第4話 女王の継承

 風が止まり、夜が息をひそめる。

 空には月も星もない。

 ただ、墨を流したような真っ黒な闇だけが、邪馬台国の上に重く広がっている。


 その静寂の中。

 神殿のいちばん奥。

 松明の赤い光に照らされた狭い一室で、ひとりの少女が小さく身を震わせていた。


 壱与――


 稽古場でアケビと汗まみれになって木剣を振っていた日々から、一年。

 壱与は十三になり、そして今まさに「女王」の座へと押し上げられようとしていた。


 けれど、その胸に広がっているのは、希望でも喜びでもない。

 冷たく、重たい不安。

 息をするたびに、胸の奥で硬い手が心臓をぎゅっとつかんでくるみたいだった。


(怖い……)


 即位の日を迎えることは、壱与にとって「選ばれた栄光」などではない。

 それは、ゆっくりと処刑台に歩いていくのと同じだった。


 パチ、パチ……


 松明の火が小さく弾ける音だけが、重苦しい沈黙を破っている。

 揺れる炎に照らされた壱与の顔は青ざめ、唇からは血の気が消えていた。


 彼女の手のひらの中には、ひとつの勾玉がある。

 赤く、脈打つように光る勾玉。

 かつて卑弥呼の喉元を飾っていた、女王の象徴。


 指先でそっとなでるたび、不思議な熱が手のひらにじんわり伝わってくる。

 まるで、勾玉そのものに生命があるように。

 ドクン、と脈打つその感触に、壱与は思わず指先に力をこめた。


  * * *


 白い帳に囲まれた、病の床。

 燻草の香りが、あたりにたちのぼる。


 痩せ衰えた邪馬台国の女王・卑弥呼が、枯れ木のような手を伸ばして壱与の手を握った。

 その手は、氷のように冷たい。

 骨と皮ばかりの指が小刻みに震えている。


 爪は青く変色し、血管が浮き出ている。

 握り返してくる力はほとんどない。

 まるで、少し風が吹いただけで折れてしまいそうな枝のようだった。


「壱与……お前に……これを……」


 震える指先が差し出したのは、赤い勾玉。

 火皿の光を受けて、ぼうっと赤く光るそれが、病床の空気を不気味に染めていく。


「お前がこの力を使えるのは、一度限り。どこで使うのかを……よく見定めることじゃ……」


 女王にだけ許された、禁断の鬼道――


時駆ときかけ


 時を遡り、世界そのものを巻き戻す、究極の術。


 しかし、その言葉を聞かされても。

 この時の壱与には、それが何を意味するのか、まだ分からなかった。


 翌朝。

 卑弥呼は、まるで眠るように静かに息を引き取った。

 朝靄の中で、女王の最期の息が、白くなって宙に溶けていった。


  * * *


 そして、混乱が始まった。


 ドン! ドン!


 太鼓の音が、筑紫平原に響き渡る。


 偉大な女王が崩御した――


 その知らせが各地に届くやいなや、力を持つ豪族たちや邑長たちは、我先にと声を上げた。


「今こそ男の王を立て、力と剣で国を治めるべきだ!」


 怒号が、神殿の広間に反響する。

 石の床を踏み鳴らす荒い足音。

 木の卓を叩きつける拳の音。

 汗と獣の匂いが混ざり合って、狭い広間を満たしていく。


 彼らは、卑弥呼の遠縁に当たる若い男を引きずり出してきた。

 器量も知恵もない。

 ただ「血統」だけで選ばれた、傀儡の王。


 その場には、壱与もいた。

 神殿の奥、薄暗い広間。

 男たちががなり立てる中、壱与の存在は「そこにいるのに、誰も見ていない」扱いだった。


 何人かの視線が、時折壱与の顔をかすめる。

 だが、その目はすぐに興味を失ったように逸らされる。

 女の子供など、最初から数に入れていない。

 その意識が、何よりもはっきり伝わってきた。


 壱与は膝の上で指を固く組んだ。

 爪が食い込んで、じわりと痛みが広がる。

 麻の衣が、冷や汗でじっとりと肌に貼りつく。

 喉の奥が、砂を流し込まれたように乾いていく。


 松明の炎に照らされた男たちの顔は、鬼のように歪んでいた。

 口から泡を飛ばしながら怒鳴り合う姿。

 権力に群がる、醜い獣の群れ。


「女が神を語る時代は終わった!」


「もはや神託など、誰も信じておらぬわ!」


 卑弥呼が最期に壱与の名を呼び、「後を託す」と告げたこと。

 それを口にした巫女のひとりは、平手打ちでその場に叩き伏せられた。


 バシッ!


 真っ赤な手形が頬に浮かび、巫女は床に倒れる。

 けれど誰ひとり、助け起こそうとはしない。


 新たな男王の即位は、あっという間に決まった。

 まるで獲物を奪い合い、勝ち取った肉を掲げるように、男たちは勝利に酔いしれ、笑った。


  * * *


 その夜。

 神殿へと続く参道。

 松明の火が辺りをゆらゆらと照らす中、新たな男王が護衛と共に石段を登っていた。


 その背後に、ひとつの影が音もなく忍び寄る。

 本当に、一瞬の出来事だった。


 シュッ――


 風を裂く細い音。


 ズシャッ!


