第19話 無音滑走と重力を欺く歩法
地下へと続く螺旋階段を下りきると、そこには重苦しい静寂が広がっていた。
『沈黙の書庫』。
学園の地下深くに封印された、最重要危険区画。
カビと古い羊皮紙、そして独特のインクの匂いが鼻孔をくすぐる。天井は高く、闇に沈んでいるが、どこまでも続く巨大な書架の列が、スライムの淡い発光に照らされてぼんやりと浮かび上がっていた。
「……ひっ。空気が、重いですぅ」
リリィが小声で呟き、自分の肩を抱く。
彼女の言う通りだ。濃密な魔力が淀んでいる。だが、それ以上に厄介なのは、この空間全体に満ちる、異常なまでの『静寂』だった。
床に刻まれた古代ルーン文字が、その理由を物語っている。
『静寂を破りし者は、その骨を砕かれ、沈黙の糧とならん』
実に物騒なことが書いてある。
「いいですか、二人とも」
俺は声を極限まで絞り、唇の動きだけで背後の二人に伝えた。
「ここからは、音を立てたら死にます。私の後ろを、私が歩いた通りに進んでください」
「は、はい……!」
「御意……!」
レオナルドとリリィが、緊張で顔を引きつらせながら頷く。
俺たちは慎重に、一歩目を踏み出した。
……シーン……。
静寂が痛いほど耳に刺さる。問題は後ろの二人だ。
ギィッ……。
レオナルドが、緊張のあまり体重移動をミスした。靴下越しとはいえ、古びた石床に重みがかかり、石材が擦れ合う微かな音が響いた。
(――このボンボンが!)
瞬間、床の目地が禍々しい赤紫色に発光した。
術式起動。標的は、音源であるレオナルドの右足。
「しまっ――!?」
レオナルドが息を呑む。床から不可視の圧力が、彼の全身を押し潰さんと集束していくのが見えた。
(チッ、面倒な!)
呪いが完全に発動するまで、コンマ3秒。
俺は咄嗟に振り返り、レオナルドの足元――床と靴下の間に、右手の指先から極細の粘液を滑り込ませた。
ヌルッ。
靴底と床の間に、厚さ0.1ミリのスライム粘液のクッションが形成される。物理的な摩擦と振動を完全に遮断する、即席の防音材だ。
赤紫色の光が収まり、床の蠢きが止まる。
九死に一生を得たレオナルドが、滝のような冷や汗を流してその場にへたり込みそうになるのを、俺は無言で襟首を掴んで支えた。
「……はぁ。仕方ありませんね」
俺は二人を制止し、冷ややかに告げた。
「歩くのは禁止です。非効率的すぎます」
「は、はい!? で、ではどうやって……?」
「こうするんです」
俺は自分の足元に意識を集中させた。
スキル『生態模倣』で、靴底の分子構造に干渉し、自らの粘液を浸透させて一体化させる。完成したのは、摩擦係数を極限までゼロに近づけた『超潤滑ソール』だ。
加えて、足の裏から圧縮した空気を常時噴出させ、俺の体を床からわずか数ミリだけ浮き上がらせる。ホバークラフトの原理だ。
(これなら床を傷つけないし、ワックスがけの要領で移動できる)
俺はスッと重心を前に傾けた。
――スーーーーーーーーッ……。
足音は皆無。俺の体は、氷上のスケーターのように滑らかに、そして幽霊のように音もなく石床の上を滑っていった。
「音を立てるな。滑るんです」
俺は数メートル先でピタリと停止し、振り返って言った。そこには、口をあんぐりと開けたレオナルドとリリィがいた。
「な……な……」
レオナルドが、信じられないものを見る目で震えている。
「む、無音歩法(サイレント・ステップ)の……極致……ッ!?」
(何だその厨二病みたいなネーミングは)
彼は額に脂汗を浮かべ、ブツブツと譫言のように呟き始めた。
「魔力を一切感知させず、肉体操作だけで重力を欺いているのか……!? いや、違う……彼は今、自らの存在確率を床との接触面から切り離し、『浮遊』ではなく『空間滑走』を行っているんだ……!」
「そ、そうですぅ……!」
リリィも眼鏡をカチャカチャと弄りながら、早口で同意する。
「魔力循環のノイズが完全にゼロです……! 先生の存在そのものが、この空間の『静寂』という概念と完全に同化しているんです……! 先生自身が、『静寂』そのものに……!」
(買いかぶりすぎだ。ただヌルヌルして空気を吐いてるだけだぞ)
俺は呆れながらも、戻って二人の足元にしゃがみ込んだ。
「君たちにも施術します。じっとしていてください」
俺は二人の靴下の裏に、自身の体から生成した特殊な粘液をたっぷりと塗布した。
「うわっ、なんかヌルヌルします!」
「ひゃあ! くすぐったいですぅ!」
「静かに。体重を前に預け、床を愛でるように、撫でるように進むのです」
「床を……愛でる……? ……わかったぞ! これは大地への感謝! 一歩一歩踏みしめるという傲慢さを捨て、自然と一体化するための儀式……!」
「……まあ、なんでもいいから早く来てください」
こうして、暗い書庫の中を、一人の教師と二人の生徒が、直立不動の姿勢のまま「スーーーーッ」と滑っていく奇妙な行軍が始まった。
生まれたての小鹿のようにプルプルと震えながら、二人が必死に滑ってついてくる。
◇
最深部は、ひときわ高い天井を持つドーム状の空間だった。
その中央に、場違いなほど真新しい台座が置かれ、一冊の禍々しい魔導書が鎮座していた。
「……あれか」
ヴォルカが狙っていたもの。
俺が台座に近づこうとした、その時だった。
キィィィィィィィィィン……!
不快な高周波音が、脳髄を直接揺さぶった。
魔導書がひとりでにパラパラとめくれ上がり、ページから黒い文字が空中に溢れ出す。文字は渦を巻き、やがて実体を持たない『音の振動』だけで構成された、半透明の怪物を形作った。
「……防衛システムか」
俺が舌打ちした、その時。レオナルドがマントを翻して俺の前に飛び出した。
「下がってください、先生! ここは僕が! 食らえッ! 『紅蓮の爆炎(クリムゾン・ブラスト)』!!」
俺の制止も聞かず、灼熱の火球が音の怪物へと殺到する。
だが、怪物が口のような穴を開き、何かを「叫んだ」。
シュンッ。
爆炎は爆発することなく、空中で霧散した。熱も、光も、衝撃も。すべてが「音の振動」によって相殺され、ただの温い風となって消え失せたのだ。
「――は?」
レオナルドが、間抜けな声を上げて立ち尽くす。
「ぼ、僕の最大火力が……かき消された……!?」
音の怪物が、嘲笑うかのように不協和音を奏でる。
「……やれやれ」
俺は眼鏡を外し、懐からハンカチを取り出してレンズを拭いた。
「どうやら、少し『静か』にしていただく必要がありそうですね」
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