第15話 聖域の汚染と静かなる逆鱗

夜の旧校舎は、静寂に包まれていた。

 俺は、半日かけてワックスがけを終えたばかりの廊下に立ち、満足げに腕を組んでいた。


「……完璧だ」


 月明かりが割れた窓から差し込み、床に反射して廊下全体を淡く照らし出している。まるで水鏡だ。この床の上なら、フィギュアスケートの選手がトリプルアクセルを決められるだろう。


 四天王時代に培った緻密な魔力制御は、なにも戦闘だけのものではない。

 ワックスを分子レベルで均一に塗り広げ、石材の微細な凹凸を完全に埋め尽くす。これぞ芸術。これぞ職人技。


 俺は一人、己の仕事ぶりに悦に入っていた。

 その静寂を破ったのは、外から聞こえてくる数人の生徒たちの軽薄な笑い声だった。


「おい、マジでここかよ? 出るって噂の旧校舎」

「へへっ、肝試しには最高じゃん」


(……肝試し、だと?)


 俺の眉が、ピクリと痙攣した。

 聞こえてくる会話から察するに、貴族の、それも素行のよろしくない連中だろう。


 そして、俺の耳は聞き逃さなかった。ザッ、ザッと泥を引きずるような足音を。

 まさか。この神聖な領域に、泥靴で踏み入るつもりか……?


 ギギギ……と、裏口の扉が軋む音がし、三人の男子生徒が姿を現した。


「うおっ!? なんだここ、床がピカピカじゃねえか!」

「誰か掃除してんのか? キメェな」


 彼らは土足で、ズカズカと廊下に上がり込んだ。


 その瞬間。


 ベチャッ。ベチャッ。


 前日の雨でぬかるんだ泥がついた革靴が、俺が魂を込めて磨き上げた床板に、汚らわしい茶色の足跡を刻印した。


(…………)


 俺の脳内で、何かがブツリと切れる音がした。


 だが、事態はそれだけでは終わらなかった。


「おい、なんか甘い匂いがしねえか?」

「あ? そういえば……あそこの壁のシミから漂って……」


 生徒の一人が、壁の隅に残っていた黒いカビの塊に顔を近づけた。

 それは、俺がまだ除去しきれていなかった、旧校舎特有の寄生型魔物『吸魔カビ(マナ・モールド)』だった。


 プシュゥ……。


 カビが微細な胞子を噴出した。

 それをまともに吸い込んだ生徒たちの目が、グルンとあさっての方向へ回転した。


「――ヒャッハァァァァァァァ!!」


 突然、一人が奇声を上げた。カビの幻覚作用により、彼らの精神が「破壊衝動」と「奇妙な潔癖性」に支配されたのだ。


「掃除だ掃除だー! こんな汚ねえ屋敷は、ピカピカにしなくちゃな!」

「そうだ! 汚物は消毒だー!」


 もはや意味不明だ。ラリった生徒たちは杖を抜き放つと、デタラメに魔法を乱射し始めた。


 ドゴォォォォォン!!

 バシュゥッ!


 炎の弾丸が壁を焦がし、風の刃がカーテンを切り裂き、土塊がせっかく磨いた床に散乱する。


「あはははは! 滑る! 楽しいぞこれ!」

「もっと泥だらけにしてやるぜぇぇぇ!」


 地獄絵図だった。俺の聖域(サンクチュアリ)が、たかだか数秒で、泥と煤と瓦礫の山へと変貌していく。ワックスが乾ききっていない床の上で、彼らは泥靴でタップダンスを踊るように暴れ回っている。


***


 旧校舎の外、茂みの中。

 レオナルドは、その光景を震えながら見つめていた。


「な、なんという冒涜だ……!」


 彼は拳を握りしめ、涙すら浮かべていた。


「あの旧校舎は今、先生が俗世の垢を落とし、精神を統一するために築き上げた『静寂の結界』なのだぞ! それを、あのような下劣な土足で踏み荒らすなど……!」


 レオナルドが加勢しようと飛び出そうとした、その時。


 廊下の闇の奥から、冷気が流れ出したのを肌で感じた。空気が凍りついている。

 暴れ回る生徒たちの熱気すらも飲み込むような、圧倒的な「静けさ」が、廊下を満たし始めていた。


 カツン、と一つ、硬質な音が響く。

 暴走していた生徒たちが、本能的な恐怖に駆られたのか、ピタリと動きを止めた。


「あ? なんだテメェは」


 月明かりの下、闇の中から姿を現したのは、一人の男だった。

 右手には、水を含んで重くなったモップ。

 眼鏡の奥の瞳は、生物としての感情が抜け落ち、無機質な光だけを宿している。


「私の作品を……よくもここまで汚してくれましたね。その罪は、万死に値します」


 低い声が響く。だが、その姿を見たレオナルドは、畏怖のあまり膝をついた。


「……違う。あれは怒りではない」


 レオナルドは悟ったように呟いた。


「先生は、怒っておられるのではない。ただ『悲しんで』おられるのだ。神聖なる学び舎を汚す、彼らの魂の腐敗を。そして今、慈悲の心をもって、その汚れを物理的に『浄化』しようと決意されたのだ……!」


 完全なる誤解である。俺はただ、床の汚れを見てブチ切れているだけだ。


「ヒッ……! こいつも汚物だ! 消毒しちまえ!」


 恐怖が攻撃性に転じる。正気を失った生徒たちが、俺を敵――あるいは「除去すべき汚れ」と認識し、一斉に杖を構えた。


「死ねぇぇぇ! 『火炎弾(ファイア・ボール)』!」

「『石礫(ストーン・ブラスト)』!」


 至近距離からの魔法一斉掃射。

 だが、俺は動じない。

 ただ静かにモップを構え直し、氷点下の声でボソリと呟いた。


「……躾の時間ですね」


(はぁ……残業、決定ですか)

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