第5話 刃の距離

 夕暮れの霧が、筑紫平原を静かに飲み込んでいく。


 薄紫の霧が地を這い、遠くの山はぼんやりと幻みたいに霞んでいた。

 風はほとんど吹かず、草の先がかすかに震えるだけ。

 湿った空気が肌にまとわりついて、じんわりと冷たい。


 その霧を、すっと裂く影がひとつ。

 ひとりの少年が、神殿の門をくぐった。


 狗奴国の暗殺者アサシン、ナシリ――


 十四歳。

 そう言って信じる者は、あまり多くはないだろう。


 濃い灰色の瞳は、年相応のあどけなさより先に、冷酷な色が勝つ。

 日に焼けた褐色の肌には、細かい傷がいくつも走る。

 どれも、命のやり取りの中で刻まれたものだ。


 邪馬台国の南。武と剣を重んじる国、狗奴国くなこく


 ナシリが属するのは、その軍のさらに裏側に潜む「影の兵」だった。

 存在を知られることなく、命じられた標的だけを確実に消す者たち。


 名前なんて、あってないようなもの。

 幼いころから叩き込まれてきたのは、人の殺し方と、感情の殺し方だけ。

 それが、ナシリという少年だった。


 今回の標的は、邪馬台国の幼い女王候補・壱与。


 卑弥呼の死。

 その後の男王即位と暗殺。

 国中を飲み込む混乱。


 邪馬台国に生まれた一瞬の「隙」を、狗奴国は見逃さなかった。


 表向きは沈黙を守りながら、裏では静かに工作を進める。

 そして、中枢へと一本の「刃」を送り込んだ。


 その刃こそが、今、神殿の回廊を歩いているナシリだ。


 邪馬台国を裏切り狗奴国と通じた臣の手引きで、壱与の「護衛」として配属された。


 任務はただひとつ。

 壱与を排すこと、それだけ。


 期限は一月、方法は問わない。

 ただし、狗奴国の関与を悟らせてはならない。


(いつも通り、だな)


 標的の年齢も、性別も、関係ない。

 命令があれば、迷わず刃を振るう。

 それが今までの「普通」だった。


 燻した草の匂いが、霧の冷気に混じってくる。

 神々の気配を称えるその香りは、ナシリには馴染みのないものだった。


(……俺のいた場所に、こんな匂いはなかったな)


 狗奴国の影の兵がいるのは、血と汗と鉄の匂いしかしない場所。

 戦と死の匂いだけが、日常だった。


 今日も同じはずだった。

 一撃で終わらせる。

 いつも通り、淡々と。


 ――たった今までは。


  * * *


 女王の姿を見た瞬間、ナシリの呼吸が止まった。


 玉座にいたのは、小川のほとりで出会った、あの少女――


 黒髪は美しく結い上げられ、白い麻の神衣をまとっている。

 薄く化粧も施され、女王らしい威厳がそこにはあった。


 けれど、その瞳は変わらない。


 優しくて、澄んでいて。

 再会を心から喜んでいる、真っ直ぐな光。


「……また会えたわね」


 壱与が、ふわりと微笑む。

 まるで、こうなることを最初から知っていたように。


「ずっと待っていた」とでも言いたげな、安堵の笑顔に、ナシリの心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。


(……は? 何が、起きてる?)


 体の奥で、固く凍っていた何かがきしむ。

 氷みたいに閉ざしてきた心に、細いひびが入っていく感覚。


 殺す相手に、いきなり心臓を掴まれたみたいだった。


「……ナシリだ」


 どうにか搾り出せたのは、名前だけ。

 喉がひどく乾いて、声が少しかすれる。


 壱与がゆっくりと近づいてくる。

 その足取りは軽く、衣がふわりと揺れる。


「私のこと、覚えてる? 山犬から助けてくれたでしょ?」


 その声は嬉しそうで、懐かしそうで。

 そして、ほんの少しだけ「恋しそう」な響きすらあった。


「ずっと、待ってたの。あなたに、会いたかった」


 その一言が、ナシリの胸を鋭く刺す。


(……任務のことを知ってて、わざと言ってるのか? それとも、本気で再会を喜んでるだけなのか)


 どっちにしても、理解できない。


 彼女は「標的」で、自分は「刺客」。

 本来なら、決して交わることのない立場なのだから。


 けれど、この瞬間から少しずつ、ナシリにとっての「普通」が崩れはじめていた。


  * * *


 その夜。


 神殿の中庭に、静かな月の光が降り注ぐ。


 サワサワサワ……


 風が竹の葉を揺らし、ささやくような音を立てる。

 石灯籠の小さな炎がゆらりと揺れて、影を踊らせた。

 澄んだ空気の向こう、頭上には無数の星が散らばっている。


 その中心で、ひとりの少女が木剣を構えていた。


 濡れた草の上に裸足で立ち、真剣な目で無心に剣を振るう。


 フッ、フッ、フッ……


 規則正しい呼吸。

 剣を振るたび、衣の裾がふわりと舞う。


 月光を浴びたその姿は、少しだけ現実離れして見えた。


(……物好きな女だ)


 ナシリは、回廊の陰からその様子を眺めていた。


 これは「下見」。


 いつ、どこで、どう近づけば確実に仕留められるか。

 標的の行動を見て、隙を探すための観察。


 ……のはずだったのに。


(何やってんだ、俺)


 気づけば、視線は壱与の足運びや構えじゃなく、その表情ばかり追っている。


「……女王」


 声をかけるつもりなんて、なかった。

 なのに、気がついたら口が勝手に動いていた。


 壱与は剣を止め、振り返る。

 驚くどころか、「やっと来たわね」とでも言いたげに、嬉しそうに笑った。


「そんなよそよそしい呼び方、あなたには似合わないわよ。私は壱与。名前で呼んでちょうだい」


 ナシリは、一瞬、返す言葉をなくした。


(……最初から分かってたのか? 俺が何者で、どこから来て、何のために近づいたのか――全部?)


