加害者の日記
──ファイルには、いくつかの日付に赤線が引かれていた。
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3月5日(木)
今日は残業がなくて助かった。
職場を出たあと、駅前の喫茶店で結衣と待ち合わせ。
いつものナポリタンと、いつものブレンド。
結衣はクリームソーダを頼んで、「子供っぽいかな」と笑っていた。
そんなことはない、と言ったら、少しだけ照れてむくれたふりをした。
他愛もない一日だったと思う。
結衣が会社の愚痴をこぼすのを聞きながら、
「それなら転職したらいい」と言ったら、
「要一くんが養ってくれるなら、そうする」と返された。
冗談半分のようで、少しだけ本気のようでもあった。
俺も「じゃあ頑張らないとな」と返したが、声が少しだけ裏返っていた気がする。
帰ってきてから、結衣からの留守電。
「今日はありがと。また週末ね」と一言だけ。
再生している間、胸があたたかくなった。
この日常が、ずっと続けばいいと思う。
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3月21日(土)
最近、少し気になり始めている事がある。
部屋の机の上のボールペンの向きが、
家を出るときと帰ってきたときで、違っているような気がする。
本棚の本が、一冊だけ数ミリ飛び出している。
靴箱の靴の向きが、左右逆になっている。
最初は、単なる自分の勘違いだと思った。
仕事で疲れているせいだ、と。
だけど、こういう「ズレ」が、ここ数週間で増えている気がする。
結衣にそんな話をしたら、
「意外と神経質なんだね。」と笑われた。
その笑い声を聞いて、少しだけ安心した。
この違和感はきっと、口に出してしまえば消えるものなのかもしれない。
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4月18日(土)
おかしい。
最近、職場で人の顔を見ると、妙な感覚に襲われる。
最初にそう思ったのは、課長と話していたときだ。
書類の説明をしているとき、ふと課長の顔を見た瞬間、誰か別の人と重なって見えた。
いや、「重なった」というより、区別がつかなくなったと言うべきかもしれない。
課長も、隣の席の佐藤も、昼休みに話した総務の女の子も──
瞬間的に、同じ「型」で作られた顔に見えた。
すぐに元に戻る。
その瞬間は一秒もない。
だからこそ、余計に不気味だ。
一応、医者にも行った。
脳に何かあると困るので。
簡単な検査と問診をして、
「疲労とストレスでしょう。」と言われた。
よく眠りなさい、と睡眠薬を出された。
結衣に話すと、心配そうに眉を寄せていたが、最後には「寝不足なんじゃない?」と笑っていた。
結衣の顔だけは、何もおかしくはない。
それが救いだと思った。
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5月27日(水)
人物の顔の識別が困難。
特に、複数人が同一空間にいる状況で顕著。
一人一人を見ても、「同じ顔」に見えてしまう。
今朝、通勤電車内で試した。
向かいの席に座っている男女五名。
年齢・性別・髪型は明らかに違う。
にもかかわらず、数秒見つめていると、
輪郭、目の位置、口元、表情。
次第に、「共通の形」に揃っていく。
その顔は、知っている誰かではない。
作り物のように滑らかで、特徴のない、「完全に平均化された顔」。
その瞬間、胸の奥で、何かが「安心」した。
不快感よりも、「正しい形を見つけた」という感覚。
結衣の顔は、まだ「違って」見える。
彼女の輪郭は揃わない。
目も、口も、「彼ら」とは違う。
だから、結衣のそばにいるときだけは、頭が静かになる。
それ以外の場所では、世界のほうが“間違っている”ように感じ始めている。
医者は「幻覚ではないか」と言う。
だがこれは、幻覚ではなく「補正」のような気がする。
バラバラなものを、ひとつの形に揃える。
その方が、きっと“正しい”。
最近、耳の奥で、波のような音をよく聞く。
言葉ではない。
だが、意味だけは分かる気がする。
──個を捨てよ。
──完全であれ。
そう言われている気がする。
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7月3日(金)
