第16話 聖布の祓魔と物理的浄化

「汚物は消毒だぁぁぁぁッ!!」

「死ねぇぇぇ! 『火炎弾(ファイア・ボール)』!」


 幻覚に支配された生徒たちが放つ魔法が、俺に向かって殺到する。狭い廊下での一斉掃射。火球に風の刃、土の礫が嵐のように降り注ぐ。普通なら回避不能、即死コースだろう。


(……はぁ。最近の若者は加減というものを知らない)


 俺は内心で盛大に溜息をついた。問題は、彼らの攻撃ではない。


(この火炎弾、床に当たったらワックスが焦げるじゃないか。石礫は論外だ。傷がつく)


 俺の怒りのベクトルは、完全にそっちを向いていた。


 俺は最小限の動き――半歩下がる、肩を引く、膝を抜く――だけで、全ての魔法を紙一重で回避し続ける。

 床に足跡一つつけないよう、スライムの身体操作術を応用した『幻影歩法』で、魔法の弾幕をすり抜けていた。


 四天王時代、勇者パーティの放つ光速の斬撃を見切っていた俺の動体視力にとって、ラリった学生の魔法など、スローモーションのキャッチボールに過ぎない。


「なっ!? 消えた!?」


 生徒の一人が驚愕の声を上げる。俺は既に、その背後に回り込んでいた。


(目的は鎮圧じゃない。原因除去だ)


 俺は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、解析眼(スキャン)を発動する。


 彼らの皮膚や制服の表面には、微細な黒い粉塵が無数に付着していた。『吸魔カビ』の胞子だ。あれが毛穴や繊維の隙間に根を張り、神経毒を送り込み続けている。


 つまり、これは暴動ではない。極めて深刻な『汚れ』だ。


「……不潔ですね。今すぐ洗い流して差し上げましょう」


 俺はバケツの水にモップを突っ込み、たっぷりと水を含ませて引き上げた。

 濡れたモップを全力で叩きつければ、人間の頭蓋骨など容易に砕けるだろう。


(だが、そんなことをすれば返り血で床が汚れる。却下だ)


 俺が選んだのは、もっと繊細で、職人的なアプローチだった。

 俺は残像を残すほどの速度で、生徒たちの間を駆け抜けた。


「え?」


 生徒が間の抜けた声を上げた瞬間。

 俺の腕が残像を描いた。


 バチィィィィィィィィンッ!!


 凄まじい破裂音が廊下に響き渡る。

 俺の繰り出したモップの先端が、生徒の顔面を捉えた音だ。普通なら、鼻骨が砕け、前歯が吹き飛ぶ衝撃音。


 だが、生徒の顔には傷一つついていない。俺のモップは彼の皮膚に一ミクロンも触れてすらいなかった。


 水を含んだモップの繊維一本一本を魔力で硬質化させ、打撃の瞬間に「摩擦係数」と「衝撃浸透率」を完全に制御。肌を傷つけずに、皮膚の表面、ミクロン単位の層に根を張った『カビの胞子』だけをこそぎ落とす神業――『高速精密払拭(ハイ・スピード・ワイピング)』。


「つ、次ぃ!」


 俺は流れるような動作で、二人目、三人目の懐へと滑り込む。


 バチン! バチン!


 時間差で、二つの破裂音が響く。

 一人は背中に、もう一人は肩に、見えない衝撃を受けたように硬直し、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。


「……ふぅ。頑固な汚れでした」


 俺はモップについた黒いヘドロ(除去したカビの塊)をバケツで洗い落としながら、倒れた生徒たちを見下ろした。床には、新たな汚れも傷も一切ない。完璧な仕事だ。


「……う……ん……? あれ……俺、今まで何を……?」


 一人の生徒が、ふらふらと上半身を起こす。彼は自分の顔をペタペタと触り、不思議そうな表情を浮かべた。


「殴られたはずなのに……痛くない……? いや、それどころか……なんだ、この爽快感は……!?」

「本当だ……! 頭のモヤが晴れて、身体が羽のように軽いぞ!」

「身体中の毛穴という毛穴が呼吸しているみたいだ……」


 彼らは憑き物が落ちたような、晴れやかな顔で互いを見合わせた。

 当然だ。神経毒を出すカビを根こそぎ除去し、ついでに毛穴に詰まっていた老廃物までモップの繊維で絡め取ったのだから。今の彼らは、高級エステ帰りの肌ツヤをしているはずだ。


「な、何をしたんだ……あんた……」


 生徒たちが、畏怖と感謝の入り混じった眼差しで俺を見上げる。

 俺は眼鏡を光らせ、短く答えた。


「ただの拭き掃除です。次は泥靴で上がらないように」


***


 旧校舎の外、茂みの中。


 レオナルドは、その一部始終を息を殺して見つめていた。彼の金色の瞳は、畏怖と感動がない交ぜになった色に濡れている。


「見えない……! 先生の動きが、目で追うことすら叶わない……!」


 彼の目には、ゼクスが神速で動き、暴徒と化した生徒たちを、モップの一振りで次々となぎ倒していくように見えていた。それは暴力ではない。あまりにも洗練された、一種の「舞」のようだった。

 そして、彼は聞いた。正気に戻った生徒たちの「痛くない」「身体が軽い」という言葉を。その瞬間、レオナルドの脳内で、全てのピースがカチリと嵌った。


「……そうか。そうだったのか……!」


 レオナルドは茂みから飛び出すと、天を仰ぎ、感極まった声で叫んだ。


「あれは打撃ではないッ! 聖なる布(モップ)による『祓魔(エクソシズム)』の儀式だッ!」


 彼の絶叫が、夜の学園に響き渡る。


「先生は、彼らの肉体を傷つけることなく、その魂に巣食った『穢れ』そのものを、物理的に叩き出して浄化しておられたのだッ! おお……! なんと深き慈悲……!」


 レオナルドがその場でひれ伏し、祈りを捧げ始めた、その時。


 ズズズズズ……。


 俺の視線の先――生徒たちから除去され、床に散らばっていた黒いヘドロが、不気味な音を立てて一箇所に集まり始めた。

 それらは、壁のシミ、天井の埃、床下の泥を磁石のように引き寄せ、ゆっくりと人型を形成していく。


「な、なんだアレ!?」

「汚れが……動いてる!?」


 生徒たちが悲鳴を上げる。

 俺の目の前で、ヘドロと埃が混ざり合い、高さ三メートルを超える巨大な人型――『汚泥の巨人(ダスト・ゴーレム)』が誕生した。


「グオオオオオオオオッ!!」


 巨人の咆哮と共に、悪臭を放つカビの胞子が猛吹雪のように噴き出す。

 俺は、心の底からうんざりした溜息をついた。


「まだ終わりじゃない、と? 面倒な……。残業手当は出るんでしょうね、教頭」

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