承・4

 翌日。


 七草は、約束した時刻より少し早く喫茶店に着いた。


 ガラス越しに見える店内は、古びてはいるが清潔で、どこか昭和の面影を残している。


 七草がドアを押し開けると、チリン、と鈴が鳴る。


 昼過ぎの店内は空いており、窓際の席には──昨日のおばさんが座っていた。 


 おばさんは、ぱっと花が開いたように笑った。


「来たわねぇ、記者さん。」


「昨日は、ありがとうございました。」


 七草は軽く会釈して、向かいの席に座った。


 おばさん──佐久間と名乗った女性は、すでに飲みかけの紅茶を手にしている。


 湯気はもう出ていないのに、まるでさっき淹れたてかのように香りが濃い。


「それで⋯⋯事件のこと、もう少し教えていただけますか?」


「もちろんよぉ。それでね、昨日の続きなんだけど──」


 佐久間は身を乗り出すようにして話し始めた。


 しかし、七草はすぐに違和感を覚えた。


 語られる内容は、昨日より“詳細っぽい”ものの、どれも曖昧。


 いつ誰が何をしたのか、肝心なところになると途端にぼやける。


「都築さんの娘さんね⋯⋯。名前は⋯⋯えぇと⋯⋯ほら⋯⋯あれよ、なんだったかしら。喉まで出てるんだけどねぇ。」


 笑いながら言うが、思い出す様子はない。


「織田君って子はね、ほんとに優しい子だったらしいのよ。誰にでも笑顔で⋯⋯。でもある日突然、“みんな同じ顔に見える”って言ってねぇ⋯⋯。その頃から、都会の噂がどうとか⋯⋯なんだっけ⋯⋯。」


 そこまで言って、佐久間はハッとしたように笑顔を戻す。


「ごめんなさい、ほら、年を取るとねぇ、昔のことはうろ覚えで。」


(⋯⋯何も進展がない。)


 七草は静かにノートを閉じた。


「いろいろありがとうございます。助かりました。」


「いいのよぉ。私は話せることは大体話したし。あなた、真面目でいい子ねぇ。きっと分かるわ、この事件の“本当のところ”⋯⋯。」


 その言い方が、なぜか耳に引っかかった。


「⋯⋯では、失礼します。」


 七草は、会計を済ませ、喫茶店を後にした。


 扉が閉まる瞬間、背後から佐久間の声が追いかけてきた。


「立花さん⋯⋯またお話しましょうねぇ。」


 七草は振り返らなかった。


 外に出ると、昼下がりの光がどこか鈍い色をしている。


 (⋯⋯結局、新しい情報は無かったな。)


 冬の空気は透き通っているはずなのに、喫茶店の周囲だけ、じっとりと湿っているような気がした。


(⋯⋯図書館に行こう。)


 七草は自分に言い聞かせ、歩き出した。

 


 ──しばらく歩くと、図書館に着いた。


 町の図書館は小さな建物で、古びた看板が風に揺れている。


 入り口の自動ドアは反応が鈍く、七草は軽く押して通り抜けた。


(新聞の縮刷版……当時の地元紙なら、何か残っているかもしれない。)


 受付の職員に挨拶をし、資料コーナーへ向かう。


 紙の匂いが積み重なった空間。


 古い雑誌、黄ばんだ新聞、手作業で綴じられた地域資料。


 この町の時間が、棚に静かに眠っている。


 七草は椅子に座り、一冊目の縮刷版を開いた。


(……何か、手がかりが見つかりますように。)


 その願いは、半ば祈りに近かった。


 昨日からずっと胸に残っている“ざらりとした違和感”が、ページをめくる指先にまとわりつく。


 外では風が吹いているはずなのに、この館内だけは妙に静かだった。



 ──ホテルへ戻る道は、昨日よりもずっと寒かった。


 街灯の光が薄く、夜の町は音がほとんどしない。


(⋯今日も疲れたな。)


 結論から言うと、昼に喫茶店で佐久間に聞いた話以上の事は、何も得られなかった。


 やがてホテルの部屋へ戻り、七草はベッドに腰を下ろす。


 今日も、最初の夜と同じように、部屋のわずかなズレが気になった。


 机の上のメモ帳が、昨日より数ミリ横に動いている気がした。


(気のせい⋯⋯だよね?)


 自分で直したのかもしれない。


 ただ、増え続ける“気のせい”が、胸の奥でじわじわと膨らんでいく。


 シャワーを浴び、髪を乾かし、ベッドへ横たわる。


(落ち着かない⋯⋯。)


 でも、眠らなければ。


 また明日も、動かなければ。


「⋯⋯大丈夫、大丈夫。」


 七草は、昨夜より少し強く、自分に言い聞かせた。


 真っ暗な静寂の中、不規則な時計の音だけが「カチ、⋯⋯カチ」と鳴り響いていた。

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