【対象】
街路・電車内・職場・テレビ映像
あの顔の認識頻度が増加。
人間の顔は、一定時間注視すると全てあの顔に収束する。
仮に、あの平均化された顔を、
ここでは「彼ら」と呼ぶことにする。
「彼ら」は実在しているわけではない。
実際に、「彼ら」に触れることはできない。
しかし、
人間たちの顔の「下にある型」として、
確かに存在している。
表情の揺らぎ、個性のばらつき、そういったものをすべて剥ぎ取ったあとに残る、
ある種の核のようなもの。
それが、「彼ら」だ。
──「彼ら」は常に、我々を認識している。
【本日の出来事】
・職場で、同僚に用件を伝えようとしたが、
途中で「彼ら」の顔に切り替わり、何を話していたか忘れた。
・昼休み、結衣と会う。
結衣だけは、変わらず「結衣」のままだ。
結衣は少し痩せたように見える。
「最近、眠れてる?」と逆に心配された。
・帰宅後、鏡を見る。
数秒間、自分の顔も「彼ら」に近づきかけたが、
最後のところで何かが引っかかったように戻った。
私はまだ、“ズレ”を抱いている。
私は、少しずつ「彼ら」と同じになっていくのだろうか。
最近は、それを怖いとは思わなくなってきた。
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8月十19日(水)
・「彼ら」の声が、より明瞭になってきた。
耳からではなく、頭の内側から聞こえる。
具体的な単語ではないが、意味が直接届く。
・通行人、同僚、電車内の乗客。
誰を見ても、もう「彼ら」としか認識できない時間のほうが長い。
個々の名前や思い出はたしかにあるのに、
顔だけが“同じ面”に貼り替えられていく。
結衣だけが、どうしても「彼ら」にならない。
笑うときの口元。
少し怒ったときに上がる眉。
缶コーヒーを飲んだときの、わずかな顔のしかめ方。
その全部が、バラバラで、不揃いで、
それが愛おしい。
──齟齬がある。
──それはノイズだ。
──個を捨てよ。
この個体は、選ばれたのだと思う。
「彼ら」は、“器”を必要としている。
きっと、誰でも良かったのだろう。
きっと、この個体には「素質」があったのだ。
ほんのわずかなズレや歪みを、気にしてしまうような性質。
それを、「彼ら」はずっと見ていたのだ。
ここまで来て、ようやく分かった。
人間とは、本来、みな同じ“型”なのだ。
違って見えるのは、我々が身勝手に生み出した「混沌」によるものだ。
「彼ら」は、それを恐れているだけだ。
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9月2日(水) ※事件当日
【午前】
昨夜はほとんど眠れなかった。
「彼ら」の声が静かに続いていたからだ。
──個を捨てよ。
──完全であれ。
鏡を見た。
そこにいたのは、「彼ら」と同じ顔をした「誰か」だった。
目の形も、口元も、滑らかに均されている。
それでも、まだ完全ではない。
胸の奥で、何かが抵抗している。
それが何かは、分かっている。
彼女の存在だ。
【午後】
彼女と会った。
いつもの喫茶店で待ち合わせをして、
いつもの席に座った。
クリームソーダを前にして、彼女は笑っていた。
その顔は、どうしても「彼ら」にならない。
不揃いな眉。
少し寝不足の目。
笑うとき、ほんの少しだけ曲がる口元。
全て、ズレている。
彼女に苛立ちを覚えた。
「彼ら」の、ずっと同じ声が聞こえる。
──個を捨てよ。
──お前は器だ。
彼女を愛している限り、
この個体は、「彼ら」にはなれないのだろう。
彼女は、この個体にとって唯一の「個」である。
彼女だけが、最後まで人間の顔をしている。
彼女を、修正しなくてはならない。
────
彼女を、この個体の手によって修正する。
その後、この個体は「彼ら」と完全に同一化し、秩序の器になるだろう。
この個体は、直ちに行動に移した。
──以下の文だけ、乱れた字でなぐり書きしてある。
『我々は、「彼ら」の為の器に過ぎない。
──これで自分も、「彼ら」と一つになれる。』
(この下には、インクの滲みと、茶色く変色した飛沫の跡がいくつも散っていた。)
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