動には、王家の魔力を記憶した高純度の魔結晶(キー・クリスタル)が必要である』


「……鍵(キー)が必要なんだそうです」


 ハイベルクがゴクリと唾を飲む音が聞こえた。


「王家の魔力を記憶した……魔結晶……?」


 その時だった。

 遠く地上から、華やかなファンファーレの音が、地下の書庫まで微かに響いてきた。

 それは、学園にとって最も重要な行事の始まりを告げる合図だった。


「……あ」


 教頭が、呆然と呟く。


「ま、まさか……。今年の『学園対抗魔法試合』の……優勝トロフィー……?」


「ええ。確かあれは、建国記念に王家から下賜された、特大の魔結晶で作られているそうですね?」


 俺は気怠げに首を回し、ボキボキと音を鳴らした。


「ビンゴですよ。ヴォルカの次の標的は、そのトロフィーだ」


 俺の言葉に、ハイベルクと教頭の顔から血の気が引いていく。

 学園対抗魔法試合。国中の貴賓が集まり、王族すら観覧に来る一大イベント。そこに魔王軍四天王が乱入し、トロフィーを強奪しようものなら、国の威信は地に落ち、大パニックになるだろう。


「な、なんてことだ……! すぐに警備体制を強化せねば!」

「中止だ! いや、今から中止は不可能だ……!」


 パニックに陥り、喚きながら階段を駆け上がっていく大人たち。

 取り残されたのは、俺と、興奮冷めやらぬ二人の生徒だけだった。


「……はぁ。また残業ですか」


 俺は深いため息をついた。

 誤解と狂信の眼差しを向けてくるレオナルドとリリィを背に、俺は重い足取りで地上への階段を登り始めた。


 平穏な日常(モブライフ)への道のりは、まだまだ遠そうだった。

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