第18話 深淵への随伴者と土足厳禁の聖域

旧校舎の清掃を終えてから数日。俺の新たな執務室は、驚くほど快適な空間となっていた。


「……ふむ。いい光沢だ」


 俺は淹れたてのコーヒーを片手に、鏡面仕上げの床を眺めて悦に入っていた。


 壁や天井の汚れは完全に除去され、窓から差し込む月光が床に反射し、部屋全体を青白く照らしている。


 あまりにピカピカにしすぎたせいで、噂が一人歩きしてしまったらしい。今やこの旧校舎は、学園の生徒たちから『聖域(サンクチュアリ)』と呼ばれ、誰も近づかない絶対不可侵領域と化していた。


(結構なことだ。これで面倒な生徒指導も、同僚との無駄話もせずに済む)


 静かで、清潔で、誰にも邪魔されない。これぞ理想の職場環境だ。


 俺がコーヒーの香りを堪能していた、その時。


 ――ピチョン。


 天井の通気口から、水滴のようなものが俺の肩に落ちてきた。学園中に放っていた俺の有能な部下(スライム)の一体だ。


「……ん? 戻ったか。ご苦労」


 俺が労いの言葉をかけると、スライムは耳元に移動し、魔力の波長で直接脳内に情報を伝えてきた。


『報告シマス。ボス』

『ターゲット(ヴォルカ)ノ魔力残滓、特定シマシタ』

『場所ハ?』

『ココヨリ地下百メートル。旧ボイラー室ノ奥――厳重ニ封印サレタ『沈黙の書庫』デス』


「……あそこか」


 俺は思わず、心底嫌そうな声を漏らした。


 『沈黙の書庫』。学園の最重要機密資料や、危険すぎて閲覧禁止になった禁書が保管されている場所だ。


 だが、問題はそこじゃない。あの場所には、古代の偏屈な魔導師が施した、極めて厄介な防衛システム(セキュリティ)が生きている。


 ――音や魔力波長に反応し、侵入者を排除する『静寂の呪い』。


 クシャミ一つすれば石像にされ、不用意に魔法を使えばその魔力を逆流させられて自爆する。


 まさに「お静かに」を物理的な死で強制してくる図書館だ。


(ヴォルカの奴、よりによってそんな面倒な場所に潜り込んだのか……)


 処分撤回のためには、証拠が必要だ。残業確定である。


 俺はモップを壁に立てかけ、誰にも見つからないよう夜陰に乗じて単独で処理すべく、音もなく裏口へと向かった。


 ――そう、思っていたのだが。


「――お待ちしておりました、ゼクス先生」


 裏口の扉を開けた瞬間、闇の中からヌッと現れた人影に、俺は危うく心臓を止めかけた。


「……レオナルド君?」


 そこに立っていたのは、深夜だというのに完璧に制服を着こなし、なぜかマントまで羽織った学園首席、レオナルド・フォン・ローゼンバーグだった。


 そして、その背後から、瓶底眼鏡の少女がオドオドと顔を覗かせる。


「せ、先生……こんばんは……」


「リリィ君まで。……こんな夜更けに、何の用です?」


 俺が冷めた声で尋ねると、レオナルドはバサァッ! と無駄にスタイリッシュにマントを翻し、芝居がかった口調で言った。


「トボけないでください。先生が放った『影の眷属(スライム)』たちが、地下へ集結しているのを僕は見逃しませんでしたよ」


(……目ざといな)


 俺は舌打ちを噛み殺す。


「凶兆の源は、この旧校舎の地下深く……『沈黙の書庫』ですね?」


「やはり先生は、誰にも告げず、たった一人で巨悪を討ちに行こうとされていた。……その孤高の背中、あまりに尊い」


「いや、ただの害虫駆除の確認作業だよ。君たちは寮に戻って寝なさい」


 俺が手を振って追い払おうとすると、レオナルドは一歩前に踏み出し、熱っぽい声で食い下がってきた。


「いいえ! 戻りません! 先生!」


「この『魔獣の王』の凱旋に、我ら臣下も同行させてください! 僕も、先生が見据える『深淵』の片鱗に触れたいのです!」


「声がデカい。近所迷惑だ」


「あ、あのっ、私も……!」


 リリィも、モジモジしながらも強い視線を向けてきた。


「『沈黙の書庫』には……国宝級のレアな魔導書がたくさん眠っているって噂で……!」


「一生に一度でいいから、その装丁だけでも拝みたくて……!」


「……君は君で、欲望に忠実だな」


 俺は深い溜息をついた。


 無理に追い返せば、勝手についてきて余計なトラブルを起こす可能性が高い。それなら、目の届く範囲に置いておいた方が、リスク管理(マネジメント)としてはマシか。


 最悪、囮(デコイ)くらいにはなるだろう。それに、古代語に精通したリリィがいれば、証拠探しが楽になる可能性もゼロではない。


「……はぁ。わかりました」


 俺が渋々頷くと、二人の顔がパァッと輝いた。


「許可を……! ありがとうございます、我が王よ!」

「うひゃあ! 禁書庫! 禁書庫ぉ!」


「ただし」


 俺は人差し指を立てて、ピシャリと釘を刺した。


「条件があります」


「な、なんでしょう!? 命に代えても従います!」


 レオナルドが直立不動で敬礼する。


 俺は真顔で、足元を指差した。


「靴を、脱いでください」


「……はい?」


 レオナルドとリリィが、キョトンとした顔で固まる。


「く、靴……ですか?」


「そうです。靴下になってください。裸足でも構いませんが」


「な、なぜ……?」


 レオナルドが困惑して俺を見る。


 俺は、背後に広がるピカピカに磨き上げられた旧校舎の廊下を、愛おしげに見つめた。


「ここから地下へ行くには、この廊下を通る必要があります。私は昨日、徹夜でワックスをかけ直したばかりなんですよ」


 俺の声に、少しだけドスが混じる。


「外を歩いた薄汚い革靴で、私の『聖域』を踏み荒らすことは許しません」


「傷一つ、埃一つ付けるな。それが条件です。それと、足手まといになったら、即座に置いていきますよ」


 一瞬の沈黙。そして、レオナルドがハッと息を呑んだ。


「……なるほど。そういうことか……!」


(どういうことだ?)


 彼は感動に打ち震えながら、自らの革靴に手をかけた。


「『聖域』に踏み入る者は、俗世の穢れ(くつ)を捨て、無垢なる状態で挑まねばならない……」


「これは単なる衛生管理ではない。深淵へ挑むための『禊(みそぎ)』の儀式……!」


「……まあ、解釈は任せる」


「合理的ですぅ……!」


 リリィもブツブツと呟きながら靴を脱ぎ始めた。


「靴底の摩擦係数をゼロに近づけることで、床面の魔力伝導率を阻害しないための措置……!」


「先生は、廊下そのものを巨大な術式回路として扱っているんですね……!」


(ただのワックス保護だと言っているだろう)


 俺は内心でツッコミを入れつつ、靴下姿になった二人を伴い、旧校舎の奥にある「開かずの地下扉」へと足を踏み入れた。


 懐中電灯(魔力ライト)ではなく、スライムを発光させた「生体ランタン」を掲げる。


 ギィィィィ……。


 錆びついた扉が、重苦しい音を立てて開く。その先には、濃密な魔力と、カビ臭い闇が広がっていた。


「しっ」


 俺は唇に指を当て、背後の二人に合図を送る。


「ここからは、お静かに。私語厳禁、足音厳禁です。……破れば、死にますよ」


 俺の言葉に、レオナルドがゴクリと唾を飲む音が、静寂の中に大きく響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る