転・2

 どれくらいの時間、読み続けていたのだろう。


 ページをめくる指が汗で湿っていることに、ようやく気づいた。


 私は最後の一文を静かに追った。

 


『──これで、自分も「彼ら」と一つになれる。』



 視界の端がじわりと歪む。


(⋯⋯“彼ら”?)


 喉が渇いて声が出なかったが、私は震える唇を無理やり動かした。


「⋯⋯あの。“彼ら”って⋯⋯何ですか?」


 返事はなかった。


 代わりに──


 芽衣が、ゆっくりと顔を上げた。


 その目が、まばたきを忘れた人形のように“まっすぐ私だけを見ていた”。


「⋯⋯⋯⋯。」


 呼吸がひゅ、と細くなる。


 彼女は笑っている。


 だが、笑っている“形”をしているだけで、そこに感情はなかった。


 しばしの静寂のなか、時間が過ぎてゆく──


(なんで⋯⋯返事しないの⋯⋯?)


 その沈黙が、言葉以上に深く私を締め付けた。


 私は耐えきれず、視線を横にそらした。



 ⋯⋯窓。



 外を見た瞬間、頭の奥で何かが弾けた。


 住宅地の静かな道。


 立ち並ぶ家々。


 電柱。車。庭木。郵便受け──。


 その上に。その横に。窓から見える景色一面に。

 


 ──夥しい数の、人が立っていた。


 

 いや、あれは人なのだろうか。


 距離があるはずなのに、誰もが全く同じ顔をしている。


 白い仮面を貼りつけたように、目も口も、形も同じ。


 均一な表面。均一な笑み。均一な目。


 まぶたが動かない。


 そして全員が⋯⋯こちらを、見ている。


 動かない街並みの中。


 その「同じ顔」がじっとこちらを凝視していた。



「っ⋯⋯!」



 息ができなかった。


 肺がひりつき、視界が白く点滅する。


 慌てて、視線を芽衣に向ける。


 

 飛び上がるほどの恐怖が背骨を駆け上がった。


 目の前にいるのは、芽衣のはずだ。


 なのに、その顔が──


 窓の外の「彼ら」と“同じ顔”だった。



「いや⋯⋯っ⋯⋯!」



 私はファイルを落とし、部屋から飛び出した。



 玄関の扉を乱暴に開け、外へ駆け出す。


 冷たい空気が肺に刺さる。


 逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。



 ただただ、それだけが頭を支配していた。



 角を曲がった瞬間──



「あら!立花さん、待ってたわよー?噂の真相、聞いてきたんでしょ?」



 佐久間が立っていた。


 昨日と同じ笑顔のはずなのに。


 なのに、その顔は。


 同じ顔だった。


 窓の外にいた「彼ら」と同じ顔。


 芽衣と同じ顔。


 この町で見かけた、すれ違う人々と同じ顔。



「──、──?」



 声が遠い。


 頭の奥に直接響くように揺れた。


 脈が早い。


 視界がぐらりと揺れる。


 足の感覚が消える。



 そこで記憶が、ぷつりと途切れた。

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