第6話
魔導具が低い脈動を続けていた夜から二日後。
僕らは魔法学都市ロウェンを発ち、北東へ延びる古い街道を歩いていた。
空は薄曇りで、雲は風に千切られながら流れてゆく。
秋の名残を引きずる風は乾いて冷たく、草原の色は徐々に灰へと沈んでいた。
季節が変わるように、僕らの状況も変わりつつある――そんな予感が、胸の奥で鈍く疼いていた。
「……静かだな」
呟くと、エリオが並んで歩きながら笑った。
「そりゃ街道外れだしな。ロウェンの喧騒が恋しくなるぜ」
彼はいつも通り気楽そうな声色だった。けれど僕の視線が彼に触れた瞬間、ほんのわずかに眉が寄ったのが見えた。
僕の足取りが遅いことに気づいている。息が浅いことにも。
――ノイズが増えている。
工房を出て以来、頭の内に、砂を噛むような微細な音がこびりついて離れない。
風の中に混ざる残響のように、思考の端へ何度も刺さってくる。
それはヴィクターの痕跡に触れた時の症状だ。
(まだ平気だ。歩ける)
そう自分に言い聞かせる。
だが、歩くたび鼓動が重く沈み、視界が時折ぶれた。
焦りだけが身体を前へ押し出している。
*
「次の目的地は、ヴィクターの初期研究施設……だったよね」
リシアが地図を確認しながら言った。
紙の上に描かれた細い線は、今僕らが歩む街道とほぼ一致している。
「そう。魔導具のコアを安定させる素材――《晶質魔灰石(しょうしつまかいせき)》は、今の技術じゃ人工生成ができないの。唯一の手がかりは、ヴィクターが研究していた痕跡だけ」
「ヴィクターは、なぜそんな素材を研究してたんだ?」
エリオが尋ねると、リシアは少し考えた後、言葉を紡いだ。
「……魔力の根源に近づきたかったから。
魔力っていうのは本来“世界が生きている証”で、私たちはそれを借りてるだけ。でも、ヴィクターは――世界の側へ行こうとしたのよ」
世界の側へ。
その言葉が胸を刺す。理解できるような、拒絶すべきような、混乱した感覚が背骨に走った。
(世界と同じ場所に立とうとした魔法学者……なら彼は――)
考えが進むより早く、ノイズが強くなり視界が白く跳ねた。
──風が止む
──砂の音
──白衣の男がこちらを見た
──笑っていた
──孤独だった
「……やめろ」
漏れた声は、自分でも驚くほど弱々しい。
「カイン?大丈夫か?」
エリオの声が急に近くなった。
肩に触れる手――温かい、心配の証拠。
けれど僕は、その優しさを受け止めきれない。
「少し……頭痛がするだけだ」
「昨日からだよな。顔色も悪いし、足元ふらついてる」
穏やかだが、確実に踏み込む声音。
エリオは気づいている。僕が無理をしていることに。
(立ち止まれば、時間が失われる)
焦燥が血に溶けるように広がる。魔導具はまだ未完成だ。
素材さえ見つかれば一歩進めるのに。
「歩ける。行こう」
短く切ると、エリオは眉を寄せたまま僕を見た。
疑っているのではない。
ただ、僕の壊れそうな部分に手を伸ばそうとしている。
その姿が、胸を焼いた。
*
昼を過ぎる頃、街道は森に飲み込まれた。
木々は硬くねじれ、枝は空を塞ぎ、太陽はほとんど地面に届かない。
湿り気を含んだ空気は重く、土の匂いが濃い。
歩けば歩くほど、ノイズは強くなった。
音もなく耳の奥で擦れる砂粒。神経の芯をひっかく金属音。
そして断片的な映像が脳裏を走る。
──実験室
──砕ける結晶
──光の雨
──背中で泣き濡れた声
誰の声だ?
(俺は……知っている?)
ヴィクターの記憶の欠片のようなものが、意識の層へと染み込んでゆく。
それは理解できないはずの感情に形を与えはじめる。
《どうして世界は僕を拒む?》
知らない声が、僕の思考に重なる。
悲しみとも怒りともつかない響き。
孤独と諦念――まるで、誰かの祈りの残骸だ。
次の瞬間、僕は足を止めていた。
頭を押さえなければ崩れ落ちそうで、呼吸が浅くなる。
「カイン!」
エリオの手が背中を支える。
本当は大丈夫なんかじゃない。
でも、弱さを晒すわけにはいかない。
僕はエリオの手を振り払った。
「触るな。……行かないと」
声が震えていた。自分でも分かるほどに。
リシアが不安げに近づく。
「無理しないで。ノイズ、酷くなってるんでしょう?
