起・1

 会社に着くと、オフィス特有の雑多な音が耳に馴染んだ。


 キーボードを叩く音、コピー機の回転、遠くで笑う同僚の声。そのすべてが、ありふれた朝の日常だ。


 席についた七草は、すぐさまPCを立ち上げ、電車で見た事件の情報を検索した。


 打ち込んだキーワードが表示されては消え、また表示されては消える。


(⋯⋯やっぱり、出てこない。)


 ニュースサイトにも、過去の資料にも、データベースにも、


 “それらしい事件”はまるで存在しないかのようだった。


(でも⋯⋯まとめサイトにあった記事は、作り話じゃない。)


 胸に引っかかっているのは、“見過ごしてはいけない”という、粘着質な違和感だった。


 そんな時、背後から声がした。


「⋯⋯おい、立花。朝っぱらから難しい顔してどうした?」


 振り向くと、五十嵐がコーヒーを片手に立っていた。


 今日も、ネクタイは僅かに曲がっている。


「五十嵐先輩、この事件について⋯⋯知りませんか?」


 七草は、先ほどのまとめ記事を見せた。


「⋯⋯⋯⋯なんだこりゃ。オカルトか?」


「ちょっと気になって⋯⋯。」


 五十嵐は眉をひそめ、こめかみをペンで掻きながら言った。


「おい、昨日言ったよな?SNSで拾っただけの噂、追っかける連中が多いって。」


 七草は食い下がる。


「それでも、私は⋯⋯この事件のことを調べたいんです。」


「立花。仕事ってのは“興味”だけで動いちゃいけねぇんだぞ?」


「分かってます。でも⋯⋯。」


 言葉にできない違和感が、喉の奥で膨らむ。


(曖昧にしておいたら、いけない。)


 そんな感覚だけが、やたらと重たく残っていた。


「⋯⋯取材、行かせてください。」


 気づけば、口が勝手にその言葉を紡いでいた。


「⋯⋯本気か?」


「本気です。」


 五十嵐はため息をつき、ポケットから煙草を取り出す。


 火を点ける前に、一度だけ七草を見た。


 その視線には、心配と、諦めと、理解できない何かが混じっていた。


「⋯⋯分かったよ。自己責任でやれ。ただし、変に深入りすんな。いいな?」


「⋯⋯はい。⋯⋯でも、社内は禁煙ですよ?」


 

 七草が背を向けて席に戻るとき、五十嵐はぽつりと呟いた。


「やれやれ⋯⋯立花、お前、今日はなんか⋯⋯変だぞ。」


 七草は聞こえないふりをした。


 胸の奥で、鼓動がなぜか少し早くなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る