第14話 職人の高圧洗浄と泥の諜報網
旧校舎の廊下に立ち、俺は思わず呟いた。
「……これは、ひどいな」
五十年間の放置プレイによって、石造りの洋館は立派な魔窟(ダンジョン)へと進化を遂げていた。カビと埃が混じり合った異臭が鼻を突き、床は長年の泥と魔物の体液か何かで粘ついている。天井からは、意思を持っているかのように蠢く巨大な蜘蛛の巣。空気中には、魔力を帯びたカビの胞子がキラキラと舞っていた。
まさに怨念と瘴気が渦巻く『魔の巣窟』。
普通の人間なら悲鳴を上げて逃げ出すだろう。
だが。
「……そそるじゃないか」
俺の口元が、自分でも気づかないうちにニヤリと歪んだ。
完璧主義で潔癖症の俺にとって、この完璧なまでの「汚れ」は、挑戦状以外の何物でもない。
「上等だ。四天王時代、魔王城の便器という便器を鏡面仕上げにしてきた、この俺の『清掃技術(クリーニング・アーツ)』を舐めるなよ」
俺は上着を脱ぎ捨て袖をまくり、業務用のデッキブラシを槍のように構えた。
まずは床にこびりついた、どす黒いシミ。これはただの泥ではない。長年の魔力実験で染み付いた残留魔力が、埃と化学反応を起こして硬質化した『魔垢(マナ・スケール)』だ。
「通常洗浄では落ちない。ならば――これだ」
俺は右手の指先に魔力を集中させ、極細の水流を生成した。
本来は、城壁の岩盤を切断するために使う高圧水流魔法『高圧水刃(アクア・カッター)』。その殺人的な水圧を、0.01%まで極小化し、極限まで圧力を高めた一点集中のジェット水流だ。
(魔王軍式清掃術・第一工程――『高圧剥離(ハイ・プレッシャー)』!)
シュゴォォォォッ! キイイイイン!
デッキブラシの先端から射出された超高圧の水の刃が、床の染みをミリ単位で削り取っていく。石材そのものを傷つけず、表面の汚れの層だけをミクロン単位で剥ぎ取る、神業の制御。
「ふん、ふん、ふーん♪」
鼻歌交じりに、リズミカルにブラシを動かす。長年の汚れが、まるで薄紙を剥がすように綺麗になっていく。快感だ。これだから掃除はやめられない。
その時、廊下の柱の陰から、何かがこちらを覗いている気配がした。
「……ひぃっ!?」
俺が視線を向けると、瓶底眼鏡の少女――リリィ・アストラルがビクッと肩を震わせ、慌てて柱に隠れた。
(……なんであいつがいるんだ)
まあいい。見て見ぬふりだ。俺は清掃に集中する。
柱の陰から、リリィの震える声が漏れ聞こえてきた。
「す、すごい……! すごすぎますぅ……!」
(ん? 何がだ? ただの掃除だが)
「ち、違う……! 汚れを物理的に落としているんじゃない……! あれは、空間そのものに付着した『不浄』という概念を、座標情報ごと削り取っているんだわ……!」
彼女のブツブツという呟きが、徐々に熱を帯びていく。
「空間切除魔法の、究極の応用……! あんな芸当、神話級の魔導師でも不可能では……!? く、空間ごとリフォームするなんて……! 先生の『綺麗好き』は、次元が違いますぅ……!」
(買いかぶりすぎだ。ただの水圧調整だぞ)
俺は内心で呆れながらも、作業の手は止めない。
一階の廊下をあらかたピカピカにし終えたところで、額の汗を拭って一息ついた。
「さて、次は情報収集だ」
ヴォルカの魔力残滓を探さなければ、俺は追放される。
この広大な学園を一人で探すのは非効率的だ。ならば、手を使うまで。
「――集まれ」
俺が指をパチンと鳴らすと、床下や天井裏から、無数のスライムたちが「ぷるぷる」と姿を現した。
「お前たちに特別任務(おやつ)をやる。この匂いを覚えろ」
俺は懐から、ヴォルカのマントの切れ端を取り出す。戦闘中にこっそり回収しておいたものだ。スライムたちは俺の命令に従い、切れ端に群がってヴォルカの魔力の匂いを記憶していく。
「よし。学園中に散れ。この『辛い匂い』が強く残る場所を探し出せ。特に、地下や排水溝を重点的にな。見つけ次第、俺に報告しろ」
『『『了解、ボス!』』』
スライムたちは一斉に弾むと、窓の隙間や壁の亀裂から、テレポートにも似た高速移動で屋外へと散っていった。
その時だった。
「――見よ!」
校舎の外、中庭の方から、やけに芝居がかった大声が聞こえてきた。
窓から見下ろすと、そこにはレオナルドが、数人の取り巻きを連れて仁王立ちしていた。
「先生が……いや、我らが王が、ついに動かれたぞ!」
(王……? 誰のことだ)
レオナルドは、排水溝の中へと次々に消えていくスライムたちを指差して、興奮気味に叫んだ。
「あれはただのスライムではない! 王に絶対の忠誠を誓った、影の眷属(ケンゾク)たちだ!」
「「「おおっ!」」」
「王は、今この瞬間、無数の密偵を解き放たれたのだ! あの汚れた排水溝は、彼らにとって学園の地下水脈を通じ、この国全土へと繋がる秘密の回廊となる!」
取り巻きの生徒たちが、息を呑む。
「な、なんと……! では、先生の目的は……!?」
「愚か者! ヴォルカなどという匹夫の捜索が目的であるはずがないだろう!」
レオナルドは天を仰ぎ、高らかに宣言した。
「これは、この国に潜む全ての悪意と陰謀を暴き出すための、壮大なる『泥まみれの捜査網(ダーティ・ネットワーク)』の構築なのだッ!」
(……ただの害獣駆除と証拠探しなんだが)
俺は盛大にため息をつくと、窓から離れた。
誤解が加速しすぎて、もはや訂正する気力も湧かない。
***
日が落ち、旧校舎が真の闇に包まれようとしていた頃。
鏡のように反射する床を見て、俺は満足げに頷いていた。
だが、俺の安息は長くは続かなかった。
ザッ、ザッ、ザッ。
校舎の外から、忍び足で近づいてくる複数の気配。制服を着た数名の生徒たちだ。
「おい、ここだよな? 出るって噂の旧校舎」
「へへっ、肝試しには最高じゃん」
(……肝試し、だと?)
俺のこめかみがピクリと動いた。
ここは今、俺が丹精込めてワックスをかけたばかりの神聖な領域だ。そこへ、泥だらけの靴で入ってくるというのか?
さらに悪いことに、俺の鼻は嫌な臭いを捉えていた。旧校舎の奥、湿気の多い北側の部屋から漂う、甘ったるい腐臭。人間の精神に作用する幻覚性の『吸魔カビ(マナ・モールド)』の胞子の臭いだ。
「……やれやれ」
俺は眼鏡を光らせ、静かにモップを構え直した。
「躾(しつけ)の時間が必要らしい。……残業、決定ですか」
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