第21話 喧騒の捕食と沈黙の支配者
『キィィィィィィィィィィィィィンッ!!』
鼓膜を食い破らんばかりの不協和音が、『沈黙の書庫』の最深部を蹂躙していた。
それは単なる音ではない。物理的な破壊力を伴う衝撃波であり、魔力回路をズタズタに引き裂く呪詛の絶叫だ。
「あ……あぁ……」
床に膝をついたレオナルドの瞳からは、光が消えていた。
彼が誇る最強の攻撃魔法は、無惨にも音の振動によって霧散させられたのだ。魔法こそが彼の矜持。それが、「音」という単純な物理現象の前に無力化された。
「ううっ……! だ、駄目ですぅ……! 防御結界が共振して……維持できません……!」
リリィが必死に展開した障壁も、ガラスのようにヒビ割れていく。
『音響の魔書(グリモワール・エコー)』から溢れ出た怪物は、レオナルドの絶望を嘲笑うかのように、さらなる高周波を吸い込み始めた。次は間違いなく、この場の全員の脳髄を破壊する「死の咆哮」が放たれる。
(……はぁ。本当に、うるさい。これだから暴れる客は嫌いだ)
俺は心底うんざりした溜息をつき、ゆっくりと前に歩み出た。
眼鏡を外し、丁寧に畳んで胸ポケットにしまう。
「レオナルド君、リリィ君。耳を塞いで、壁際に下がっていなさい」
「せ、先生……? 無理です、逃げてください! 魔法は……通じません!」
「魔法? 使いませんよ、そんなもの」
俺はワイシャツのボタンに手をかけながら、冷めた目で怪物を見据えた。
「ここは『図書館』でしょう? 静かにできない利用客には、退場していただくのがルールです」
「……え?」
レオナルドが呆けた声を上げる。
その目の前で、俺はバサリとワイシャツを脱ぎ捨てた。服が破れると、縫うのが面倒だからだ。
「下がっていなさい」
俺の言葉が終わるか終わらないかの刹那。怪物が、臨界点を超えた「死の咆哮」を放った。
『――――GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!』
可聴域を超えた超振動が、津波となって俺たちに襲いかかる。まともに食らえば、内臓がスープのように液状化するほどのエネルギーだ。
だが、俺は逃げない。スキル『生態模倣(バイオミミクリ)』を発動する。
(骨格構造、一時排除。筋肉繊維、ゲル化。表皮組織、吸音性多孔質構造へ再構築……)
ミシミシと骨が軋み、ブチブチと筋肉が引き千切れる感触。ドロリ、と。俺の上半身が、熱を加えられたロウのように溶け落ち、液体化していく。
「ひっ……せ、先生のお身体が……溶けて……!?」
リリィが小さな悲鳴を上げた。
俺の肩は関節を失い、腕は粘液の触手のように伸び、胴体は不定形の青いスライムの塊へと変貌していた。
(……やれやれ。元同僚(ヴォルカ)に見られなくて本当によかった。この醜態は、二度と晒したくないんだが)
内心で毒づきながら、俺は液状化した上半身を、壁や床へと薄く、広く、塗り広げていく。俺の肉体は、このドーム状の空間の内壁を覆う、巨大な一枚の『膜』となった。
直後、死の咆哮が、俺の肉体に直撃した。
――スンッ。
世界から、音が消えた。
爆音も、振動も、破壊的なエネルギーも。全てが俺の体に触れた瞬間、嘘のように消失したのだ。
俺の体は、音を完全に吸収・減衰させる『生体吸音材』へと変質していた。多孔質構造に再構築した細胞の一つ一つが、音の振動エネルギーを熱エネルギーへと変換し、無力化する。レコーディングスタジオの壁と同じ原理だ。
「お、音が……死んだ……?」
レオナルドが、口をあんぐりと開けて固まっている。目の前で起きた現象が理解できないのだろう。
「あの致死圏内の超音波を……魔法障壁もなしに、肉体のみで『捕食』したのですか……!? これは物理法則を無視した『音の概念抹殺』ですぅ……!」
リリィが戦慄の表情で呟く。
『……!?』
音の怪物が、困惑したように揺らめいた。最強の攻撃が、ただの「柔らかい壁」に吸われて消えたのだから。
だが、もう遅い。
「……終わりです」
俺は床に広がった肉体の一部から、一本の粘性の触手を伸ばした。それはヘビのように滑らかに床を這い、無防備になった魔導書の本体へと到達する。
そして。
パタン。
小気味いい音を立てて、物理的に本を閉じた。
あまりにも地味で、あまりにも静かで、魔法のかけらもない行為。
その瞬間、空中の怪物は霧散し、禍々しい魔力もすべてが断ち切られた。
俺はさらに、自分の体の一部を切り離して、本の真上に乗せた。ずっしりとしたスライムの塊が、ひとりでにページが開かないよう、ただの『重石』として鎮座する。仕上げに、本の隙間に高粘度の速乾性粘液を流し込み、ガッチリと接着して封印した。
シン……と静まり返った書庫。
俺はスライム化を解き、人間の姿へと戻ると、何事もなかったかのように眼鏡を装着した。
「やっと静かになりましたね」
俺が振り返ると、レオナルドが、ふらふらと立ち上がった。その金色の瞳には、恐怖を超え、一種の狂信的な光が帯びている。
「……音を……『殺した』……?」
彼は震える声で呟いた。
「魔法ではない。魔力でもない。自らの肉体を『沈黙』そのものに変質させ、この空間から『音』という概念そのものを消し去った……。魔法が通じぬなら、その魔法が成立する『理(ことわり)』そのものを、物理的に支配する……。なんと、圧倒的な……!」
レオナルドは俺の足元に歩み寄ると、そのまま崩れ落ちるように土下座した。
「貴方こそが、真の『沈黙の支配者(サイレント・ルーラー)』……! 見えました、先生の背後に広がる、音さえも届かない絶対零度の『深淵』が!」
彼は俺の靴下(まだ靴下だ)にすがりついた。
「お願いします、ゼクス先生! 愚かな私を……どうか、弟子にしてくださいッ!」
「お断りです。面倒くさい」
俺が即答すると、反対側からリリィが目を輝かせて詰め寄ってきた。
「せ、先生ぇぇ! 今の生体変化の理論……! あれは音波の波長に合わせて細胞膜の弾性率をリアルタイムで変動させていたんですよね!? 理論上、あらゆる物理エネルギーを無効化できる『絶対防御』の完成形ですぅ! レポート書かせてください! 一生ついていきますぅ!」
「……君もですか。勘弁してください」
俺が二人を引き剥がそうとした、その時。
カツ、カツ、カツ。
階段の方から、複数の足音が近づいてきた。現れたのは、苦虫を噛み潰したような顔の教頭と、冷徹な表情を浮かべた王都の査察官だった。
「……ゼクス君」
査察官が、氷のような声で言った。
「『沈黙の書庫』の封印結界に異常が検知された。……君がここで何をしていたのか、説明してもらおうか」
彼らの目に映ったのは、静まり返った書庫と、一冊の古びた本を手にした俺、そして俺にひれ伏す二人の生徒という奇妙な光景だけだった。
俺は手にした魔導書を軽く掲げ、淡々と答えた。
「掃除のついでに、忘れ物を見つけましてね」
俺は魔導書を査察官に放り投げた。
「ヴォルカが残していった『宿題』です。中身を確認することをお勧めしますよ」
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