 喉まで出かかった問いを、飲み込む。


「私ね、ずっと剣の稽古をしてるの。でも、なかなか上達しなくって……」


 壱与は木剣を両手で握り、少し困ったように眉を寄せた。


「……あなたの剣を、もう一度見たいって。ずっと、思ってたの」


 頬に浮かぶ笑みは、小川のほとりで見せたものと同じ、無邪気な笑顔だった。


「お願い、ナシリ。私に、あなたの剣を教えて」


 ナシリの指先が、わずかに強張る。


 暗殺者の目で見れば、今は完璧な「好機チャンス」だ。


 正面から。

 油断した距離で。

 心の隙を見せたまま。


 一瞬で仕留められる間合い。


 それなのに――壱与は平然と、その距離に立っていた。


 恐れもなく。

 疑いもなく。

 ただ、まっすぐにナシリを見ている。


 その信頼が、ナシリの心を容赦なく揺さぶった。


(……なんだよ、その目)


 どうして、そこまで無防備でいられる。


 どうして、そんな顔でこっちを見る。


 どうして――俺なんかを、信じる。


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 ナシリは、ゆっくりと木剣を手に取った。

 口が、勝手に動く。


「……いいのか? 俺は……お前を殺すかもしれないぞ」


 壱与は、一歩も引かなかった。


「あなたはそんなこと、しないわ」


 静かな声。

 でも、芯は驚くほど強い。


 一片の迷いもない、真っ直ぐな信頼。


「だって、私は知ってる。あなたが、どんな人か」


 その一言が、ナシリの胸をきつく締めつける。


(知ってる? 何を言って――)


 俺は人殺しで。

 感情を捨てた暗殺者で。

 命令されれば、誰だって斬ってきた人間だ。


 本当は、そう言ってやればいい。

 けれど、喉が固まって、言葉にならない。


 壱与の瞳にはただ、ナシリを信じる光だけがあった。


「……行くぞ」


 ナシリの声が、かすかに震れる。

 壱与はこくりと頷き、構えた。


 木剣が交差する。


 カンッ!


 乾いた音。

 それは、ふたりの「距離」を測るための、一歩目だった。


 ナシリは、無意識のうちに力を抜いている。


 傷つけないように。

 折れないように。

 壱与の身体を、きちんと守れるように。


 壱与の息はすぐに荒くなった。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ」


 剣を握る手も、わずかに震えている。

 それでも、打ち込んでくるのをやめなかった。


 その必死さが、ナシリの胸の奥を騒がせる。


 カン! カン! カン!


 木剣と木剣がぶつかり合う音が、静かな中庭に響き続けた。


「構えが甘い。右足が遅い」


「踏み込みは悪くない。腕だけで振るな」


「もっと重心落とせ。腰で打て」


 気づけば、親身に指導をしてやっていた。


 誰かに剣を教えたことなど、一度もないくせに。

 それなのに、言葉が勝手に形になって出てくる。


 剣を交えるたびに、壱与の目が変わっていく。


(こいつは遊んでるわけじゃない……真剣に、何かを掴み取ろうとしている)


 汗が額を伝い、呼吸が乱れても、彼女は止まらなかった。

 転んでも、すぐ立ち上がる。

 打たれても、前に出る。


 その姿を見ているうちに――ナシリの中に、今まで知らなかった感情が芽を出し始める。


 ――守ってやりたい。


 ――これ以上、傷をつけたくない。


 胸の奥で、そんな言葉が形になる。


 やがて、剣を下ろした壱与が、肩で息をしながら微笑んだ。


「……明日からも、お願いね」


 汗で濡れた髪が頬に張りつき、顔は上気している。

 その笑みは、心からの満足だった。


 月の光が壱与の髪を柔らかく照らし、ふたりの影を長く地面に落とす。

 夜風が頬を撫で、稽古で熱くなった身体を冷ましていく。


 ナシリは、しばらく黙ったまま空を見上げた。


 任務のことを考える。

 狗奴国のことを考える。


 そして――この少女の運命を考える。


「……わかった」


 口から出た声は、驚くほど静かだった。


 どうして頷いたのか、自分でも分からない。

 けれどその瞬間だけは、「刺客」としての自分じゃない気がした。


 ナシリはまだ知らない。


「愛」がどれほど人間を変えてしまうのか。

「守りたい」と願う気持ちがどれだけ重いものなのかを。


 風がまた竹を揺らし、月が一瞬、雲に隠れる。


 地面に伸びたふたつの影が、静かに寄り添うように並んでいた。

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