施設に近いほど残響は強くなるはず。今は休――」
「時間がないんだ!」
叫んだ。
その声は森に跳ね返り、空気を震わせた。
沈黙が降りる。僕の荒い息だけが響く。
エリオは静かに口を開いた。
「カイン。お前は……本当に大丈夫なのか?」
優しさを含みつつも、はっきりと踏み込んだ声。
今まで一切疑わず、ただ見守ってくれていた彼が――初めて核心に触れた。
逃げ場はない。
でも、答えられない。
命令だけが僕を支えている。
(前へ進め。使命を遂行しろ。それだけだ)
けれど――エリオの視線が、僕を追い詰める。
「……俺たちに、何か隠してないか?」
その問いが、胸の奥の古傷を抉った。
喉が震え、言葉にならない音が漏れる。
(言えない。言えば壊れる。俺も、彼らも)
だから僕はただ一つの言葉だけを吐き出した。
「……行かなければならないんだ」
その声は、誓いのように硬かった。
リシアもグランツも言葉を失う中、
僕らの前に――霧に沈む黒い建物が姿を現した。
ヴィクターがかつて研究に使用した廃研究施設。
ノイズが限界まで高鳴る。
脳裏に、誰かの絶望が流れ込む。
──あの日、僕は世界を救えなかった
それは、僕自身の声に聞こえた。
――火花が散った。
刃と刃が噛み合う衝撃が、鼓膜の奥にまで響き、心臓の鼓動と同じリズムで脈打った。
俺の視界いっぱいに広がったのは、黒銀の斬撃。
シェリアの瞳は夜明け前の空みたいな色で、微かに震えていた。
斬り結んだまま、互いに後ろへ跳ぶ。
足裏が土を砕き、その反動を利用して間合いを取り直す。
息は白く散るのに、身体は熱くてたまらなかった。
――まだやれる。
膝が笑うのを無理やり押し殺し、目の前の少女へと駆け出した。
月光が彼女の髪をすべって流れ落ちる。
その一閃、その呼吸、そのすべてが美しかった。
剣の才に恵まれた人間が、努力の先で辿り着くべき到達点――
本来なら敵に回したくないほどに。
だが今は、相対するしかない。
「ユリオ、下がって!」
叫びと同時に、彼女の刃が弧を描く。
鋭く、しかし俺を殺すには甘い。その優しさが逆に、胸を締め付けた。
なら――俺が、踏み込む番だ。
(ルールを書き換える)
意識の底で弦を弾くように言葉が響く。
脳が焼けるような痛み。その代わりに、世界が一瞬だけ揺らぐ。
風が止まった。
草のざわめきも、夜の呼吸も、すべてがぴたりと凍り付く。
俺だけが、動ける。
――制限時間は数秒。
この間に一撃を入れなければ意味がない。
刃の軌道が残像のように見える。
止まった世界の中で、俺はシェリアへと踏み込み、剣先を喉元へと突きつけた。
あと少しで届く。
勝てる。
そう思った瞬間、
世界が、戻った。
金属音。火花。
俺の剣は寸前で弾かれていた。
シェリア自身が止まった世界の”余韻”に追いついたのだ。
「やっぱり……あなた、ただの旅人じゃないね」
呼吸は荒く、だがその眼差しは揺るがなかった。
俺は言葉を失っていた。
喉が張り付く。息が出ない。
魔法でも奇跡でもない。
ただ、世界の”決まり”を書き換えた。
この力は、理解されれば――恐れられる。
「どうして力を隠してたの?」
その声は風より静かで、焚き火よりも優しかった。
俺は笑うことも、誤魔化すこともできず、ただ――正直に言った。
「怖かった。
この力を知った人が、みんな離れていくんじゃないかって」
シェリアは目を丸くし、そして小さく息を吐いた。
まるで肩の力が抜けたように、ノクス=アスクレイアの切っ先を下げる。
それから、ぽつりと呟くように言った。
「じゃあ、離れないよ」
心臓が跳ねた。
焚き火の音が戻り、夜風がふたたび草原を渡る。
世界の音が、少しだけ温かく聞こえた。
やがて俺たちは剣を収め、焚き火の側へと腰を下ろした。
火がパチパチと弾ける音が妙に心地よい。
シェリアは夜空を見上げながら言った。
「力は誰かを傷つけるためじゃなくて、守るためにあるんだと思いたいの。
だから――もし迷ったときは、私が隣で考えるよ。
一人で抱え込まないで」
その横顔は、どこまでも真剣だった。
信じようとしてくれているのが伝わった。
胸が苦しくなるほど嬉しかった。
「ありがとう。
本当に……ありがとう」
言葉が震えた。
情けないと思ったけれど、止められなかった。
シェリアは笑った。
柔らかく、夜露みたいに優しい笑みだった。
そして夜は、静かに、更けていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます