第20話 騒音の魔書と砕かれた矜持

「スーーーーーーーーッ……」


 静寂の中を、俺たち三人は幽霊のように滑走していた。


 生まれたての小鹿のようにプルプルと震えていたレオナルドとリリィも、ようやくこの奇妙な移動法に慣れてきたらしい。


(それにしても、この粘液で床のワックスが剥がれないか心配だ……。研磨作用はないはずだが)


 俺がそんな職人特有の悩みを抱えているうちに、視界が開けた。

 ひときわ高い天井を持つ、巨大なドーム状の空間。書庫の最深部だ。


 その中央に、場違いなほど真新しい白亜の台座が置かれ、その上に一冊の禍々しい魔導書が鎮座していた。


「……あれか」


 間違いない。ヴォルカの魔力残滓が、あの本からドス黒い煙のように立ち昇っている。


 遅れて、レオナルドとリリィも、へっぴり腰で滑り込んでくる。


「先生、あれが……?」

「間違いありません。古代語の装丁……しかも、あの黒い革表紙……」


 リリィが眼鏡の位置を直し、ゴクリと唾を飲んだ。


「『音響の魔書(グリモワール・エコー)』……。伝説上の代物です。まさか実在したなんて」


「ほう、詳しいですね」


「は、はい。本来は『音』を記録するための魔導具だったそうですが……強大すぎる魔力を吸って自我を持ち、周囲の音を全て喰らい尽くす怪物になったとか……」


(……面倒な設定がついているな)


 俺が台座に一歩近づこうとした、その瞬間だった。


 キィィィィィィィィィン……!!


 脳髄を直接ヤスリで削られるような、不快極まりない高周波音が空間を震わせた。


「ぐっ……!?」

「きゃあぁッ!?」


 レオナルドとリリィが耳を押さえてうずくまる。


 バサササササッ!! と台座の上の魔導書が激しくページをめくり始めた。ページの中から、インクで描かれた無数の「文字」や「音符」が空中に溢れ出し、黒い嵐となって渦を巻く。


 それらは急速に集合し、実体を持たない半透明の怪物――巨大な口だけを持つ、不定形の音の集合体を形成した。


『――――アアアアアアアアアアッ!!』


 怪物が「咆哮」すると、魔力そのものを波及させる衝撃波が走り、周囲の本棚のガラス戸が一斉に砕け散った。


(……あーあ。また掃除が増えた。これだから暴れる客は嫌いだ)


 俺が内心で溜息をついた、その時だ。


「――下がってください、先生!!」


 レオナルドが、耳から血を流しながらも立ち上がり、俺の前に飛び出した。


「ここは僕が引き受けます! 先生の手を、これ以上汚させるわけにはいきません! 先ほどから助けられてばかりだ。先生の『深淵』に同行すると言った以上、僕も男を見せねばならないッ!」


 彼のプライドは、先ほどの「靴下スライディング移動」でズタズタになっていたのだろう。名誉挽回の機会を求めているのだ。


「レオナルド君、あのタイプに通常の魔法は――」


「見ていてください! ローゼンバーグ流魔導術の真髄を! これぞ我が家の最大火力ッ! 焼き尽くせ! 『紅蓮の爆炎(クリムゾン・ブラスト)』ッ!!」


 俺の忠告を聞かず、彼が放った極大の火球が、轟音と共に怪物へと殺到する。


 だが、怪物は動じない。ただ、その巨大な口をカッと開き、不可視の「何か」を吐き出した。


 シュンッ。


 レオナルドの放った灼熱の火球が、怪物に触れる直前で、まるで幻のように「霧散」したのだ。


 爆発もせず、ただ、火を構成していた魔力構造が音の振動によって強制的に解かれ、無害な温風となって消え失せた。


「……は?」


 レオナルドが、間の抜けた声を漏らす。


「ぼ、僕の『紅蓮』が……消えた……?」


「音波によるエネルギー干渉ですぅ……!」


 リリィが絶望的な声で叫んだ。


「レオナルドさんの魔法が持つ魔力構造の振動数と、全く逆位相の振動をぶつけることで、エネルギーそのものを中和・拡散させていますぅ……! 理論上、魔法である限り、絶対に通りません……!」


「馬鹿な……! ならば、これならどうだッ!」


 パニックに陥ったレオナルドは、次々と魔法を乱射し始めた。風の刃、雷の槍、氷の礫。あらゆる属性の攻撃魔法が、嵐のように怪物へと降り注ぐ。


 しかし、全てが音の振動によって相殺され、霧散していく。


「う、嘘だ……。僕の魔法が……通用しない……?」


 レオナルドの手から、杖がカランと滑り落ちた。

 プライドが粉々に砕け散る音が、静寂な書庫に響き渡った気がした。


 ドサリ、と。学園首席は、冷たい石の床に両膝をついた。


 彼は生まれた時から「天才」だった。魔法こそが彼の力であり、彼のアイデンティティそのものだった。それが今、完全に否定されたのだ。


「あは、は……。華やかな魔法など……ここでは無力なのか。所詮、僕は……井の中の蛙……」


 彼は振り返り、背後で静かに佇む俺を見た。その目には、決定的な敗北感と諦めが宿っていた。


「先生……。僕は、貴方の足元にも及ばない凡夫だったようです……」


 怪物が、レオナルドの戦意喪失を好機と見て、ひときわ大きく膨れ上がった。空間が歪むほどの超音波が、彼に放たれようとしている。


「……はぁ」


 俺は、本日何度目かわからない深い溜息をつくと、ゆっくりと前に歩み出た。


 眼鏡を外し、胸ポケットにしまう。


「うるさいですね。近所迷惑だ」


 そして、ワイシャツのボタンに手をかけた。


「レオナルド君。下がっていなさい」

「せ、先生……? 無理です、逃げてください! 魔法は通じません!」


「魔法? 使いませんよ、そんなもの」


 俺はネクタイを緩めながら、冷めた目で見下ろした。


「ここ『図書館』でしょう? 静かにできない利用客には、退場していただくのがルールです」


 俺の皮膚の下で、筋肉と骨格がドロリと溶解を始めていた。

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