プロローグ・2

 編集長への提出を済ませ、軽い小言を聞き流した頃には、すっかり日が暮れていた。 


 電車を降りた七草は、肩にかけたバッグを握り直し、最寄り駅から自宅マンションまで歩いた。


 家までの帰り道は静かで、人影もまばらだ。


 秋の夜風は涼しく、街灯の光がわずかに揺れている。 

 七草はマンションのエレベーターに乗り込み、いつもの階のボタンを押す。


(今日は疲れたな⋯⋯。早くシャワー浴びて寝よ。)


 鍵を回してドアを押し開ける。


「ただいまー。」


 当然、返事はない。ひとり暮らしなのだから。


 幼い頃から染みついた、いつもの癖だ。


 ワンルームの小さな部屋。慣れ親しんだアロマの匂い。蛍光灯の灯りの下、整然と並ぶ家具。


 七草は靴を脱ぎ揃えると、バッグをいつもの決まった場所に置き、上着をハンガーに掛ける。


 この一連の流れは、いつもの日常だ。


 ──だけど、その日は。


(⋯⋯あれ?)


 部屋の中央に置いたローテーブルの位置が、ほんの少し、ずれていたように見えた。


 気のせいだろうか?


 数センチ⋯⋯いや、数ミリ。そんな僅かな差。


 少しだけ、胸の奥がそわついた。


 七草は軽く頭を振り、


 (早く寝よう。)


 と自分に言い聞かせるように呟きつつ、テーブルを元の位置にわずかに押し戻した。


 シャワーを浴びて、着替えを終え、ベッドに横になる。


 帰り際に飲んだ、コーヒーの苦味がまだ舌に残っている気がして、少し寝付きが悪い。


 天井をぼんやり眺めていると――不意に、今日の五十嵐の言葉が蘇ってきた。


『ネットの噂は話半分で聞け』


 七草は小さく溜息をついた。


(⋯⋯噂、か。)


 目を閉じると、ゆっくりと意識が沈んでいく。


 眠りに落ちる直前、ふと。


 誰かが部屋の隅からこちらを見ていたような“気配”を感じた。


(⋯⋯疲れてるだけ。)


 そう自分に言い聞かせて、静かに眠りに落ちた。

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