 肉を断つ、鈍く重い感触。

 男王の喉から鮮血が噴き出し、声にならないまま、石畳に崩れ落ちた。


 ドサッ……


 転がり落ちる体。

 血が石と石の隙間を伝って流れ、赤黒い筋が伸びていく。


 護衛たちが慌てて振り返った時には、刺客の姿はもうどこにもなかった。

 ただ、神殿の石段に広がる血だまりだけが、何が起こったのかを雄弁に物語っていた。


「何者だ!」


「敵襲だ! 出会え! 出会え!」


 怒鳴り声が夜を裂く。

 だが、護衛たちもまた闇に呑まれて、男王と同じ運命をたどった。

 鉄錆のような、生臭い血の匂いが夜風に乗って広がっていく。


 翌朝。

 首のない男王と護衛たちの遺体が、神殿前に並べて晒された。


 それは明らかな『警告』。

 女王派による、亡き卑弥呼の意思を無視したことへの報復。


  * * *


 だが、それは始まりに過ぎなかった。


「どうか、どうか命ばかりはお許しを!」


「ギャアアアアッ――!」


 各地で巫女が殺され、豪族同士の私兵がぶつかり合い、集落が焼かれていく。

 煙が空を覆い、血の匂いが風に乗って流れる。


 恐怖。

 疑惑。

 沈黙。


 神殿にはもう、神の声は降りてこない。

 人々は絶望し、疲れ果てた声で呪詛をささやいた。


「神が見放した……」


「女王を否定したからだ……」


 震える声。

 希望を失った人々の、低い嘆き。

 その中で、神殿の巫女たちはかろうじて声を張り上げた。


「卑弥呼様は、最期に壱与様を呼び、王位を託された!」


「壱与様こそが、神の意思を継ぐ者である!」


 やがて、重臣や有力な邑長たち、豪族の長たちが神殿に集められた。

 長い、長い密議の末に出された結論。


 それは――

 壱与を次代の女王として立てること。


 その知らせを聞いた時、壱与の胸には、何ひとつ感情が湧いてこなかった。


 嬉しくもない。

 悲しくもない。


 本当に、心の中が空っぽになってしまったみたいだった。


(私をめぐって、人が死んでる……)


 王座を巡って、たくさんの人が殺し合った。

 それを止める力が、彼女にはない。


 名ばかりの即位。

 何もできない女王。

 何も変えられない未来。


 そんな重責が、まだ十三の少女に押し付けられた。


  * * *


 即位を明日に控えた夜。

 壱与は、誰にも告げず、ひっそりと神殿を抜け出した。


 足音を殺し、闇の中をただひとりで歩く。

 土の冷たさが、素足からじわじわと伝わってくる。


 青い草の香り。

 水のせせらぎ。


 辿り着いたのは、小川のほとり。

 壱与は、草の上に膝をついた。

 草は露で濡れていて、衣の膝がじんわりと冷たく湿っていく。


 呼吸がうまくできない。

 胸がきゅっと苦しくて、息を吸うたびに涙があふれそうになる。


 ぽたり。


 涙がひとつ、草の上に落ちた。


(この勾玉なんかがなければ……)


 壱与は、勾玉をぎゅっと握りしめた。

 卑弥呼に握らされたこの小さな石ひとつで、全てがおかしくなってしまった。


 その時。


 手の中の勾玉が――

 脈打つように、赤く光った。


 ドクン。

 ドクン。


 まるで、生きた心臓のように、熱く、重く、強く。

 その熱は手のひらから腕へ、腕から胸元へ、そして全身へと一気に広がっていく。


「……っ」


 全身がびりびりと痺れた。

 目の奥が灼けるように痛む。

 視界が真っ赤に染まり、意識が遠のいていく――


  * * *


 ゴオオオオ……


 焼け落ちていく神殿。

 炎が天を焦がし、黒い煙が空を覆う。

 血の海が石の床を染め、死体が折り重なる。


 逃げ惑う人々の叫び。

 金属と金属がぶつかる耳障りな音。

 肉を裂く生々しい音。

 鼻腔を満たすのは、血と煙と、焼け焦げた匂い。


 アケビの叫び声。


『このアタシが……こんなところで……!』


 ヒイラギの、血にまみれた姿。


『まだ……終わらせはしません……』


 そして――


 ナシリの声。

 血で濡れた唇からこぼれる、最期の言葉。


『……お前を……愛して……いた……』


 鉄の匂い。

 血で滑る指先の感触。

 崩れ落ちる天井の、世界が壊れるような轟音。


 ズゴゴゴゴ……!


 腕の中で、ナシリの体温がどんどん消えていく。

 冷たくなっていく肌。

 完全に、止まってしまった心臓――


  * * *


「……っは」


 壱与は、ゆっくりと目を開けた。

 悪夢から引きずり出されたように、胸が苦しい。


 今のは――未来。

 これからこの国に起こる、そして絶対に避けなければならない厄災。

 卑弥呼が壱与に託したものの、本当の意味。


時駆ときかけ


 それは、壱与自身に未来を選ばせるための、最後の切り札。


 ナシリを救うために、絶望の未来から時を駆けてきた壱与が、いま、あの小川のほとりに跪いている――


  * * *


 明日、壱与は女王になる。

 けれど、今の彼女にもう迷いはなかった。


(大切な人たちを守る。そして何より、ナシリ……あなたを、絶対に死なせたりしない)


 世界をやり直す。

 運命をねじ曲げる。

 絶望の未来を、力ずくで塗り替えてみせる。


 そのために女王になれというのなら――

 冠くらい、いくらでもかぶってやる。


 壱与は、濡れた頬をそっと拭った。


 彼女の歩みは、世界を救うためでも、誰かに讃えられるためでもない。

 たったひとりの「大切な人」を守りたいという、わがままな願いから始まる。


 ナシリを、守る――


 十三歳の少女の、確固たる決意。

 彼女の物語は、いま、ここから動き出す。

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